滑らかな感触が指先に擦りつけられる感覚に、意図的に拡散させていた意識を速やかに収束させていく。
自分を『自分』に収める感覚は言葉として言い表すには難事だが、感覚としては結構、すっきりとするものだ。自分を『自分』にする感覚、といってもいい。あるいは、自分を作り直す感覚。自己の存在を肯定する工程を解き明かす回路。‥‥メタフィジックな思考工程は、そういえばはるか昔に海向こうの女神の如き美しさをしていた国に抱かれ、教わったものだ。
‥‥そう、あの頃は偉大だった祖父も、小さく無邪気だった弟も一緒に居た、一番穏やかで幸せな‥‥
そこまで考えたところで彼はフルリと首を振り、其処に至る一切の思考を強制終了した。考えても、詮無い事だ。
瞬きひとつで思考を切り替える。そうすれば目の前には、数々のカンツォーネに賛美される世界でも有数の美しき入り江の夕暮れ、そして、手元には。
「‥‥素敵な誘惑だね、子猫ちゃん?」
澄んだ甘い声に応じたのは、やはり甘い、可愛らしい声。
ただし、人の言葉ではなかったが。
ひょい、と柔らかな身体が片腕ですくい上げられる。人間よりずっと高い体温と滑らかな被毛、四足の骨格はとてもしなやかで、猫科特有の優美で優雅な感触だ。
仔猫というほどには小柄ではないが、成猫と言いきるにもまだ若過ぎる猫は、年の頃でいえば思春期、といったところか。‥‥美しい異性に気を惹かれるのも当然な頃、なのかもしれない。
少し年上の‥‥実際には、遥かに年長の。美しい存在に。
腕の中、甘い声で鳴く猫に、彼は甘く艶やかな笑みを向ける。
どこかの隣国ほどには性別種族無機有機に頓着しないわけではないが、可愛く可憐な存在は、それだけで愛する価値はあるだろうと思う。
ましてそれが、己の土地に住まう存在ならば、尚更。
海辺の街の、もっとも美しい海辺をぼんやりと眺めていた自分にそっと寄り添い来る存在を、邪険にすることなど考えられない、というものだ。
とはいえ、腕の中のふっくりとあたたかな存在が誰かの庇護下にあるならこれも別の話となる。
「首輪はしてねぇか‥‥どこから来たんだ?そろそろお家に帰る時間だろう?」
とうに太陽は西の海に沈んだ時分、人の言語による返答はないと知りつつも、つい甘い声で話しかけてしまう。
今は両手で脇下に腕をいれ、吊り下げるように持ち上げて目線を合わせている猫は、美しい焦茶の目を彼に向けて甘く鳴くばかりだ。人の手に慣れた反応は、明らかに飼い猫のものである。‥‥否、野良であったとしてもこの辺りは誰しもが小さきものたちを愛しているから、この人慣れにも納得はできなくはないのだが。
‥‥ああ、いや、それとも。
「俺にこそ、家に帰る時間だと告げにきてくれたのかな?」
その呟きに被さるように、カーンカーンカーン、と甲高い金属音が高台から降るように、夕暮れの鳴り響いた。そして響く、女性の歌声。
ピクンと振れた、腕の中の猫の耳に同調するように見上げた場所には、どっしりとふくよかな身体を軽快に揺らしながら、可愛い小さき者達を呼び寄せる女性の姿があった。手には金属製のレードルと、大きな寸胴鍋。きっとその中にはこの街でゆったりと暮らす猫たちの為の温かな食事がたっぷりと詰まっているに違いない。見る見るうちにそこかしこから、優雅で滑らかで、そして甘えた動きで猫達、そして犬達が姿を現す。
彼女は張りのある声で優しい歌を歌っていた。
朗々と、正しくこの国に住まう人間らしい美しく軽快な、そして母の愛がたっぷりとこもった、小さき生き物達を呼ぶ歌声。
青年はその世界で一番美しい歌声に、ふわりと笑みを零した。
