フランスの腐れ縁の趣味は、刺繍である。
その腕前ときたら、そんじょそこらの針自慢など靴もほっぽり投げて逃げ出さざるを得ないほど。文字どおりの玄人裸足だ。はっきりいって趣味の域を遥かに超えているのだが、本人が趣味と言い張るのだから、趣味なのだろう。
もとより「今日から刺繍職人に転職するから」と仮に本人が宣言したところで上司が許すわけもない。麗しの女王陛下ならば、面白がって典礼用のドレスに刺繍を頼むくらいはしそうだが。
「おおい、坊ちゃーん?」
そんなこんなで、本日もフランスの腐れ縁氏は来客を針自慢の靴よりぞんざいにほっぽり投げて、趣味に勤しんでいる。
‥‥否、勤しんでいるように見えた、わけだが。
「イギリスー?」
「‥‥‥‥。」
「坊ちゃん、針が止まってますよー」
「‥‥‥‥。」
「今日はいいお天気だねお前んちなのに」
「‥‥‥‥。」
「コーヒーとグリーンティとマーマイトとお兄さんの愛、どれにする?」
「紅茶」
マーマイトは菓子に添えて出せ。
淡々と返された言葉は、返答と呼ぶには質問に即していなさ過ぎだったが、フランスがそれに返したのは肩をすくめながらの「Oui」の一言で、甘い匂いのする手土産片手に勝手知ったる腐れ縁宅のキッチンへと足を向けた。当たり前にマーマイトの瓶はあけるつもりはない。
「で、お前は何をしにきたんだ」
「うん?一人遊び上手な可愛い腐れ縁の刺繍の邪魔しに」
「禿げろ。ボルドー俺に寄越してから禿げろ。それからもげろ」
「禿げろはともかくもげろってなに。ていうか何処が」
「ばかぁ、言わせたいのかよ‥‥」
「お前の恥じらいどころって間違ってるから。本当間違ってるから。いい加減気づけ」
殺伐とした遣り取りを日常会話に組み込んでしまえるのも自分たちならではなのだと、紅茶を啜りながらフランスは思う。我ながらなかなか巧く淹れられたとは思うが、けれどほんの僅か物足りなく思うのは、自分が世界で最も美味い紅茶を飲みつけているからだろうか。
こうして目の前に供したアンティークな茶器もティーブレンダーが心を込めてブレンドしたのだろう茶葉も、どれもこれも同じものの筈なのに、茶を淹れるその手が変わるだけでどうしてこうも変わってしまうのだろうとは、長年の疑問ではある。だが、今も昔もこれからも口に出して問うつもりはないのできっとずっと疑問のままに終わるのだろう。問いただされることのない疑問など、決して口にしてはならない問いかけさえ、自分たちの間には無数に横たわっている。
自分たちは、そういう関係だ。ずっと。
もっともさしあたっての疑問は特段憚る事情も見当たらない、今この場で解決できそうなものであったわけだが。
「ねぇ、坊ちゃん、刺しゅう全然進んでないんだけど?」
「ん?ああ、‥‥」
気のない返事の続きは、直ぐには返って来なかった。けれどこれは、返答に困ったからだとかそういうものではないのは見れば判ることなのでフランスも言葉を急かさない。なにより、むぐむぐと口を動かして己の手作り菓子を食べるイギリスというのは、フランスにとって、愛でるべき対象なのだ。ずっとずっと、それこそ千年の昔から。
悪辣な性格とはかけ離れた上品な所作でフィナンシェを食べ終えたイギリスに、フランスは菓子と一緒に自宅から持ってきた紙ナプキンを渡してやる。白百合と思しき花影と母国語による愛の文言が透かし込んである其れは己の美意識に合う美しい一品で、腐れ縁の男にしては白いすんなりとした指先が
それで拭われる様も、なかなか宜しい。
遥か昔の自分ならばさも当然のように隣に座って、菓子のついた口元を手ずから拭ってやったのだろうが、今はそのようなことをおいそれとするのは憚られる関係である、気が、する。多分。‥‥やったらどうなるのかは、想像がつくような、つかないような。
誰が聞くわけでもない内心でさえ曖昧になる己にフランスは苦笑しそうになったが、ここで笑えば目の前の人物はフランスには思いもつかない理由でいきなりネガティブになったりするので、フランスも持参の紙ナプキンで手と口元を拭うことで己の心と顔を取り繕った。
そして改めて、イギリスへと視線を向ける。
カップに残っていた紅茶も飲みきった彼はそれでティータイムは終了とするのか、指を丁寧に拭った後、再び横に置いていた刺繍枠を手にとった。
フランスも見慣れてしまった木枠には、上質のコットンだろうか。シルクのような輝きはないが清楚で柔らかそうな白い布が、綺麗に填められている。
フランスが彼の屋敷を訪れこのリビングに顔を出してから、欠片も変わったところのない、白いままで。
「何縫ってんの?」
「ハンカチ」
「刺しゅう、しないの?」
「図案に悩んでる」
「あ、そう‥‥」
イギリスには珍しい素直な言葉は、彼がフランスではなく目の前の白い布に意識を傾けているからだろう。
イギリスという男は自分の興味の範疇、或いは己の愛で守るべきものと決めた物や人物にはいっそ過剰なほどに意識と気持ちを傾けるが、その逆も真なりというか、意識の外に追いやった事柄については非常に扱いがぞんざいになる。勿論仕事ともなれば話は全く別だが、私生活では彼がかつて愛し尽くした北米の子ども以上に興味と好悪の、意識の向け方の傾向がはっきりしているのだ。
甘めのベビーフェイスに不釣合いな激しい性格と性癖に、見合っているといえば見合ってはいるのだけれど、とは、フランスが常々思っていること。
ほら、こんな風に「生まれてこの方敵対者」たる自分がこんなにも失礼なことを考えているのに、此方を見ようともしない!
