太陽が好きだ。
澄み渡る青に輝く太陽、純粋な青に親しみ其れを愛するがゆえに美しいその姿。
自分は空の青ではないことは、知って、なお。
連続して落ちてきた水滴に、つば広の麦わら帽が軽快な音を立てて揺れた。
予期せぬノックに土の上にしゃがみ込んだまま、スペインは緩く顎先を上げる。
視界を占める瑞々しい緑の隙間から零れる陽光は目覚めたばかりの低い位置から。濃い緑の瞳をかすかに眇めて、曙光の淡さを取り払い艶やかな南国の太陽へと生まれ変わろうとする光の矢をやり過ごす。澄んだ空気に拡散せずに降り注ぐ陽光は鮮やかで、軍手を填めた片手で麦わらを取りつつ真上を見上げれば、豊かに繁った緑と、澄み切った空の青。
「えーぇ天気やんなぁー‥‥」
呟きが聴こえたかのようなタイミングで、ぱらりぱらりと再び水滴が降って来た。雨ではない。屈んで作業を進めるスペインよりも丈高く豊かに繁った野菜についた、朝露だ。
スペインは腰に手をやると、うっそりとした動作で立ち上がった。農作業用の長靴が滋味のたっぷりとした畑の土を踏みしめて柔らかな音を立てる。足先には柳籠、もいだばかりの鮮赤や暗紫に軽く笑って、長靴の甲を這っていた小虫をトマトの苗の袂へと払って落とした。柔い赤を宿した土色の身体をくねらせて地中へと帰っていく小さいながらも勤勉な耕作者をのんびりと見送る。
それから顔を上げ、ひとつ息をついて辺りを見回した。
緩やかに続く緑の丘陵には、数軒ずつの集落が点在している。
滴る緑はところどころに石垣を供えたオリーブ畑だ。緩くくねった小道の端に、鮮やかな原色がわだかまっているのは愛らしい花たち。6月の初夏には綺麗だった向日葵は、夏も終わりの今は見れないが、来年もまた、滴るオリーブオイルのように綺麗な金色を緑の世界に落とし込んでくれることだろう。
空は晴れ渡り、雲ひとつない深い青。
明け方近くもそうだったのだろう、暁闇を奔る雲払いの風を厚い白壁越し、微睡みながら聴いていた気がする。
「トマトやナスが濡れてんのはそのせいかいな‥‥」
「どのせいだ?」
「明け方の嵐のせい」
背後から掛けられた声に動揺せず応えられたのは、勿論その相手がそこに居ることに気がついていたからだ。
それは同時に、相手が自分に存在を知らせるように気配を殺さず来てくれたからとも言える。スペインが彼に初めて対面したのは彼が自分の腰よりももっと小さかった頃だが、思えばその頃からこの相手は、滅多やたらに強かった。いや、軍事力という意味では自分やフランスに及びもつかなかった筈だから、純粋に強かだった、というべきか。
霧深い辺境の島国、けれどその小さな身体に秘めた牙は本物。
当時の自分も大概痛い目に遭ったものだが、今こうして起き抜けからプレスの利いたシャツにネクタイ、ニットのベストという上品な格好、それでいて仔猫のように小さくあくびを繰り返しながら気だるげに立っている姿からは、当時の悪辣さはちょっと想像しにくい。
「あ?なにジロジロ見てんだよコラ」
「いや、やっぱ想像できるわぁ」
「何が」
さすがにそれに正面きって答えることはせず、スペインはヘラリと笑うに留めた。爽やかな朝の農作業明け、作業着の背にも腹にも足跡なんて食らいたくはないというものだ。
「自分せっかくのバカンスやん、まだ寝とってもよかったんに。ごはんまだ出来てへんよー」
「いや、屋敷でもいつもこれくらいに起きるから‥‥」
「ああ、老人は朝早い言うもんなぁ」
「俺より年上のお前は仙人かなんかか?あ?霞とトマトと読めねぇ空気かっ食らって生きてんのか?」
まだ眠気を残しているようにみえる緑の瞳に、剣呑な光が灯るのを笑ってかわして、代わりのようにトマトやナスでいっぱいの籠を押し付けた。
想像以上の重さだったのだろう、ほっそりとした身体が一瞬たたらを踏んだのに、慌てて腕を伸ばして支えてやる。
「‥‥イギリスー。もうちょい鍛えや、体力落ちてると違うのん?」
「ううううるっせぇよ!ちょっと、予想外だっただけだ!」
離せ!と吠えついてくる顔はほんのりと赤みが差してやや幼い顔立ちが更に強調され、妙に可愛らしい。
中身と外見の落差が激しいとは、各国にたびたび言われている彼だが、いやいや、意外に中身も可愛いのだ。‥‥そんなことは、自分が知っているだけでよいのだけれど。
