フランスの恋人は仕事中毒だ。
「うっわ‥‥」
言葉も口調も眉間の皺も、何もかもで呆れた風を体現した声は確かに届いたはずなのに、頭を上げる気配もない。
その事実にさらに眉間に皺がよることを自覚しつつ、フランスは勝手知ったる書斎へと、慎重に、足を踏み入れる。慎重に、ならざるを得ない。何故といって、そこら中に下らない書き付けから第一級国家機密文書までがそれはそれは無造作に、散乱しているからだ。
フランスはため息をつく。デジタル文書にすれば(少なくとも物量的視覚的な)苦労はないはずなのに、こんなところばかり‥‥いや懐古趣味はコイツの根幹か。ともかく古き良き時代大好き状態にならなくても良いだろうに。
「イギリスー、生きてるー?」
競技ダンスの厳格な規定ステップよりも慎重に、僅かの足場を捉えて歩み寄ったのは見慣れた隣国の書斎机。権威主義的な主らしい、上品かつ重厚である種の威圧感を与える広々とした紫檀の机は、けれどその威圧感も上品さも積み上げられた書類で台無しだ。
もっとも、台無しにしている最たるものは、金髪頭を投げ出すというか放り出すというか、仮眠だとか休憩中というには些か語弊のある直裁さで書類とパソコンの隙間に撃沈している、いろいろ台無しな書斎机の、ひいてはこの部屋この屋敷の主たる、イギリスなわけだが。
「おーい、死ぬなら鍵かけて密室殺人か何かを装ってほしかったなーそしたらどっかから名探偵がやってくるでしょうに。ねぇ?」
再度ため息をつきながらの問いかけにもたっぷりと嫌みったらしい色を落とし込んだにも関わらず、反応がない。
その無反応という反応に、フランスは深いため息をつく。
これが普段であれば、と仮定すれば。
およそ彼の愛する北米の子ども達や紳士然とした態度が当たり前になっている東洋の友人辺りには決して聞かせないような口汚いスラングの一つや二つや十や二十、或いは予備動作無しの急所を狙いまくった蹴りや拳が、あの悪巧みをしているときこそ最も輝く常緑の瞳とセットで飛んで来ているに違いない。
違いない、筈なのに。
フランスは幾度目かのため息と共に、目の前の惨状(まさに!)をじっと見遣った。
飽和状態の書類に埋もれた金髪は、すっかりと荒れてパサついてしまっている。
極力露出を控えたスーツスタイルは机に伏せているせいで背中しか見えないがごく普段どおりのもの。だが、どう贔屓目に見てもカラーが空き過ぎだ。首元や鎖骨付近、さらには背中の肉が削げたのだろう。短く刈った金髪の襟足からシャツの襟までなんていう本当に僅かの露出で痩せてしまっているだなんてことが判るのはどうなっているんだ。
おかしい。おかしすぎる。何だって言うんだ。おかしいだろう!
繰言めいた其れは声にこそ出さないが、既に数え切れないほどに思ってきたことだった。何年、何十年?何百年!つまるところ其れが、この惨状が今日限りの始末ではないことを告げている。
イギリスはおかしい。仕事が好きだから?仕事中毒の典型?