フランスは腰掛けたソファに深く背を預けてそろそろと息をつく。
イギリスの視線は、白いままの布に向けられたままだ。その指先には、糸の掛かっていない針。‥‥本当に、縫いとる図案に悩んでいるらしい。
「‥‥にしては、布に線が見えるんだけど」
「ん、」
その台詞は至極もっともなものだとフランスは発言しながら思った。
そう、白い布は白いままだが、それは針を、ひいては刺繍糸によってあの美しい色の乱舞がないまま、という意味であって。
「薔薇だよな?」
「‥‥ん。」
ぞんざいに過ぎる返答。本当に其方に意識を集中しきっているのだろう、下手をすれば機械的に返しているだけで、フランスの声さえ聞こえていないのかもしれない。
長い付き合いである、他意はないことは知れているので今更気を害すの何だのと言うわけもないフランスは、ソファに預けた背中を起こし、机を挟んで向かいに座るイギリスの手元を覗き込む。
木枠に入った白い布と、その枠を支えるのは庭仕事が好きなわりにあまり日焼けていない、白い指。
何で描かれたものなのか針の嗜みのないフランスにはわからなかったが、きっと専用のペンか何かなのだろう。白い布にうっすら浮かび上がるように描かれているのは、イギリスに馴染みの深い花のように見受けられた。
実際、フランスが刺繍の邪魔という名目でこの腐れ縁の家を訪れるたび目にした作品といえば、真っ先に思い浮かぶのが薔薇の其れだ。
ゆったりと椅子に腰掛け、膝の上に広げた布はテーブルクロスであったりカーテンであったり。幾度かは婚礼衣装と思しき純白のドレスだったことすらあった。そしてそこに施されていたのは、勿論ものによって図案は様々だったが、薔薇というモチーフ自体は変わらない。
そして、それは決して不思議なことでもなんでもない。
「お前、本当に薔薇好きだよな」
そう、彼は、『英国』は。薔薇を深く愛している。
国花であることは勿論、この国に住まう国民は総じて純粋にあの花が好きだ。
もともと(これはイギリスに限ったことではない欧州の国でもそうだが)園芸が盛んな国柄であるのに加え、彼らは美しき祖国のエバーグリーン、自然そのものを愛していた。老後の夢と趣味のナンバーワンは広大な英国庭園を持つことというのは冗談でもなんでもない統計。見渡す限りの緑の中、そこに棲まう昆虫や鳥などの小動物、森を潤す小川や湖沼を余すところなく「庭」に組み込み、愛でる。その辺りは計算し尽くしたシンメトリックな造型を美とするフランスの庭園などとは違う点だが、別にそこには優劣はない。ただ、英国の美には素朴な緑が多い。
その中に、あの艶やかで力強い薔薇は、きらめく宝石にも似た美しさで彼らを魅了し続けてきた。
いつの時代も彼が、『英国』というこの国そのひとが。親しみ慈しみ、そして愛し抜いてきた花の女王。
そして美しい薔薇を愛する彼を千年見つめてきた、自分。
「‥‥なら、たまには別のモチーフにしたらどうよ」
「例えば」
返答があったこと自体に、フランスはまず驚く。
イギリスの視線は相変わらず白い布の上で、指先はコツコツと木枠を叩いていた。時折糸の掛かっていない針先で、布が傷つかない程度に布表を何かを描くようになぞっている。どう見ても、刺繍の邪魔という名目で菓子を片手に押しかけてきた腐れ縁に気を向けている風はない。
興味なんて欠片もないみたいな風で、けれどその声はきちんと聴いて。‥‥もしかして、さきほどの線が見えるだの薔薇じゃないのかだのという声も、きちんと聞きとってくれていたのだろうか。そもそも、その前の質問には返事はあったわけだし。
イギリスは、興味と好意の範疇外の事柄にはぞんざいだ。それは心得ている。長い付き合いなのだ、解っているし、確かにぞんざいな対応ではあるし禿げろだのもげろだのと酷い事を言われるけれど、返事は、あって。
そう、いつだって、どんなときだって。
あの、イギリスが。
可愛い愛しい、刺繍の邪魔だとか殴り合いたいだとかどんな理由をつけてでも傍にいたかった、‥‥居てくれた、腐れ縁が。遥か、千年の昔から、自分は。
