くすぐるような微かな香りと指先への感覚に、一瞬で意識が現実世界へと収束する。
瞬き一つと、呼吸を半分。
動作というには些細に過ぎる其れにより己が街角のカフェのテラス席に着いたまま半ば眠っていたのだと知らされて、男は肉厚の唇から苦笑を織り交ぜた息をゆるゆると吐いたものだ。
無意識にだろう俯かせていた顔をあげてみれば、卓上に投げ置いていたタブロイド誌の縁が秋風に揺すられている。その脇には半分ほど残ったカフェ・オ・レと、卓へと凭せ掛けていた緩く握った拳。ぼやけた色の紙面の縁は風に吹かれるたびに指先へと戯れかかり、青いインクの匂いで形の良い鼻をくすぐった。同時に、本来ならばインクよりも香って然るべき飲み物が、すっかりと熱も香りも失ってしまっていることに僅かに眉を顰める。
そう長い意識の断絶はなかったと腕時計の長針は彼を慰めてくれたけれど、冬を控えた秋の空気が熱と香りを吸い上げていくには十分な時間だったようだ。
男は気分を変えるように一つ息をついてから、尚も指先をくすぐる荒い裁断の紙片から己の指先を取り戻すと、その手で通りがかった店員に温かいカフェを注文しなおした。パリっ子らしいすまし顔には、思わせぶりな笑みをチップ代わりと添えておく。
冷えたカップを下げる店員の後姿、姿勢の良い背筋や小ぶりな尻をややにやつきながら見送った後、彼は改めて春の空色をした瞳を周囲へとめぐらせた。
世界を魅了する花の首府のほぼ中心に位置するとはいえ官公庁に近い場所ともなれば、通りを行く人々はさほど多くはない。もっとも、もういくらもすれば来る終業時間を越えれば、己の時間を楽しむフランス人で溢れ返るのだろうけれど。愛の国の人間にとり仕事など生きるための手段であって、生の目的には成り得ないのだ。
程なく運ばれてきた琥珀色の液体を、カップごと厚い手のひらで包み込むように取り上げて、皮膚から沁みこんで来るような熱と香りを楽しむ。
ほう、と感じ入ったように息をつけば、空間を真円に切り取ったような琥珀の水面が美しい波紋を描いて匂い立つ。
遥かより渡来した黒い種子は長い時間を経てこの国へとすっかり解け込み、華やかで匂やかな文化の香りそのものになった。
心を解す香りと熱を楽しむ彼の手元の卓上、秋の夕風になぶられて紙片が再度、音を立てた。
誌面に踊る文面は、企業業績に欧州経済の先行きから芸能人の他愛ないスキャンダル、彼の上司連中のゴシップまで。硬軟取り混ぜた日々の事々が、掠れたインクの匂いにのって紙面を賑わせている。
嘗て、この青いインクと琥珀のアロマは切り離せない存在だったこともあった。
人々は刷り上ったばかりの印刷物を手に街角でカフェで、芳しい飲み物を啜りながら議論を交わしたものだ。
インクとカフェ、二つの香りは人々の心に知の探求を呼び掛け、権利と義務の存在を知らしめ、怒涛のごとき情熱を沸き起こらせて国家の根幹を成す理念の形成へと至らせた。
ふ、と男の唇から芳しいアロマと、柔らかな苦笑が零れ落ちた。
遥かの地から渡り来た一つの嗜好品が今の『フランス』を、‥‥己を。作り上げる過程に僅かなり編み込まれているのかと思うと、興味深くもどこか畏れにも似た感慨が沸き起こる。
世界を織り成す見えざる手は、何を思ってこの芳しき一品を掬いあげ、この国に与え賜うたのか。
「それこそ嗜好の類だったりして。」
零した己の半畳に男は自ら笑って芳しき琥珀を飲み干し、卓上のタブロイドを手早くたたんで小脇に抱える。
