触れた頬の冷たさに、直感した。
窓から覗く空は、海峡向こうでは到底望めない晴れやかな青をしていた。
もちろん美しい青を縁取る窓枠は、愛と美の国の本領を発揮した繊細かつ華麗な彫刻がいれられており、4隅に小さいながらも精巧に焼印した白百合は、まるで野の其れをそのまま摘み取ってきたかのよう。
清楚なカーテンのレースは、思えば嘗てこの国が世界中(まあ、当時で言うところのだが。今ならば西欧世界、と限定すべきだろう)に流行らせたもので、オリエルに置いた花活けやチェストの上に飾るプレートも、それぞれに思い入れと歴史が詰まった代物だ。
薄く開けた窓から、カーテンを微かに揺らす風が入っている。
現代のパリらしい僅かに排ガスの匂いを伴ったそれは、けれど昔と変わらない焼けた石畳の匂いや花売りが歌うように捌く花達の甘い芳香、そして世界中からこの街へと焦がれ来る人々の熱を含んでもいた。
その風に、新たに甘く香ばしい匂いを混ぜ込んだのはこの部屋の住人たる男。
「んあ?」
台所から此方への優雅な足取りはそのまま、慣れた手つきで前掛けと髪を束ねていた飾り紐を取り払う。緩い風に身を任せて広がる金糸はやはり甘い匂いを風へと手渡し、男の肩へと零れて落ちた。
落ちた髪はまた直ぐに、持ち主の太い指先で掻き混ぜられてしまったのだけれど。
「ったくこの子はぁ‥‥人に料理させといて、自分は優雅に昼寝とか本当酷ぇ眉毛だな」
その台詞では、はたして眉毛が酷いのか眉毛の持ち主が酷いのか微妙なニュアンスになってしまうが、どちらでもいいと彼は思う。実際、どっちも十分に酷い。
ため息と同時、小脇に抱え持っていた前掛けを放る。無造作な仕草だが此処は彼の自宅である。何処に何があるかは完璧に把握しているのだろう、頼りない軽やかさで空を舞った前掛けは奇抜一歩手前の意匠のチェストの上へと音もなく着地したものだ。
髪を掻き混ぜていた手も一頻り掻いて気が済んだのか、そのまま己の項へと手のひらを滑らせると、ぺたぺた、2度ほどそこを叩いてから力を抜いて体側へと落とされた。
そうして両手は仕事を失ったわけだが、直ぐに再就職先は示された。
長椅子の背に手のひらを重ねるように乗せて、加重しながら上体を折る。
胸は厚く腿やふくらはぎは太く張りつめているが、全体にバランスの取れたすっきりしたボディラインの男は、まるで映画のスローモーションのようなゆっくりとした動作で、長椅子の座面へと、顔を寄せていく。
正確には、長椅子に若干窮屈そうに身体を丸めて眠る細身の、そして彼いわく『酷ぇ眉毛』な男へと、だ。
眠る男と彼は、一言では言い表せない間柄だった。
例えば、幼馴染みと称したとしてもそれは嘘にはならないし、かといって仇敵、といっても其れもまた事実として誰からも認められるだろう。或いはご近所だとか酒飲み仲間、親戚、元婚約者、仕事相手、‥‥殺しても飽き足らない世界で最も憎い相手。それもまた、事実で。
百年闘い続けてもまだ足らないくせ、無防備に互いの家にふらりと立ち寄っては勝手に料理をして食事を冷蔵庫に詰め込んでみたり、恋人を紹介しあってみたり、庭で咲かせた薔薇を無造作に手渡したり、勝手に寝台だの長椅子だので寝こけていたり。
一言では、言い表せない。
表せないだけの、時間を共に過ごしてきた。
「イギリス、」
フランスの呼び声に、返事はない。
眠るイギリスの唇からは、ごく小さな寝息が聞こえる。
殆ど聞こえない寝息が聞こえるだけの距離に居て、フランスは旧知の男の寝顔と寝姿を見るともなしに、眺める。
膝をたたんで引き上げた足先は、本来ベッド以外では脱ぐことを良しとしない靴を無造作に脱ぎ捨て、それどころか靴下まで脱いだまったくの素足だ。随分と寛がれているものだ。
もともと細身ではあるがさすがに長椅子の幅では窮屈なのか、全体的に身体をまるめた姿はどこか猫めいて、面白い。
白い手の、片方は耳元、片方は脇腹から薄い腹へと渡すように乗せて、呼吸に合わせて微かに上下している。
少し早い、殆ど音を立てない其れは健やかで、隣人宅の長椅子という実に窮屈そうな場所からすれば随分と健やかで穏やかな眠りの内にいるらしい。
