俺には愛している人がいます。大切な兄弟がいます。
だから、生きている。生きていく。









英軍の光が引いていく。
雨水の幕の向こうの行軍は不思議なほどにゆったりとしているように見えた。
それは慣れない新大陸の豪雨に足を取られているのかもしれないし、或いはこの戦いの、この、長く凄惨な戦争の、決定的な戦闘が終了してしまったことを、知ってのことかもしれない。
雨音は世界の覇者たる帝国の行軍の音さえ飲み込んで、酷く、ゆったりと。

「‥‥アメリカ」

ゆったりと、したその声は。
本来ならその行軍と一緒に、消えていなければならないものだったのだけれども、けれど同時に彼が此処にいるのはまったく自然な、本当に当たり前のようなことに思えて、アメリカは雨向こうに潤む『兄』の光を見ながら、うん、とだけ掠れた声で、返事をした。

「アメリカ。」
「‥‥うん」

雨音。兄を、自分のことを愛して愛して愛しつくしてくれたそのひとを、飲み込む音が煩い。けれど、彼の声は聴こえた。不思議なほどに。

「終わったね」
「うん」
「これで、君はもう英領アメリカじゃないんだね」
「うん」
「もう、お別れなんだね」
「‥‥カナダ」

不思議なほどにゆったりとした彼の声は、その身を自分と同じように‥‥けれど色の違う軍装を血に汚しているにも関わらず、まるでほんの数年前、優しくて不器用な兄と彼と、そして自分とで過ごしていたままごとのような柔らかな日々に聴いていたそれと、同じように聴こえた。
優しかった日々。楽しくて、世界に、世界の中の特別なひとに、自分が愛されていることを疑いもせずにいた、光の日々。
ずっとそんな日々が続くのだと、あの頃の自分は思っていたのだろうか。もうそれさえ思い出せない。

「カナダ」
「なんだい?」

自分は変わってしまった。自分は、捨ててしまった。‥‥捨てざるを得なかった。




国内の不満はいや増すばかり。
フロンティア、新大陸、遥か辺境の地に降り立ってその地を拓いてきた矜持は、その精神は、どうしたところで『兄』には伝わらなくて、どんなに身体が大きくなっても、どんなに言葉を尽くしても、伝わらなくて。
不満、不満、不満。きっと全く別の血が流れていればこんなにも歪まなかった。割り切れた。けれどそうではなかったからこそ、それは近親であるがゆえの鬱屈。‥‥愛する『兄』、母なる国への、抑え切れない憎悪。
『兄』はいつだってアメリカに優しく強く、際限のない愛情を注いでくれた。重い税も過干渉も根源は全て『兄』としての彼の不器用な愛だ。
寂しいひとだった。気難しくて、決定的ななにかが欠けていて、けれどそれを無意識に、なんとかしてうめようとしているような、ひとだった。
『兄』がくれた愛。執着、といっても差し支えはないけれど、けれど兄はその干渉の全て、彼自身の全てをかけて、『アメリカ』を選んだ。愛した。愛する為に、選んだのに。

自分は愛を、貰ったのに。




「もう、無理だった」




言葉は雨に溶け出るように、零れ落ちた。
無理だった。もう、駄目だったのだ。だって、自分は変わってしまった。

強大な『兄』の絶対的な庇護の下、身体はどんどん大きくなり、世の理が、「国」たる自覚が次第に身体へと染み渡っていく。
好奇心、広大な豊穣の大地、開拓、文明、学問、芸術、産業、‥‥中央世界の列強、金銭、血と鉄、闘争、混乱、混沌、不安、不満、不屈、矜持、敵愾心。
そうして時を刻んで、己の身体の使い方を知って、この国土の、自らの中の魂全てが望むものに思い至ったときに知った、愛と、絶望。

「好きだったんだ」
「‥‥うん」
「彼が好きだった。同じくらい疎ましかった。けれど彼を、愛してた」
「知ってるよ、君はあのひとをとても、愛していたね」

染み渡るような、兄弟の声はゆったりと。
何もかもを理解してくれる半身の声が、雨音に溶けてアメリカへと降り注ぐ。
一人ぼっちだった自分を選んでくれた、ひとりぼっちの『兄』。
差し伸べられた腕、眼差し。心。