官公庁の終業時刻を過ぎ、次第に通行量が増えていく通りへと空色の視線を巡らせて、探す相手はただ一人。
「勤勉なる隣国を己の中枢で働かせて、本人は優雅に喫茶とはいいご身分だな、共和国殿?」
「仕事中毒などこぞの隣国と違いまして、己の分を弁えての勤務量だというだけですとも、連合王国殿。」
皮肉の応酬は挨拶代わりだ。
フランスは意識して優雅に立ち上がると、己が居るテラスとイギリスが足早に進んできた通りを分ける低い柵越しに、隣国での仕事を終えた恋人の肩を抱き寄せた。スン、と一瞬、鼻をひくつかせる。
急な接近に相手が固まっている隙に、ちゅ、と耳元で小さく唇を鳴らした後さらに息をふぅっと吹き込んでやる。
カフェの香りが恋人の首筋にまとわりつくのに瞬間吸い付きたい気分になったが、どうにか我慢した。
「っ、何する‥‥!」
「はぁい怒らない怒らない。お疲れさま坊ちゃん、仕事上がりに美味しいカフェオレでも飲んでく?」
彼が猫ならば確実に毛を逆立てているだろう勢いで抱き寄せられた身体を離し、鮮やかな緑の瞳で睨めつけてくるいつもどおりの姿にフランスは笑うと、そろそろとこちらも店仕舞いを始めているカフェの店内へと視線を遣る。
呼ばれたと思ったのか、例のすまし顔の店員が食器を整理しつつ此方を見たのににっこりと笑って見せてから、フランスはポケットに直接入れていたユーロ紙幣をやや多めのチップと共に、空になったカップを重しにして置いた。夜の気配を深めていく秋風がカサカサと軽い紙幣を揺らす。
そうして再び柵向こうに立つイギリスへと視線を遣れば、何故か呆れたようにため息をついていた。
「‥‥飲まねぇよ。ていうかお前んとこの職場のスタッフは何であんな俺にコーヒーを飲ませようとするんだ。いい加減胃が痛くなるわ、馬鹿」
「えー?隣国からわざわざお越しいただいた上に仕事ほっぽりだしてスト決行中の上司に成り代わって仕事をして下さる勤勉なる英国閣下を、心よりお持て成ししようとしただけですーう」
「語尾伸ばすなウゼェ。テメェやっぱ仕事サボってんじゃねぇか!」
「あーあーあーストライキ続行中ー。‥‥って、ちょっと止めてよひっくり返ったフナムシ見るみたいな目!」
「失礼だなお前、フナムシに謝れ」
「俺じゃなくて?!」
軽口を交わしながら柵に沿って移動し、テラスから直接通りへと出ることの出来る洒落たスイングドアを押し開ける。最後にもう一度、先ほどまで己が使っていた卓へと視線を遣り、カップと紙幣を回収していた店員に軽く手を上げて芳しき琥珀と恋人待ちの場所を提供してくれた礼をすれば、すました顔に一瞬だけ艶のある笑顔を滲ませて応じてくれた。ああ、パリっ子はやはりこうでなければ。
「さぁて、それじゃ行くか。‥‥なぁに、どうしたのイギリス」
「‥‥何でもねぇよ」
「ああ、妬かなくってもいいって、隣国のぼさぼさちゃんにはちゃーんとぼさぼさっとした色気がありますから!大丈夫!」
「ボサボサ言うな!あ、あと妬いてなんてねーからな!」
公称年齢のわりに丸い頬を赤くし、説得力の皆無な反論をする恋人の肩を押して歩き出す。
通りを行く仕事帰りの人々の足取りは軽い。当然だ、仕事を終えればそこからが本来の己の時間。仕事は生きるための手段であり、目的ではない。
言論と理念、情熱と芳しきアロマが作り上げた美しき『フランス』の日々を謳歌すべく、歩いていく人々を見つめる。
彼らはどこに行くのだろうか。優しい家族と美味しい食事の待つ家庭?それとも、甘い言葉と笑顔で待っている、恋人のもとへ?
