カチリと乾いた鍵音、弾む靴音と浮き立つ心。
1000年の重みとは随分軽やかなのだと、思っていた。




『どうしたの?なにか困りごと?』

渇いていた。

何故といって、無理に仕事を遣り繰りして足を踏み入れた大陸国ときたら秋を通り越してすっかりと冬の空。乾いた寒気をどこやらからか取り込んでいて、通りを吹き抜ける風も乾いて冷たくて。
今こうして気に入りの革靴の底をきつく打ち鳴らすように進んでいた通りだって、乾いて、冷たくて、寒くて。
だから、甘く熱いミルクティが欲しいと、思ったのだ。

『何かあった? 俺に、出来ることはあるかな?』

そもそもこの国の紅茶はまるでなっていない。湯の温度も意味がわからない感じに微妙に足りないし、ミルクだってあれ、温めもせずただ流し込んでいるだけだろ。下手を打てば街中のカフェですら、ティーパックにミルク風味のポーションを添えただけ、なんてことがある。ふざけた真似をしてくれる、何が料理と愛の国だ。
湯は沸かしたての高温、ミルクは室温に。
繊細な磁器、或いは、熱を包み込む厚い陶製のマグもいい。自分のためだけに用意された、瀟洒な異国の食器棚で自分を待っているマグが、気に入りだった。そんなこと一言だって言ってやった覚えはないけれど、知っていたはずだ。知って、甘ったるく笑ってはそこに熱いミルクティを注いでいたのは、アイツなのだから。

『今日はずいぶん冷えるね。寒くない?よければこのマフラーを使って貰えると嬉しいな』

寒い、寒い。乾いている。熱い、熱い、ミルクティが欲しい。
ミルクティじゃなくたっていい。甘ったるくて温いカフェオレでもいい。
温かく甘いものが欲しいと、それだけだった。それだけを求めて、立て込む仕事を無理やりに攻略して海を渡った。
ただドアを開けて、珍しいね来てくれるのなんて、だとか、馬鹿馬鹿しいほどに甘ったるい声で、招き入れてくれるだけでよかったのだ。
それだけだったのに。
何が料理と、愛の国だ。

『悲しいことがあったの?』

異国の冬空の空気は乾燥して肌に痛いくらい。
どこもかしこも乾燥して、肌だって喉だってどこもかしこも引き攣るように痛んでいる。
だからほら、どこの誰ともわからないフランス人だって驚いたように目を見張るのだ。
そんなに珍しいか? 乾いてる英国人が。

‥‥ああ、珍しいだろうな。

こんなに乾いているのに、頬だけが全然乾かない英国人なんて、珍しくてたまらないだろうさ。

『こんなに綺麗な緑の瞳を濡らすほどに、辛い事が?』

差し出されるハンカチーフを受け取る。
見も知らぬ相手だ。当然か、ここは異国だ。
美しい空色をして愛を嘯く最低男が住まう、1000年を越す隣国だ。

『泣かないで』

メルシィ、母音のはっきりした発音で返せば、濡れた微笑みと蕩けそうな口説き文句を返された。
見れば、手入れされたまばゆい金髪、淡くけぶった春色の碧眼。
まったく、これだからフランス人は。

‥‥これだから、フランスは。




お前だけだよと囁いたその唇で、違う相手に同じ言葉を嘯ける、男は。




寒かったから。乾いていたから。
だから、甘く熱いミルクティが欲しかった。
ミルクティじゃなくたってよかった。あの男が好む甘ったるくてぬるいカフェオレでも、いっそただの湯だって構わなかった。忙しい仕事の遣り繰りも、じれったい鉄道の移動時間も苦にならなかった。ただ、ただドアを開けて、甘ったるい言葉で、お得意の愛とやらで、抱きしめてくれるだけでよかった。
1000年掛けてようやく信じることの出来た恋に惹かれて、そのためだけに自分は来たのだ。
なのに、ご丁寧に合鍵を渡された自分がドアを開けてみれば、どこの誰とも知らない相手にミルクティよりカフェオレより甘い、甘ったるい熱を与えている真っ只中だとか?
本当に馬鹿じゃないのか、アイツは。もっとこう、合鍵を預けることの重大性だとか、紅茶のための湯温だとか、口説き落としたばかりの英国人のことを考えるべきだ。馬鹿め。