寝息に潤っている薄く開いた唇と、金色の睫が白い頬に影を落とす。
頬に、触れた。彼は、起きない。
気持ちの良い昼下がり、昼寝には絶好の時間だからだともいえるが、それ以前に彼の身体が眠りを欲しているのだろう。フランスは思う。
指先を這わせた頬は、少し冷たい。
このところの情勢にイギリスが疲弊していることは、知っている。
この隣人、小さな島国は現代では金融立国の側面もあり、数年来の金融不安はイギリスを絶え間なく、深く激しく苛んでいた。もっとも、世界が小さくなった現代においてはそれは同時にフランス自身の問題でもあったわけだが。通貨や体制の違いこそあれ、根底にある複合的な不安は同種のものだ。目に見えて一撃で効果を発揮するような解決策というものが、存在しない。努力と譲歩と妥協と分析を繰り返して積み上げていくしか方法がないのだ。
すっかりと、世界は複雑になってしまった。
かつて彼らが繰り返してきた、刃を交え血を流して雌雄を決する方法は、もはや廃れてしまった。
‥‥かつてフランスが力で彼を征服したような時代は、過去のもの。
遥か昔、フランスはこの国を征服した。
闇深き森と未知の叡智を湛えた霧深き島を、若くして欧州の中央を統べていた王国は、その手におさめた。
『イングランド。おいで』
粗末な草色のローブを身に纏い、野生をそのまま封じ込めたかのような翠緑の瞳の、小さな小さな子どもを。フランスは捕まえた。
今思えば当時としては平和的な運びだったとも言えなくはないが、其処にはやはり刃があり鉄と赤き血があり、相手を屈服させるための圧倒的な力が、あった。
弱きを強きが、飲み込む。簡単な力学だ。
だって彼は弱かったのだ。だから、手に入れた。柔らかく小さな身体を抱き締めた。島内で絶え間なく起こる戦乱で傷だらけの小さな身体を、懸命に動かして暴れていたけれど、彼は弱く、小さくて。だから。
『イングランド。今日からお前は俺のもの。』
傷だらけ、けれど触れた頬は、子ども特有の柔らかさをしていた。
一瞬で縊り殺せる、か弱きもの。自分の、もの。
弱きを強きが、飲み込む。簡単な力学。
それは、己に等しく跳ね返ってきた。
鉄錆めいた血の匂いを纏い、ギラつく野生を生きてきた歳月ぶんの狡猾さに代えて、フランスの中身を散々に蹂躙した。
『イングランド!』
甲冑を鮮血に染め抜いて、戦場を焼き尽くす炎を背に金色の髪をなびかせ、立っていた姿。
血塗れの頬を歪めて笑うその横っ面を張り飛ばしてやりたかったけれど、届かなかった。あの頬に、もう触れることはかなわないのだと、痛みと屈辱に這い蹲りながら知った。
以来、どれほどの闘争を繰り返したことか!
「‥‥イギリス?」
呼び声に、返事はない。本当に、眠り込んでいるらしい。
珍しい、とさえ思えない自分が思えば不思議だった。
幼い彼を抱き上げて抱きしめ、俺のものだ、と思った相手。
互いをいつか必ず殺してやると、殺しても飽き足らないと疎み憎んだ相手。
今は。‥‥今は?
互いの家に勝手に上がりこんでは料理をしてみたり、酒を飲みに行って騒いだり、些細なきっかけで殴り合ったり、‥‥今、こうして人の家で勝手に、無防備に眠る相手を、見つめてみたり。
一言では、言い表せない。
それだけの年月を、共に過ごす日々を、重ねてきてしまった。
世界は、想いは、すっかりと複雑になってしまった。
小さな小さな寝息。遥か昔幼い彼と一緒に眠りながら聴いた。
風と寝息に揺れる金髪。戦場の炎に煽られて、瞬いていた。
昼下がりの自宅で、イギリスの頬に、触れる。幾度も、なぞる。彼は起きない。
昔のように傷だらけではない、かつてのように柔らかくはない、返り血は彼の其処を汚さず、ただ、白くなめらかに、冷たく。
けれど、もう一度触れたかった頬だ。
‥‥もう一度触れたなら、全てが解ると思った、頬だ。
「イギリス、なぁ、」
冷たい頬から貰った熱に唇がとけている間に、起きてくれたらいい。
複雑になった想いが今なら言える、気がした。
冷たい頬
end.(2010.07.19)
享楽的に生きているように見えて、理屈っぽく思考が難解な兄ちゃんがマイブームです
スピッツの『冷たい頬』を下敷きにしたのに別のところに着地してしまいました