そして、腕の中で彼に懐きながらも己を呼ぶ歌声にぴるぴると耳を揺らしていた若い猫へと、声をかける。
「ああ、あれがお前のマンマだね?素敵なひとだ」
腕の中にいた猫の鼻にそっと己の其れをぶつけると、青年は猫の身体を地へと下ろしながら、美しく微笑んだ。
「さ、行きな。己のあるべき場所へ」
艶やかで、鮮やかな。
それは嘗て世界を魅了した、この世でもっとも美しい土地が持つ世界一の笑み。
トトト、と軽やかな足音を立てて優しい母親の元へと駆け去る小さな後姿を視線で追っていた彼のポケットに、やはり軽やかな電子音が鳴り響く。
バイブレーションつきのその呼び声に、彼は一瞬甘やかに笑った後、わざとらしいほどの仏頂面をその整った面立ちに浮かべながら、夕暮れの海辺には不似合いなほどに明るい音楽を響かせる携帯の通話ボタンを押した。
「‥‥‥‥なんだよ」
精一杯不機嫌を装った声は、きっと相手には正真正銘不機嫌、と受け取られているだろう。何せ、相手は大西洋の向こうにいる大国と並ぶKY国家だ。
受話器のむこうの声が、わたわたおたおた、懸命に言葉を綴っている。其の間も彼は、すっかりと太陽を呑み込んで、今はほの白い星明りに輝く美しい水面へと視線をやっていた。
「‥‥うっせぇよ、ゴメンで済めば警察はいらねえっつーのが世界の常識だろーがコノヤロー」
打ち寄せては引く優しい波の音が、受話器越しの声に紛れて彼の耳をくすぐる。かたや悠久の時を経た星の音、かたや慌てた‥‥まぁこちらも時間だけはたっぷりと経てきた筈の、人の声。
幸せだった時代。偉大な祖父、可愛い弟を引き離され、優しかったギリシャの母もなくして過ごした幸福の日々を越えて、‥‥優しくいとおしい、長い時間を己を愛しんでくれた相手。
「‥‥仕方がねーな、‥‥海鮮いっぱいのパエリア用意するなら、許してやんなくもねーぞ。あとトマトのパスタ」
どうしても捻くれた回答しかできない自分を、それでも優しく(‥‥何も考えてないだけかもしれないけれど)受け入れてくれた相手。
自分の言葉に、きっと受話器の向こうで財布を引っ掴んで海鮮市場へと飛び出そうとでもしているのだろう。なにやらあちこちにぶつかる音や、それにまぎれてこちらの機嫌を伺う言葉や、あと、愛の言葉を織り交ぜた声が、受話器の向こうから届く。
「‥‥‥‥ああもう、いいから。‥‥いまからそっち行くから、落ち着けっての。‥‥うん、そう、帰るから」
目の前には、星にきらめく海。
打ち寄せる波は穏やかで、空は紺青の天鵞絨のよう。
誰もが愛する人の待つ家に、帰る時間。
『うん、待っとるから。俺んとこに戻ってきてや、ロマーノ』
受話器の向こう、彼は優しく偉大なマンマじゃないけれど。
けれど、自分を大切にしてくれるひとだから。
一言、二言、更に言葉を重ねてからロマーノは携帯電話をポケットに収める。
ふ、とひとつ息をついて空を見上げれば、そこはすっかりと日暮れて美しい紺青。そして、視線を滑らせれば降り落ちる星を抱いて波音を歌う、美しい入り江。‥‥この西の果てには、いつだって朗らかに笑う己の恋人の国。
「しゃーねぇ、帰ってやるか!ったくよー」
ロマーノは身を凭せ掛けていた石の垣根から勢いよく身体を起こす。
ふと、高台か甘い鳴き声が聞こえた気がして、高く振り仰いだ。母親の元へと帰っていった、柔らかな肢体、美しい被毛とブラウンの瞳を思い出す。
不意に、自分を待つ陽気な男のきらめく髪が脳裏を過ぎった。
「‥‥『さ、行きな。己のあるべき場所へ』。」
満天の星空のもと、自らが口にした言葉をそっとなぞって歩き出す。
その口元に宿る、世界で一番甘い微笑みは誰にも明かされぬまま。