そんな言葉で済ますべきではないレベルな気がする。少なくとも愛と美と健康のために美しく仕事をする、というフランス自身の基準では。
まぁ、仮にフランスがこの現状について言葉にして言及したところで返ってくる言葉はわかっているのだが。曰く、「俺の基準ではギリギリ普通レベルだ」。‥‥ギリギリと自分で言ってしまう辺りのどうしようもなさを果して自覚しているかどうかは定かではないけれど。
「なぁってば、イギリス。仕事終わった?生きてる?‥‥返事をしろー、寝るなー寝ると死ぬぞー」
「‥‥‥‥むしろ寝ねぇと死ぬ」
ここは雪山じゃねぇ。あと、一応、終わった。
ザラザラとした言葉は、撃沈した金髪頭の微かな身動ぎに合わせてだ。
返答を欠片も期待していなかったフランスは一瞬息を詰めたのだが、即座に、けれど慎重に、己の身を屈ませて、荒れた金髪頭に己の其れを寄せる。
碌にシャワーも浴びていないのだろうほんの少しベタついた金色に、重みを掛けないよう鼻先を埋めれば、普段は土と薔薇と紅茶の匂いに彩られている筈のそこには、無粋なインクの匂いが染み付いている。
おかしいよ、ねぇおかしいだろイギリス。
単調な繰言はしかし声に出されることなく自分の内側に降り積もるばかりで、麗しの常緑は、黒ずんだ瞼の下に収められたまま。
「‥‥寝ないと死ぬってわかってて起きてるお前は消極的な自殺願望でもあんの?あとお兄さんのこと見てよ。寂しいよ」
「テメェが寝るなっつったんだろうが」
唇を寄せて話す先の金髪が煩わしげに動かされたのに合わせて僅かに身を引けば、代わりとでもいうように白い、少しやつれ削げたもののやはり滑らかな白い片頬と、やはり疲労の浮いた薄い瞼が露わにされる。
机に力なく身体を伏せたまま、ようような仕草で首を捻り、片頬を机にぺたりとくっつけ目は閉じたまま。それでもフランスの‥‥恋人の。懇願に答えてくれたことに、なんとも言い難い気分に駆られた。
「イギリス、」
フランスの恋人は仕事中毒だ。
中毒、の名のとおりいっそ病的なまでに仕事が大好きで、まぁそれは人を(主にフランスを)陥れるのとか踏みつけるのとか高笑いするのが大好きという誉められたものじゃない性格上の問題もあるのかもしれないけれど。いやしかしそれにしたって、とフランスは思うのだ。
まる一日前に訪れた恋人宅、勝手知ったるなんとやらで文字通り勝手に、掃除をしてみたり食事を拵えてみたり完璧なベッドメークをしてみたりと過ごした24時間、一度も彼が書斎から出てきた瞬間を捉えていない。一体いつからこんな生活をしていたのかなど、から恐ろしくて想像すらしたくない。‥‥フランスが甲斐甲斐しくスープだの水だのサンドウィッチだのを差し入れていたことも多少関係しているのだろうが、水以外のそれらが殆ど減らないまま書類の脇に追いやられているのを見るにつけ、差し入れがなくとも変わらなかったのではないだろうか。
‥‥自分が傍に居なくとも、彼は変わらないのでは、ないだろうか。
らしくもない感傷だ、と脳内を過ぎった思いをフランスは即座に切り捨てた。
まったく、らしくもない感傷だ。何百年という時間を殺し合いと睦み合いを何の齟齬も無く重ね合わせてきた自分たちをして、何を今更。
自分たちは『国』だ。極論すれば、国体を成し国民がその『名』を呼ばう限り、崩れ落ちることはない。彼らさえ在れば、自分たちは存在できる。
そこに『他者』は、必要ない。
掃除をしたり食事を拵えたりベッドメークをしたりする相手がいなくとも。言葉を交わし笑いあい時にいがみ合って殴り合って、その末に愛し合うような相手が、いなくとも。自分たちは存在できる、存在なのだ。
ただ、それでは寂しいから。
『お兄さんのこと見てよ。寂しいよ』
寂しいよ。寂しいんだよ、イギリス。
「‥‥なんて顔してんだよ」
ちゅ。なんて。
可愛く甘い音のくせ、触れてきた感触は、その声と同じくらいにザラついていた。