「はいはい、お野菜さんは落とさへんよう俺が持ったげようなー」
「だっから持てるって!」
「ええのええの、代わりにイギリスは俺にくっつく役な」
「は?!‥‥って、おいッ」
肩に籠を担ぎ上げ、空になった片腕で細い腰を抱き取る。
作業用の軍手は軽くはたいてはいたが、もしかしたらベストの脇を汚してしまうかもしれない。まぁ、案外相手は気がつかないかもしれないが。
やんわり抱き寄せた恋人は、あ、とかう、とか、言葉になりきらない声を発して耳まで真っ赤に染めていたので。
「‥‥なんやの、もーイギリスへんなとこで可愛いから困るわ」
「はぁ?!なっ、なに、も、‥‥ばかぁ!!」
「はいはい。あ、痛い痛い、トマト落とすから止めてー今日のごはんやでこれ。焼きトマト好きやろ、自分。ご近所さんからうみたての卵もらっとるから、それもつけたげよな」
「う‥‥ッ」
じたじたと暴れていた彼は、けれど食事の一言でスペインの顎をぐいぐいと押し上げてきていたのを止める。
一瞬宙に浮いた白い指先に緩く顔を傾けてキスをすれば、まるで悪いことをした子どものようにぱっと両手を自分の背中に隠したので、堪えきれずに笑ってしまった。
「あっはっは!もー、イギリスかわえぇなぁ!そんな逃げんでもええやんー、キスさせたってやー」
「ばばばばばばかッ!何、何言ってんだテメェ!」
「え、だからキスさせたってって、」
「繰り返し言えっつー意味じゃねぇ!!」
もう意味わかんねぇワケわかんねぇ存在自体がわかんねぇいっそもう一度ボコッてビスケー湾に沈めてやろうか、などと。
俯いてブツブツと呟くのに、スペインは内心でニヨニヨ笑いながら肩の籠を担ぎなおした。
言っていることは限りなく、この上もなく不穏だが、そのくせ自分の腕の中からは出て行かずにそっと温かな細い身体を凭せ掛けてきているのは、果たして無意識なのだろうか、この可愛い相手は。
とはいえ、揶揄が過ぎれば容赦のない報復がくることは経験上、‥‥いや自身の経験則ではなく愛と美に生きる隣国の観察経験上、心得ている。あの内臓を搾り出されるような跳び蹴りも拳が空を切る音が聞こえる正拳も食らいたくはない。
スペインは尚もぶつぶつ可愛く顔を染めて物騒に過ぎることを呟く相手の腰を解放する。
ぱっと離れたスペインに、驚いたようなきょとんとした瞳を向けてくるのに晴れやかに笑った後、歯先で軍手の縁を噛んで無理やりに脱ぎトマトの籠へと放り込んで、尚も此方を見上げている恋人の、白い白い手をそっととり、指を絡めるようにして繋いだ。
ピクリ、と震えたのが擦り付けるようにあわせた手のひらから伝わる。
「‥‥‥‥おい、」
「ん、ええやん」
何がだよ、とかなんとか、小さな文句が尚も続いていたけれど、スペインは全て無視して笑い、緩く絡めた手を引いて建物へと続く畦を歩き出す。
素直についてくる温もりに、密やかに笑った。
「えーぇ天気やんねぇ」
「‥‥ああ、そうだな」
「ほらイギリス、空見てみ。真っ青やんなぁ」
「‥‥だな」
言葉少なに頷いて応える、けれど視線は落とされたままなのを知っている。知っているから、やはり密やかに笑って、手を引いた。
イギリスは、青空が好きだ。
澄んで乾いた空気を透過して瞳に飛び込んでくるような、鮮やか過ぎる青。それはこの地の誇る、己の頭上に広がる澄み渡った空の青だ。
霧と雨が数千年の時を越える深い緑を守る彼の母国では、そう毎日拝めるようなものではない。それもあってかかの国では、バカンス先や老後の移住先にスペインが常に上位にランクされるという。
そして青は無垢であり、純潔であり、高貴であり、手の届かないものの象徴でもあった。
‥‥彼が、かつて手にして、失ったものの象徴でもあった。
彼は太陽だったのだ。世界を席巻し、その手の内に無いものをひたすら求めて大海を山麓を駆け巡った、世界を覇した太陽。
そうして手に入れた青。太陽が安らげる鮮やかな青は空色の瞳。海を越えたその向こうに彼は安らぎを束の間手にし、そして、失った。
「青空、好きか?」
「‥‥ああ」
美しい青。かつて彼が失った、永遠の無垢。
スペインは大きく、大きく息を吸った。
作業着の下に収めた胸を大きく膨らませて、背をそらすほど。