『そんなに泣いてちゃ、緑色がとろけて落ちてしまうよ?ねぇ、泣かないで。ああ、ほら、何か飲む?近くにお勧めのカフェがあるんだ、きっと気に入ってもらえる』

馬鹿。ばか、ばか。あの男は本当にどうしようもない馬鹿野郎だ。
こんなにも、寒いのに。
こんなにも、乾いているのに。
こんなにも、恋人が、泣いているのに。
こんなにも、好きだった、のに。
ミルクティが欲しかっただけだ。温かいものが欲しかっただけだ。甘い言葉が、抱きしめる、温かな腕が欲しかった、それだけだ。

だのにそばに居もせず、甘く濡れた寝室で俺に与えたものとそっくり同じ甘ったるい言葉を注ぎ込みながら本命だか何人目だかの恋人相手とセックスをしている、あの男が悪い。

「‥‥ミルクティ」

呟いた英語に、するりと腰を取ってきたどこの誰とも知らないフランス人は、とびきりを飲ましてあげるよ、なんて、濡れたように甘ったるい微笑みをくれた。まったく、これだからフランス人は。
手入れされたまばゆい金髪、淡くけぶった春色の碧眼。‥‥胸が痛む見慣れた色彩、けれど、彼ではない相手。
どうせ出されるのはミルクポーションでぼやけた味のぬるい紅茶だろうけれど、構うものか。
胸を潰される恋心なんて、いつでも来ていいよと渡された合鍵ごと捨ててしまえ。

乾いていた。寒かった。甘く温かなものが、言葉が、抱きしめる腕が欲しかった。それだけだ。

1000年越しの恋があっけなく終わった、ただ、それだけだ。





















「また泣いてる」

優しい声と同時、目の縁を優しく吸われながら言われて、手のひらのなか着信を繰り返すだけの携帯端末から顔を上げる。
着信に応じることはない。プライヴェート用の携帯に、かけてきていい相手ではない。

「初めて会ったときも、泣いてたね」
「乾いてたから」

携帯への着信を電源ごと切ってベッドサイドへと投げながら一言で返せば、そう、と少し困った口調で応じた恋人に添わせるように身体を寄せ、優しく涙をぬぐってくれた唇へと己の其れを触れ合わせた。
すぐに柔らかく抱きしめられ、先ほどまで熱を交わしていたベッドへと組み敷かれる。

「‥‥電話。仕事?」
「違う」
「よかった。じゃあ、まだ一緒にいられるね」
「ああ」

やはり一言で応えれば、明るい空色の瞳が寂しげに翳った。彼は、この携帯がプライヴェート専用の回線だと知っている。繰り返される同じナンバーからの着信に俺が決して応じないことも、知っている。着信があるたびに身体を震わせることも、ひとつとして開封されていないメール履歴を見て泣くことも。
‥‥決して、着信拒否をすることがないことも、知っている。
其れを知ってなお一緒に居てくれる、優しい男だった。
泣きながら歩くひとなんて放っておけないよ、それに、一目惚れって信じる?とかなんとか。笑って言うような、金色の髪と淡い空色の瞳の、俺の、恋人。
乾いていたシーツはすっかりと二人分の汗を吸ってどこか濡れたように重みを増し、寄り添う身体はすっかりと馴染んだ温かな体温。
もう泣かないでいいからね、俺は、泣かさないからね。カフェオレ飲む?ミルクティがいい?紅茶はティーパックのしかないけど。
そう囁かれる、濡れたように甘ったるい言葉はけれど少し困ったような調子で、けれど子守唄のように優しいフランス語は温かく、抱きしめてくる腕は熱く。
こんなところは同じフランス男だ、なんて。1000年想い続けた果てに、たった数ヶ月で破れた一つ前の恋を思って、笑いたくなる。

「‥‥泣かないで、アーサー」

再度囁いて抱きしめてくれる、優しい恋人の指先と唇を濡らしては困らせるのだけれど。

残念ながらこの頬はあと1000年、乾かない。









 ハンプティ・ダンプティ・ミルクティ





end.(2011.10.08)

繰り返される着信。謝罪と、愛を告げる言葉。
壊れたたまごはもとには戻らない。それをあの馬鹿な男は、知らなかったのだろう

出会って1000年、あの瞬間まで。
どれほど俺が愛していたかを、知らなかったのだろう