ゴツ、と硬い音がしたのは、恋人へ唇を合わせてくれるために無理に上げた頭をまた机に落としたからだ。自分の痛みを斟酌しないのはイギリスの昔からの悪癖だとフランスは思う。まぁ、昔は他人の‥‥身内だと認識した相手以外に対する痛みも、斟酌しなかったけれど。斟酌されないで、さんざっぱら殴られたこともあったけれど。
「‥‥坊ちゃんにはお兄さんの美しい顔がどういう顔に見えますか」
「無駄に濃厚なウザイヒゲ面」
「いや濃厚って。成分無調整牛乳みたいな言い方やめて!」
「あと、俺が足りねぇって顔してる」
「ッ、」
ニヤリ、まるで悪役の擬音がはまる笑みは、ひび割れて土気色の唇に似つかわしいそうなそうでないような。
ボサボサの荒れ髪なくせに。身体中の肉は削げてシャツのカラーも浮くくらいに痩せてしまっているくせに。こけてザラついた頬で、血の色を透かす瞼は疲労に黒ずんでしまっているのに。
仕事中毒なフランスの恋人。イギリスはおかしい。‥‥けれど、同じくらいに優しい。
そんなどうしようもないところを見せるのは、自分だけなのだ、と。
言葉にしなかった繰言と同じくらいに、この触れる唇が拒まれないのと同じくらいに。
何年、何十年、何百年の付き合いで、知っているから。
「‥‥坊ちゃんは栄養と睡眠が足りてないって顔してます。てか、オマエ唇ザラザラ」
「お前そこは『お兄さんが足りてないだろ』くらい言えよばか」
「え、お兄さん不足?たっぷり愛してあげる用意なら出来てますがベッドメーク的にもお兄さんのエッフェル塔的にも!」
「いや足りてないのは栄養と睡眠だから。安眠妨害したら沈める。へし折る。」
「なにこの上げて落とす放置プレイ!」
愛がない!と盛大に嘆いて見せれば、みっともなく机に縋ったままの肩が笑いに震える。スーツの上からでもわかるくらいに薄くなった肩に、何百年と降り積もってきた繰言と腹立ちと諦めが綯い交ぜになって、ため息に化ける。
化けたため息はイギリスに吸い込まれてたいそう可愛い忍び笑いに変換される。
可愛いとぽやぽや思うやら全くこの坊ちゃんはとつくづく呆れるやら、フランスは大忙しだ。
「で?寝ないと死にそうな可愛い恋人さんはベッドにお運びいたしましょうか?言っとくけど書類にまみれて寝るとか許さないからなあとお兄さんの完璧なベッドメークを見ろ!出来れば横に添い寝する恋人に『ふらんすベッドメイクありがとあとでシーツと同じくらいに俺もメイクして乱してくれよばかぁ』とか言ってくれたr」
「あー‥‥ちょっと寝たらメシ食いたい‥‥なんか、甘いやつ。んでシャワー‥‥」
「せめて最後まで聞いて」
半分本気の泣きの入った言葉は、すっかりと薄くなった身体を脇から支えてやり、散乱した書類を踏まないように廊下へと誘導しながら。
どれほど疲れていようと抱き上げられるだなんて紳士として云々と、ヘンなところに拘る恋人の意思を尊重するのもまた、良き恋人の務めだろうとフランスは思う。
掃除をして、食事を拵えて、ベッドメークは完璧に。そうして預けられる身体を支えることができる現状に、もうなにも言うことはない。
コンフォーターを捲って代えたばかりのリネンの上に、慎重に身体を伸べてやる。半分以上意識を飛ばしつつ服を脱ごうとする指先の仕事を素早く奪い、同じ素早さで下着まで全部取っ払い。夜着を着せるのは身体を丸めてシーツに潜り込まれたので諦めて、肩や首が寒くないように入念に上掛けを掛けてやる。あとは遮光カーテンを引けば、太陽の時間に関わらない、彼のための睡眠時間の始まりだ。
「それじゃちゃんと寝なさいね」と、恋人というより母親めいた言葉をひとつ耳元に落とせば、んむ、とあどけない返事未満の声が返されて、フランスは思わず笑った。ベッドの縁に眠る恋人の邪魔にならないよう浅く腰掛け、指先で額から髪をゆっくりと撫ぜる。
