犬には時間の感覚がないという。




さわりと揺れた空気に、ぷわぷわとした耳がぴるんと動いた。
小さな、小さな耳だ。身体も小さいのだが、もこもことした毛並みと相俟ってますます小さく見える耳は、けれど立派に感覚受容器としての役目を果たして、彼の頭を擡げさせた。
縁側から見上げる空気が、震えている。
見上げた空は透明な青ではなくて、うっすらと灰色をしている。くも、というのだと、知っている。

いつのことだかは、知らないけれど、そう聞いたから、覚えている。
いつからかは、知らないけれど。

風が巻いて、庭の木々を揺すって音を鳴らした。
まぁるい小石が抗いきれず暗い土の上を駆けていく。
ひくひくと揺れる耳が捉える音は、空気の鳴動する音だ。ゆっくりと大きく、大きくうねるように動く、音。
いつもと、違う其れ。

いつも、というのがどういうのかは、覚えてないけれど。
いつも、‥‥いつもって、何?いつも。いつも一緒に居るのは、あのひと。

カシン、と小さな爪が飴色の廊下を掻いた。
もこもことした毛並みが駆け過ぎる風に揺れる、揺れる。
鳴動する空気なんて気にせずに、ただ、彼の求める者のもとへと。




「おや、ポチくん」




ぱふん、と飛び込んだ腕の中は、温かい。
揺れる空気も風もそこにはなくて、ただ温かく、ほっそりとして薄い腕と相手の匂いに包みこまれて、彼は安心する。とても、安心して、目を閉じた。

安心、ここは。いつからかは知らないけれど。
いつまでかは、わからないけれど。

「‥‥ああ、貴方達にはわかるのでしょうかね」

落ち着いた声が、彼のほよほよとした毛並みを撫でるように降り注ぐ。
腕の中よりも少しだけ温度の低いつるりとした指先が、彼の身体を覆う毛をくしけずるように、ゆっくりと動いた。
くふん、と鼻を鳴らせば、彼の飼い主は薄く笑ったようで、胸に押しつけた身体ごし、ゆるゆるとした拍動が伝わってくる。
サァ、と風が巻いて、庭木を揺すった。抱き上げられて高くなった目線、先ほどまで彼が居た縁側の階へと、ごく密やかな足音と共に、移動する。

風が、唸る。空気が震えている。

「日食、と言うのですよ」

主の滑らかな声音が、彼のふわふわとした耳を震わせた。

「お月様の後ろに、太陽が隠れてしまうのです。‥‥大丈夫、すぐに戻りますよ」

すぅ、と翳った空気の色、鳴動する空気。
けれどその腕に抱かれていれば、怖くない。怖くない。いつだって。

「‥‥この星が生きている証です。この大地が、太陽が月が世界が全てのものが移りゆき、過ぎ去り、零れ落ちていく時間の証明。どれほどの血を流そうとも、どれほどの科学力を身に着けようともこの営みには敵わない。‥‥私の存在など取るに足らないものだと思い知らされるようですが、」

深い、深い主の声。ずっとずっと聴いてきた。
ずっとずっと傍にいた、大切な、相手の。

「‥‥まぁ、それもこの『私』達の、過ぎ越し方です。そう、どの国も」

すり、と暖かな胸元に擦り寄れば、きゅうと抱き締められて、安心する。
いつまで、いつからなんて、知らない解らないけれど。けれどいつもいつまでも、一緒にいる、このひとは彼の、大切な。




「大丈夫ですよ、ポチくん。貴方のことくらいは、私にだって守れますとも。いつまでも一緒に、いるのですから。」




ね?と優しい声音の問いかけに、わん、とひとつ彼が応えて鳴いたのに、主はあでやかに微笑んで。
人知の及ばぬ力ある美しい影に夜色の瞳を向けて、腕の中に納まった共に生きる柔らかな重みを優しく、慈しみを込めて撫でた。









「‥‥もしもし?ああ、アメリカさん。‥‥は?皆既日食ツアー?‥‥貴方ねぇ、仕事ほっぽりだして他国まで来て何してるんですか。‥‥ああ、有給?‥‥バカンス?あいにく日本にはそんなサービスありませんよ。‥‥はぁ‥‥まぁ、別にいいですけど、って、ウチにきてもたいしたものは出せませんよ?‥‥あー、ダイエットですか、貴方も懲りな‥‥いえ、なんでもないです。はいはい、‥‥え、カナダさんもいらっしゃるんですか?また無理言って連れてきたんじゃないでしょうね、あなた。‥‥ううん、なら何か良いものでも作りましょうかね。‥‥は?自分と随分態度が違う?そりゃまぁ普段の行いが‥‥いえ、なんでもないですったら。‥‥はいはい、‥‥わかってます、お待ちしておりますとも。それでは。‥‥あ、くれぐれも玄関から入ってきてくださいね。窓枠壊すとか止めてくださいね!‥‥はい、はい。それでは失礼」

ピッ、と軽やかな電子音は彼の主の手のひらに収まるサイズの携帯電話から。
小さな身体の犬を抱き上げていても扱えるサイズの其れをゆるゆるとしたため息と共に懐にしまいこんで、ひとつため息をつくのを腕の中から見る。

「まったく、あのひとも落ち着きがないですねぇ。まぁアメリカさんの好きそうなショーではありますけれど。‥‥まったく、うちは51番目の州じゃないんですけどねぇあのスットコドッコイ、ちょっと伊豆小笠原海溝辺りに沈んで黒潮に洗濯されてくればいいのに‥‥」

ぶつぶつと呟く主にひとつ頷くように小さく鳴けば、微妙に絶妙ななんだかアレな空気を醸していた瞳に、再び小さきものを慈しむ優しい光が戻る。

「ああ、ポチくんもごはんの時間ですね。カナダさんがいらっしゃるということは、あのシロクマさんも来るんですかね?なら銀鮭でも‥‥、ポチくんも、シャケが昔から好きですよね」

訊いてくる言葉に、ひとつ返事。シャケ、鮭。おさかな。大好き。
昔、昔っていつ?いつからかは覚えてないけど、このひとが言うんだから、昔から好きなんだろう。

「じゃ、ポチくんはシャケごはんにしましょうか。‥‥ああ、ほら、日食が終わりますよ」

その声と共に夜色の視線が淡く翳っていた庭へと流された。
スゥ、と空気がざわめいて、光を運んでくる。辺りを渦巻く風が影を取り払い、薄い灰色の空へあでやかな光の青を刷いていく。

空。薄い青の空、灰色の空、優しい主の傍で、いつまで一緒に見られる?




(いつまでも、いっしょに。)




犬には時間の感覚がないという。
けれど、共に在る相手の存在は彼の中にしっかりと根付いて、いつも、いつまでも傍にいると。
ふわふわとした耳を揺らして、彼はいつだって、思っている。




だから彼には、時間の感覚など必要ないのだ。