朝露を含んだ大気は清冽で、身体の内側を曙光の名残の淡い温みが満していく。生まれたての太陽の味だと、埒も無いことを思う。
唐突な動きに驚いたのか、繋いだ手のひらごしにイギリスが身じろいだのを感じたけれど、構わずに息を吸いきって、それから、吐く。今度はゆるゆるとゆっくり、肺の中身を全部搾り出すほどに、最後まで。
そうしてもう吐く息がない、というところまで息をきってから、チラリと手を繋ぐ恋人を見遣る。
日頃(酒が入っているときを除けば)何かと理屈っぽい恋人は、脈絡のないスペインの行動に面食らっているのか、困ったような呆れたような、少しだけ心配しているような表情で、スペインを伺っていた。
「‥‥んだよ、どうかしたのか?」
「んー‥‥、ん。」
「んむ、」
触れ合わせるだけのくちづけは、ほんのりとした朝の太陽の温みを分かち合うように。
綺麗な、緑色の瞳だ。
青に焦がれて、青空が好きで、そして今では何の気まぐれか青空の美しさを誇る自分の恋人なんかにおさまっている、かつての太陽。
気まぐれにやってきては寛いだ風に青空を楽しみ、嵐の明け方は腕の中で温もりを分かち合って眠り、仔猫みたいなあくびをしながら朝露に濡れる畑へと迎えに来てくれる。
手を繋げば照れた風に文句を言いつつ、傍に居てくれる。
かつての太陽。幸せになりたがっていたイギリス。彼が愛した小さな青は、もう離れていってしまったけれど。
「スペイン?」
「なーぁイギリス、青空、好き?」
「あ、ああ、まぁ、それよりお前」
「じゃぁ。俺のこと、好き?」
「‥‥んだよ、朝っぱらからお前はぁ」
ばか、とか。答えは甘い罵倒と、お返しのような触れ合うだけのキス。
かつては悪辣なまでに強かだったひとの、それが今の姿。
スペインだけに、恋人だけに見せる姿だと、知っている。
だから、まぁいいかなと思うのだ。
失ったものに、イギリスはきっと生涯固執し続けるだろうけれど。
‥‥そしてその青もまた、彼のことを深く愛しているがゆえに離れたのだと。本当は、知ってはいるのだけれど。
けれど、それは言わない。
自分はそこまで人が良くはない。
かつては自らもまた覇権を握り太陽の沈まぬ国と呼ばれた身、けれどスペインは空の青ではなく、自らに取って代わった太陽を、愛した。
その太陽から独立する助けをし今では世界に冠たる超大国、いまや世界の太陽に上り詰め、そして今も嘗ての兄を深く愛しているこどもにこの座を譲るほど、自分は愚か者ではない。
渡さないし、失くさない。‥‥泣き濡れた太陽は、美しい青空を持つ俺のところに落ちてきたのだ。
そう、自分は青ではない。解っている。けれど。
「好きやでー」
「ッ、だから、」
「あ、今日のトマトほんま美味いから!朝採りのトマトなぁ、いっとぉ美味いんやで。食べさせたるわ。よかったなあイギリス、恋人がメシの美味い国で」
「う、うっせぇよウチのメシだって本気だしゃ美味いんだかんな!」
「あーそかそか。ナスはフライにしよかこれがワインとめっちゃ合うんやて!もぉびっくりするで」
「聞けよ人の話を!ああもうそんなんだからジブラルタルお前に返すのヤなんだよ!」
「意地悪言わんこぉにはよ返して!」
かしましい上に平然と臓腑を抉るというか真剣に怖いことを言ってくるけれど、繋いだ手を引けば逆らうことなく並んでついて来てくれる。
この矛盾だらけで可愛い太陽が、スペインは好きだと思う。もう手離せないと思う。
「えーぇ天気やんなぁ。朝メシ済んだら散歩でも行こか。ほら、あの丘の向こうな、お花畑あんねんで」
「‥‥ああもうお前なぁ、‥‥いいよそれで。花畑でもどこでも付き合ってやんよ」
言っとくけど花が見たい俺のためであってお前と一緒に見れたらいいなとかそういうことじゃないからな!
そんな予定調和な可愛くなさ過ぎて可愛い言葉へとそこはかとなく混ざって滲む甘い色に、スペインは澄み渡る青空を見上げて。
空の青のようにあでやかに笑った。
自分は空の青ではないけれど。それでも太陽が、好きなのだ。
フェイクブルーの真実
the end.(2010.05.25)
『空の青と本当の気持ち』と同設定。
親分が世界を征した時代、奪った金銀は殆どロマーノの為に使ったけれど
本当に大切なものは何食わぬ顔で絶対に手離さないと思います