青年が小さくせわしない羽音を耳に留めたのは、重い玄関扉を開けて暫くたった頃だった。

このところの経済不安で仕事は山積。会議の為の会議、結論に行き着くほどに憂鬱になる勉強会、そして他国との交渉。
国境を交える国が多いだけ交渉相手は増えるもので、こういうときはなんとなし、極東の海に囲まれた場所に佇む友人を思い出してため息をついたりもする。‥‥もっとも、その立地だからこその苦労があることも十分承知してはいるのだけれど。
ともあれ今の彼には目下早急に解決しなければいけない議題があり‥‥道が一筋であれば如何様にもできるのに、とため息をつくばかりの毎日で。 つまるところ、自宅に帰ることさえ儘ならない日々を送っていたわけだが。

パタパタパタ、パタ、パタ。

「‥‥?」

久しぶりに帰宅した屋敷は、しかしながら休暇ではなく会議に必要な書類を取りに来たつかの間の滞在。長く屋敷を離れたわりにどこも変わっていないように見えるのは、そもそも日頃から清掃に励んでいた賜物であると同時に、‥‥同居している身内が、それなりに頑張ってくれているのだろう、と考える。
まぁ、久々の帰宅に出迎えてもくれない相手だが。

その代わりとでもいうのだろうか。‥‥この、兄に懐いている小鳥の登場は。

「ああ、その‥‥ただいま?」

とりあえず、真面目くさった声で挨拶をする。
常日頃から生真面目で表情が硬く、怖い印象を与えがちな青年であったが、さすがに飼い主は違えども一つ屋根の下に住んでいる相手だったからだろうか。小鳥は彼の鹿爪らしい表情での挨拶にも動じることなく、ビジネス仕様の服装に身を包んだ飼い主の弟の差し伸べた指先に、ちょこりと止まり降りた。

「元気にしていたか?きちんと餌は食べているのか」

その問いに小鳥はタンポポ色の羽を二度ほどバタつかせ、ことん、と首を傾げてみせる。
小鳥特有のほのぼのした仕草に、青年の鮮やかな矢車草色の瞳と口元が、微かに緩んだ。
そもそも動物が大好きな青年である。彼が飼っている犬を議場近くに取っているホテルに同行させる程度には彼は人ではないパートナーを愛していたし、それを不思議に思われないほどにこの国での動物の地位は高いものだった。
この小鳥も飼い主のことが好きなのだろうし、またこの家に棲んでいる以上、家主たる青年がこの小鳥を気遣い可愛がるのは当然の権利であり義務でもあった。

「なにか足りないものはないか?‥‥まぁ、兄さんもあれでそれなりにやってくれるだろうが」

邸内を早足で進みつつ、青年は指先から肩へと居場所を変えた小鳥に問いかけのような独り言のような言葉を与える。スーツの肩に食い込む小さな爪先が僅かに最高級の布地を引きつらせたが、気にする青年ではなかった。早足に落ちないようにと、節くれだった大きな手のひらで包み込むようにして、小さな身体の位置を調整してやる。
微かに触れた手のひらに伝わる体温は、とても温かで柔らかい。
トコトコトコトコと早い心音は小動物ならではで、‥‥不意に、こみ上げてくる愛しさと保護欲に、青年はくっと唇をかみ締めた。

‥‥そうとも、今のこの国は経済不安で課題が山積み。けれど、それを解消しなければならないのだ。この地に住まう全ての人間と、‥‥こうして寄り添ってくれる、全ての愛しいパートナー達の為に。




それは自分にしか出来ないこと。‥‥彼の、『ドイツ』の存在意義。




ふわり、と小鳥が不意に飛び立った。
パタパタと小さな羽を懸命に羽ばたかせ、飛び去った向こうにいたのは。

「‥‥兄さん」
「よぉ、ヴェスト帰ったのかよ」

くわぁ、とあくびをしつつ兄がおっとりとした足取りで階段を下りてくる。ぞんざいに留められたボタンの白いシャツの裾は濃い色のストレッチパンツの裾からはみ出ており、その上からエプロンをつけている。いかにも家で過ごすらしい、家事用のいでたちである。
パタパタと飛んだ小鳥は、見事に彼の兄である(‥‥何故か普段リビングに置いているパンダのぬいぐるみを小脇に抱えている)プロイセンの頭頂部に着地した。
白銀の短髪は、さながらあまり手入れのされていないが居心地のよい小鳥の巣、といったところだろうか。
自らの考えにヴェストと呼ばれた青年‥‥ドイツは思わずふきだした。
その笑い声に、がしがしと銀色の頭をかき混ぜながら‥‥小鳥の座っている場所を絶妙に避けているのは無意識なのだろうか、階下へと降り立ったプロイセンは、赤みの強い目を不審げに眇めて弟を見遣る。

「なんだよ?疲れてイカれちまったか?」
「ああ、いや。そうじゃない」

兄の不審げな‥‥否、心配げな目線にドイツはぱたぱたと眼前で手のひらを振って返した。
そうとも、疲れてはいるが、イカれてはいない。
イカれている暇はないのだ。

「ふーん。‥‥で、メシにするか?もう仕事終わったのかよ」
「いや、また議場に帰らないと」
「そか。まぁ、ちょっとくらい時間はあんだろ、メシくらい食ってけよ。スペインに教えてもらったジャガイモのスープ、マジウメェからよ」
「いや、俺は、」
「反論は認めねぇ。ほら、来い」

どこかの大国にも似た台詞を言うなり身を翻した兄の後姿を、ドイツはどこかぼんやりと見送る。

兄の後姿。その頭には小鳥。‥‥それが、自分の守るべきもの。

ふわりと、厳しい顔に笑みが浮かぶ。
そう、今この国には、この世界には問題も不安も山積みだけれども。




(守るべきものは、知っているから)




ヴルストあったっけ、ともそもそ呟きながら台所へと向かう兄の背中を追いかけて、ドイツは足を踏み出した。
白銀の棲家に腰を落ち着けた小鳥が、パタリと一度羽を振って、飼い主の弟の帰宅を改めて出迎えてくれた、ように見えた。

「兄さん」
「ん?どうしたよ」
「ただいま」
「‥‥おう、おかえり」




パタリと振られた羽から、タンポポ色の羽根がふんわりと舞った。
春の色だな、となんとなく思って、ドイツはもう一度、笑った。