「今日さぁ、別れてきた」
「ならこの酒も飲み納めだな」

まるで夕焼けが綺麗だったから明日も晴れだ、みたいな口ぶりは二人ともで、それが日常でもあったから、自分たちは変わらない。
卓上を見渡せば簡単な酒肴、グラスと、酒瓶。窓の外は暗く、けれど曇りがちな自国とは違い、薄いスモッグの向こうには星空が広がっているのだろう。
海峡を結ぶ列車の最終はとうの昔に汽笛を残して去った後。どのみち朝まで飲むのだから関係ないけれど。
卓上へと手を伸ばし、ショットグラスの代わりに酒瓶そのものを掴む。
ここ暫くこの家のセラーに常備されていた銘柄は、そう、少し前までは影も形も見当たらなかった北欧特産の蒸留酒で、ハーブを混ぜているせいかどこか薬用酒めいた味が、俺は嫌いじゃなかった。そして、この酒をこの家に常備させた男はこれが好きで、そしてその男を、フランスは好きだった。

「お前にしちゃ、結構長かったな」
「うん?ああ、そうかもな、意外に優しかったから」

だから別れもスマートに、優しいキスでお別れ出来ました。
そんな聴きたくもない報告をする男はそれこそその「優しいキス」とやら以上に優しいだろう顔で、俺の手の中に納まっている酒瓶を、見つめている。
俺はその視線を振り切るように、残り少ない酒をグラスへと注いだ。
独特の匂いとは裏腹の、純粋な無色。「冷やして飲むと美味しいんだって」。これを自宅に置き始めた頃のフランスは、笑っていた。
「お前は好きな味だよ」、さらりと言いながら渡されたグラスは、苛立たしいくらいに、好きな味だった。




フランスという男は、恋人が出来るたび自分を変える男だった。
一番目立つところでは、服を変える。恋人の、男女を問わない彼ら彼女らの好みに合う服に、いっそ鮮やかなほどに変えてしまう。
相手がこれが気に入りと知ればその酒を自宅に置くし、吸うことのなかった煙草をさも当然と吸っていたり、果てはあっさりと家まで変えたことすらあった。立ち寄った先がもぬけの殻だったことにあ然としたのは、数え切れなくもないけれど、指を折って数えられる回数。
彼は、変える。好きな相手がそれが好きだから、そんな理由。好みは全て恋人の為。己のすべてを捧げるように、愛する相手の為に変えてしまう。

けれど一方で、彼は変わらない。

「お前、別にこれ好きじゃなかったよな」
「恋人が好きだって言うものは準備しとかないとね」

けれどそれも今日限り。そんな声さえ聞こえてきそうなフランスを、俺は薄情だと詰るべきなのか、重いと呆れるべきなのか。‥‥そんな資格は端からないと、哂うべきなのか。
グラスを干しながら考えることは曖昧で、よく冷やされた蒸留酒が咽喉を焼いていく感覚だけが鮮明だった。目の前の男の、今日までの恋人が好きだった酒。
これを限りにこの酒は、セラーに追加されることはない。
「お前は好きな味だよ」、そう言われて飲むようになった酒は、もうこの家では飲めない。




フランスは病的なほどに恋愛が好きな男だったが、一途ではあった。
恋人は、常に一人。まぁその他多数へのセクハラの数々は、あれだ。不治の病か何かだ。残念なお知らせだ。いや残念なのはフランスの頭だが。
恋人は、いつだってひとりだけ。
そのたった一人の恋人を愛して、愛して、愛し尽くす。
多情というほどに短いわけじゃない、けれど決して長い期間じゃない。始まっては終わる、繰り返される恋愛は単にフランスの恋愛観によるものか或いは『人間』の時間を生きる相手を思ってのことなのか、それは俺の知るところじゃない。だって、俺はコイツの恋人になったことがない。
ただフランスが、そのたった一人の為に服を変え酒を置き、相手の好みに合うよう自分を変えていく姿を、ずっと見てきた。
そして一つの恋が終わるたび、あっさりとその「変わった」部分を捨てるのを、見てきた。
一切着なくなる服、セラーから姿を消す酒、ある日ぱたりと吸わなくなる煙草。‥‥家だけはまぁ、指折り数える最後の行方不明時に、俺とフランスの上司が激怒したのが効いたのか、予告なく変えることはなくなったけれど。
服も酒も煙草も家も。元に戻るそれは全てフランスが恋人と別れた証拠で、そして、次の恋を探すスタートポイント。己を変えるほどに愛し尽くす相手を探し始める、そのためのリセット。

愛していた相手の好みを捨てて、「変わらない」もとの自分に戻って。また、次に愛する相手の為に変わる準備をする。

手のひらのショットグラスには、フランスが好きじゃない蒸留酒。
これを飲みきれば、彼はもうこの酒をこの家に置かない。
「お前は好きな味だよ」、笑って手渡された、其れ。
互いの好みなんて知り尽くしているからこその言葉、長い時間を変わらずに、共に過ごしてきた、証拠。
「お前は好きな味だよ」?‥‥そうだよ、俺は、好きな味なのに。この酒が好きなのに。









この男が、好きなのに。









「‥‥飲み納めか」
「いいよ全部飲んで。もう要らないし、お前その味好きだろ?」
「好きじゃねぇよ、馬鹿」









吐き捨てて煽った酒は、やっぱり好きな味だった。けれど、もう二度と飲まない。









 さよならアクアビット





end.(2010.08.28)

続きます