視界の端を横切った黒い毛玉に、青年は書類を読みつつ大きなストライドで歩いていた足を少しずつ緩めて止まった。
パサリと手元の紙束が可愛らしい声を立てる。もっとも、紙束に書いてある内容はといえばちっとも可愛らしくもないことばかりであったが。
青年、と呼びきるには若干幼さの残る甘めの顔立ち。けれど表情は溌剌として明るく、彼の笑顔ひとつで相対する多くのものを幸せに出来るような不思議な魅力を持った面差しをしている。
この場所に‥‥世界に冠たる強国の文字どおり中枢である建物にいるような年齢には決して見えないのに、それでいて誰よりもこの場所に馴染む雰囲気。
そして今、青年は彼の持つ魅力を最大限押し出した笑顔で、最上級の絨毯の上を無邪気に歩いていく黒いふわふわに声をかけた。

「Hello、君がここのもっとも新しい住人だね?」

澄んだ快活な声に、とっとっと、とふわふわの四肢を動かし新しい住処を探検しようとしていた毛玉の黒い鼻先が、彼に向けられた。
小さくて柔らかそうな、そして愛されることを無条件に信じている愛らしくも聡明な瞳に、青年がにっこりと笑う。

「おいで。仲良くなる挨拶をしようよ」

そう言うや、青年は手元の分厚い紙束をフライトジャケットのポケットに突っ込んでいたパナマ封筒にまとめて収め、脇に挟み込んで空にした両腕で、小さな住人を手招いた。
ふるり、と黒い毛玉のしっぽが揺れる。二度、三度。
青年の笑顔は揺るがない。まるで此処が真っ青な空の下にある広大なドッグランかなにかといわんばかりの、無邪気で、快活な雰囲気だ。
ととと、と黒い毛玉が彼の足元に寄って行く。深紅の毛足のそろった絨毯は、欠片の足音も立てさせず小さな生き物を彼の元へと導いた。

「やあ、改めてこんにちは?ワォ、素敵な白いソックスだね!」

その場に膝を着いた青年が、まるで学生サークルの歓迎会での初対面めいた褒め言葉を口にしながら、ふわふわとした黒い毛玉の首元をくすぐった。
ふるふると黒いしっぽが揺れる。どうやら青年の挨拶に及第をつけたらしい毛玉は、彼の前にちょこりと座ると、黒く濡れた瞳をにこにこと笑う青年へと向けた。
使い込まれた軍靴が、靴下を履いたように白い前肢のすぐ手前にある。
ずっしりと重いパナマ封筒を無造作に床に置いた青年は、黒い新しい屋敷の住人を愛情のたっぷりこもった優しい手つきで撫で、くるくると巻いた毛並みを優しく梳った。
ふわりと、青年の目元が緩む。

「ああ、あたたかい身体だね」

手のひらから伝わるのだろう、トコトコと早い心音や、はるか昔から人類のパートナーとして歩んできた種の来歴をまるで慈しみ、愛しむかのような指先で、青年は小さな住人を撫でる。

そして、世界の数億分の一の人間しか踏み入れることを許されない、世界の中枢たる白城の奥深くで、いっそ厳かささえ感じられる、澄み渡った声で、青年は‥‥人ならぬ、この場所のもっとも古い住人は、そっと呟く。

「君と、君の上司に幸あらんことを。‥‥助けてあげておくれ、あの人を、ね?」

澄みわたる、しかし誰よりも厳かな声で。

「アル‥‥アルフレッド!」
「今行くよ!」

じゃぁね、また今度フリスビーでもして遊ぼう!そういい残した青年はすっくと立ち上がると、黒い毛玉が出てきたばかりのオーバルルームへと消えていった。広い背中。幼さと大胆さ、老練と未熟がない交ぜになった複雑な空気。

重厚なドアの向こう、誰よりも愛する己の飼い主が、青年に丁寧に挨拶をしているのを視界の端で捉えた毛玉は、しばしその場にたたずんだ後、再び新たな住処の探検へと繰り出した。




『君と、君の上司に幸あらんことを。‥‥助けてあげておくれ、あの人を、ね?』




この屋敷の、この国のもっとも古い住人から渡された言葉は、この屋敷のもっとも新しい住人たる小さな小さな黒い生き物の生涯の指針となり、深く深く、小さな身体の中に馴染んでいった。