「あー‥‥紅茶飲みてぇ‥‥」
「あ、そう?なら早く帰って、メシはうちで食べようか。何食いたい?」
「なんでもいい、美味いの」
「お兄さんのお勧めはお兄さん自身ですが」
「‥‥‥‥、紅茶と美味いメシのあとなら。って、ちょ‥‥ッ!」
冗談に混ぜ込んだ誘いに平静を装って応じた恋人を、フランスは素早く抱き寄せた。たたらを踏んだ恋人の仕事用の革靴がタン!と一つ大きく鳴いたのに、通りを行く周囲の視線がちらりと向けられたので、其れを気にするだろう恋人は頭ごと胸に抱き込んでしまう。自分は、視線など気にしない。
「フラン、ス、ッ!」
「んんん、ちょっとだけ‥‥」
女性の其れほどではないが己よりは確実に薄い身体を抱きしめ、硬い金髪に顔をうずめる。
フランスの鼻が捉えるのは、膨大な量を捌いたのだろう書類の印字インク、空調設備の消臭芳香剤、部下達から饗されたというカフェの香り。今の、彼の匂い。
‥‥かつて彼は、おびただしい血と硝煙に塗れていたこともあった。
革命とまで呼ばれた産業の大転換にはタールや油煤を従えて高慢な笑みをはいていたこともあった。
けれど、本当の、根本の匂いは変わらない。
今とは比べ物にならないほど長く危険だった海峡を渡った。
神秘に満ち満ちた大森林を、ただ一人を探して歩いた。
『‥‥だれだ、おまえ』
会いたかった、金と緑のこども。
青い波濤と白壁の向こう側、深い緑の森の奥深くで出会って以来変わらない、森と大地の匂い。
「‥‥あー、あとは紅茶かぁ。近世からのくせに凄く馴染んでるっていうか、甘く誘ってるっぽいのがすごくクるっていうか‥‥」
「‥‥っいい加減に、し、ろ!」
「おふォッ!」
ドフッ!と、すっかりと平和を享受している筈の天下の往来にはおよそ相応しくない暴力的な音と共に、フランスは危うく膝をつきかけた。痛い。
あの至近距離でどうやればこれだけの威力が出せるのか常々疑問でさえある、鳩尾へと叩き込まれた拳に、フランスは金髪へとうずめていた顔を別の理由でうずめる格好となった。イギリスの首筋に。
「ちょ、坊ちゃん、痛いってばぁ‥‥」
「うるさい変態。潰されなかっただけありがたいと思え。‥‥っ、首筋、で喋んなっ!」
どこを。なにを潰すの。と反射的に訊きそうになったけれど、どの道痛そうな答えしか返ってこないに決まっているので、訊かない。どこをってアソコで、なにをってナニに決まってますよね、はい。
『抱きしめる』と『縋りつく』という行為は体勢的には意外に似通っているのだが、心情と内実には大きな隔たりがあり、そしてその縋りついてようやっと立てている身体を更に引き剥がされそうになったところで、フランスはようよう自分から、身を引いた。
鈍く痛む腹を押さえながら、こみ上げてきた笑いに肩を震わせる。
「あー‥‥痛ぇ、もう、お前ほんと手が早いんだから」
「往来で唐突に抱きついてくる変態に言われる筋合いはねぇ」
きっぱりと言い切ったイギリスは実に冷ややかな視線の仁王立ちではあったけれど、取り繕いきれなかったのだろう頬と耳の赤みがアンバランスな可愛らしさを醸しているものだから、やはりフランスは笑ってしまって、ますます緑の瞳はキリキリとつりあがる。
「あ、待ってってイギリス」
「うるっさい!ついてくんな変態」
「いやいやいや坊ちゃん? お前の行く先ってどこよ?」
「‥‥ッ!帰る!ロンドンに帰る!!」
「ああはいはい、パリの俺のおうちに帰るんだよねー?よし帰ろうすぐ帰ろう」
終いには情けなく腹を押さえているくせ、ニコニコと笑いっぱなしの恋人を残して立ち去ろうとしたものだけれど、逃がすフランスでもない。腕を引く。手を取って、歩き出す。
「引っ張んな!」
「いいじゃないの、早く帰って紅茶飲みたいんでしょー?お兄さん淹れてあげる」
「俺が淹れたほうが絶対に美味い」
「はいはい。ならお兄さんが美味しいご飯作ってる間紅茶淹れてくつろいでて」
「‥‥んだよ、一緒に飲まねぇのかよ」
「ああ、坊ちゃんお願い。あんまりお兄さん煽んないでね、紅茶と美味しいごはんの前にお前食いたくなっちゃうからね!」
「‥‥馬鹿だろお前。ばか。ばーか」
尚もこどものような悪態をつく恋人は、けれどフランスの手を振り払うことはない。
上機嫌に歩くフランスにつられたか、或いは今日一日フランスに成り代わり囲まれていたスタッフや、夕闇迫る通りをそれぞれの場所に赴こうと軽やかに足を進める、愛の国の住人達に感化されたのか。
「‥‥コーヒー味」
「‥‥。なによもう、坊ちゃん、煽んないでってば」
「帰ったら紅茶な」
「つまり俺色に染めてやるぜ発言ですねわかります!」
ほんの一瞬だけ触れ合わされた唇は、どちらもカフェの香りだったけれど。
けれどやはり、恋人の深い場所からは森と大地と、紅茶の匂い。
きっとこれは、イギリスがくれた恋の香り、なのだろう。
メリッサ
end.(2011.10.10)
英仏共同のプロジェクトか何かで兄ちゃんが逃亡したので、イギが代わりにパリのオフィスに乗り込んでました。(作中で言え)
スタッフからはコーヒーとお菓子いっぱい貰ったんじゃないかと思います