頬は削げて髪は荒れてはいるけれど、きちんと眠れば少しは解消されるだろう。仕事中毒だろうがなんだろうが、する仕事がなければ(もっともあの膨大な書類提出の始末をつける必要はあるだろうが)あとは休むだけだ。起きたら軽いものを食べさせて、シャワーではなくたっぷりと湯を張った風呂でゆっくりさせてやるのもいいかもしれない。その後でもう一度食事をさせて‥‥
「‥‥ラン、ス」
「ん。なぁに?」
髪をくしけずる指先を、イギリスの其れに捉えられた。
眠気に体温が上がってきたのだろう、常よりやや温かくなった指先は、ところどころにインクに染まり荒れてはいたけれど、どこか柔らかく、ひどく愛しく思う。愛しさのままに、身をかがめてくちづける。接触にふるりと一度震えた其れは、緩慢な動きでフランスの唇と鼻先を愛撫して、再びフランスの手のひらへと落ちてくる。
常緑の瞳は黒ずんだ瞼の下に収まり、いまは見えない。見えないけれど、それでいい。
フランス、と再度、茫洋とした呼びかけを受けて、やはり再度、なぁに?とだけ返した。
「起きたら、‥‥メシ、と、」
「うん、メシとシャワーな。コンソメスープがいい?トマトのリゾットでもいいか。甘いのならアップルクランブルか、いやパイのほうが食べやすいか‥‥。あ、お湯につかるほうがいい?中で寝たらヤバイからついててやるよ」
「‥‥が、終わったら、」
「ん?」
ほろほろと続く会話に、もしかしたら自分が居るから眠れないのではと思い始めたフランスは指先に掛けられていたイギリスの其れを逆にそっと握り返し、体温に温まったシーツの中へと己の手ごと誘導する。早く眠らせてあげたい。
「終わった、ら。‥‥俺が足りてねぇ、お前の相手、たっぷり、してやんよ?」
だから、待ってろ。
言うなりするりと捉えていた指先から力が抜け落ち、イギリスが眠りこんだことを悟る。
時間にしてほんの数秒。眠りの世界へと恋人がダイヴするその間際、零された言葉ときたら!
「‥‥‥‥‥‥‥‥お前さぁ、もー‥‥」
浅く掛けていたベッドサイドから、殆ど尻から滑り落ちるようにしてベッドの脇へと座り込む羽目になったフランスは、それでも恋人の眠りを邪魔しないようそろりそろりとシーツの中から手を引いた。必要以上にゆっくりとした速度で、かつさわさわとほんの少しだけ恋人の素肌を撫で回したことは、どうか許して欲しいと誰にとも無く思う。
仕事中毒なフランスの恋人。そのせいで呆れたり腹が立ったり、寂しくなったりもするわけだが。
「‥‥ねぇ、イギリス。」
お前のために、温かくて最高に美味しいごはんと、たっぷりのお湯を張ったお風呂を用意してあげる。零れた言葉は、眠り込んだひとには届かない。
掃除もしてあげるし食事も拵えてあげるし、ベッドメークも完璧にこなしてあげる。たっぷりとした眠りから目覚めたら、眠気にとろけた常緑の瞳に甘い挨拶もサービスしてあげる。‥‥早く起きてなんて無茶もいいません、言いたいけどね。ええ、言わないよ。
ああ、けれど!
「‥‥‥‥そうだよ、イギリスが足んないよ、お兄さん」
たっぷり寝て、ご飯を食べて、お風呂に入って、すっきりしたら。
言葉どおりに、お前が足らない俺の相手をたっぷりしてください。
待ってるから。ちゃんと、仕事中毒なくせにちゃんと俺にも優しいお前のために、お前が足りない、お前を愛し足りない俺のために。待ってるから。
待ってる。何年、何十年、何百年でも、これからもずっと。
「お前が仕事中毒なら、俺はお前中毒なんだよ」
きっと風呂上りのイギリスに告げれば鼻で笑い飛ばされてから、とびきり甘くて熱くて激しいくちづけを、甘い身体を。たっぷりと味あわせてくれるだろう。
そうしてまた中毒症状は酷くなっていくのだから、だからこれは、自分のせいだけではないのだ。
恋愛中毒
end.(2010.04.18)
仏英といってますが英仏でもいい。むしろリバで当然のように楽しんでそうです
フランス流の仕事は「こだわりを持って、美しく!」なんだそうな(・∀・)
生活全体が「美」という基準でぶれないところはすごいなー