(‥‥え、あれ。なにこれまずい。)
自らの思考ながらいろいろなことが飛ばしすぎて曖昧になる思考に、けれど今度は苦笑する余裕はフランスにはなかった。心拍数が上がっている。それに伴う体温の上昇。顔が、頬が赤くなっていないか心配になればなるほど意識してしまって、耳まで赤くなるのがわかるがどうしようもない。
だって、この想いはどうしようもない。どうしようも、なかったのだ、千年前から、いつだって。
イギリスの視線は相変わらず白い布の上だ。
今となっては幸いとさえ思える素っ気無い態度に、フランスはどうにか上辺だけでも冷静さを取り繕った声音で、言葉を返す。
「‥‥えーっと、ユニオンジャックとか」
「自分大好きみたいでなんか嫌だ。お前じゃあるまいし」
「なら、星条旗」
「51番目の州になる気はない。あとアイツんちに置いてるベッドリネンには勝手に全部刺繍してきてやったからもう刺繍すんの飽きた」
「飽きたって、お前ねぇ。ママンの愛は重いんだか軽いんだかお兄さんわかんないよ‥‥。あー、それじゃメイプルリーフとか?あ、もうカナんちのベッドリネンも刺繍済みですか、お母様?」
「カーテンとソファカバーとキッチン小物全部にも刺繍済だ」
「重たい!お前の愛は重たい!!」
「うるせぇ。‥‥他には」
俯いたままの視線は白い布へ。
うっすらと描かれたイギリスが愛する花の意匠を、針を針山に戻した彼は白い指先で、まるで愛しいものを愛撫するように辿っている。
‥‥それをいやらしいと感じるのも、彼に愛し続けられる薔薇に嫉妬するのも、随分だとは思うわけだが。
だって仕方がない、自分は、愛されたい。
彼の腕を手酷く振り払ってそれでも愛し続けられているアメリカのように、けれど、もっと深く。
おっとりと緩やかな身内の枠の中、穏やかに慈しまれるカナダのように、けれど、もっと激しく。
長い長い間、彼の愛を受け続けてきた花の女王のように、けれど、美しく彼に寄り添うだけじゃなく、腕を伸ばし抱き締めて、愛を囁いてあげられる存在として。
フランスはそっとソファから腰を上げると、テーブルを半周するように足音を殺して足を進める。
俯くイギリスは、気づかない。
ああ、ああ、そうだった。彼は興味の範疇にあるものには過剰なほどに意識と好意を向ける一方で、それ以外にはぞんざいで。‥‥そして、気を許した相手には、とことんまで無防備になるのだ。遥か昔から、千年前から、いつだって。
「なぁ、やっぱ、薔薇にしろよ、刺繍」
「あー‥‥」
「それで刺繍できたら俺にくれ」
「‥‥あ?」
訝しげな声にあわせて愛しい腐れ縁が顔を上げるより先に、フランスは背後から彼を抱き締める。
千年前から変わらない肉付きの薄い身体からは、彼が愛する薔薇の匂い。
「そしたら俺はその薔薇を愛するし、そして其れをくれた薔薇好きなお前を、薔薇よりもずっと、愛してやるよ」
「‥‥お前の愛こそ重いっつの、ばか。」
でもそういう愛は、薔薇と同じくらい、嫌いじゃねぇよ。
可愛い憎まれ口はキスを交わす合間に零される。
薔薇色をした唇は、先ほど食べさせたフィナンシェの味がした。
簡単に後日談を語るなら、そのハンカチに刺繍されたのは薔薇ではなく、フランスのものにもならなかった。
「ケチ!イギリスのケチ!恋人にプレゼントくらいくれてもいいじゃん!」
「うるせぇよ。これは、俺の。」
「‥‥それよりもお兄さん本体を愛でてくれないかしら?」
「お前こそ刺繍の薔薇欲しがる前に俺を欲しがれ、バーカ」
意地悪く笑いながらフランスの腐れ縁がくちづけたハンカチの縁には、可憐なアイリスと艶やかな白百合の刺繍。
そうして薔薇色の唇を己の国花から奪い返すべくフランスが恋人を抱き締める遣り取りは、まるで千年前からの予定調和のように。
美しく優しい日々の中に、馴染んでいた。
薔薇色の日々
end.(2010.08.26)
うちのイギ様は大人しいひとだなぁ。もっと悪辣にしたいのに←
兄ちゃんはわりといつも乙女系です。
そんな二人の腐れ縁の延長としてのお付き合いはとても素敵だと思います。