それらを全て、アメリカは今、捨てる。




英軍の光はもう遠い。
この戦闘の結果は瞬く間に各地で繰り広げられている戦場に広まり、情勢は動くだろう。この戦争は戦地の設定が些か特殊で、いわば全土展開の内乱だ。闘う相手ははっきりしているくせに主戦場と呼べる場所が曖昧なぶん、これからも各地での戦闘は繰り返されるだろうけれど、今回の戦闘で、山は越した。
中央世界はいまやほぼ全てがアメリカの味方だ。否、これはイギリスが彼らを敵に回したというべきだろう。中央の連中は本当に複雑怪奇で面倒くさい。好きと嫌いの境が曖昧すぎて、若い自分には全く持って理解できない。
‥‥せいぜい解るのは、今こうして傍に立つ、本来は真っ向から敵軍のはずの兄弟のことくらい。

「カナダ」

兄弟の名を呼ぶ。
きっと今日を限りに、彼と共にあることはない。
英領であることを選んだ彼と、自分はきっとこの先も戦い続けることになる。彼も自分も、その道を選んだ。自らの意志によって。

けれど。

「カナダ。俺の大切な兄弟。きいて。頼みがあるんだ」
「なんだい」

穏やかで、ゆったりとした大切な兄弟の声。









ねぇ、カナダ。可哀想に、あのひとはもう「自分は選ばれない」と思ってしまったよ。今日わかったんだ、彼は、もう、そう思ってしまった。だって、俺が彼を選ばなかったから。
でもねぇ、カナダ?でも俺は、あのひとを選んであげたいのさ。彼が、自分が誰かにとって必要なものなんだって、彼を選んで、知らしめてやりたいんだ。
酷いよね、酷いことを言っているね。あの人にそう思わせたのは俺なのに、さっき俺は彼を選ばずに全て捨てたのに。
あの人が憎かった、疎ましかった、過干渉で、剣を取り牙を剥き欧州の全てを向こうにまわして傷だらけになってそれでも俺を抱き締めて放そうとしない彼が嫌で嫌でたまらなかった、もう無理だったもう駄目だった、もうこれ以上、彼の傍にはいられないって、『兄』を選んであげることはできないって、‥‥けれど、それでも。




「俺の兄弟。あのひとを、君が選んであげて」




酷いことを言っているね、酷すぎる、俺は。でもねぇ兄弟。けれど、どうか。あのひとを、あの可哀想なひとを、選んであげて。俺には出来ないんだもう遅い、もう無理なんだ駄目なんだ。だから、君に託す。




「ごめんね。わかってる、解ってるごめん、酷いことをしてる、言ってる、ごめん、ごめんなさい、ごめんね、」




自分は失ったのだ、捨てたのだ。彼らの、愛するひとの、大切な人たちの傍にいる資格をすべて振り捨てた。選ばなかった。

雨音。英軍の光はもう見えない。
ああ、戦争が終わる。彼らとの優しかった日々が、終わる。

「アメリカ、」

傍にいるはずの兄弟の姿さえ、涙が邪魔して見えない。
優しくゆったりとした、兄弟の声。
そうこたえてくれると知っていた。‥‥たったひとことを、くれたから。

「‥‥ありがとう。さようなら」

愛していた、愛している。‥‥これからも未来永劫愛し続けるひとの声に酷く良く似ていて。胸が、痛かった。
痛む胸をおさえて、笑った。



















「よーし、これがヒーローからの最終提案だ!反対意見は認めないぞ!」
「認めろよ、バカ。つーか俺がテメェの意見を認めねぇっつの」
「どっちもどっちでしょー。お兄さんは両方にはんたーい」
「私はその、アメリカさんの意見について善処しますと申しますか‥‥」
「ふふ、みんな僕の領地になっちゃえば意見も簡単に纏まるのになぁ」
「ヴェー、おやつにみんなでピッツァでも食べない?焼いてくるよー」
「ええいお前らいい加減にしないか!!!」

お決まりといえばお決まりのパターンでの散会、会議室から三々五々、といっても8カ国だけだけれどまとまりのなさは十分に知れる各自の行動。
弾むような足取りで「ヴェー、パースター」と歌いながら(ピッツァじゃなかったのかい)出て行くイタリアに、忍耐が常時フル稼働気味なドイツが付き合って出て行く。その横にいるのは表情の薄い日本だ。
戸口へと向かう、一見にこやかなロシアに親しげに話しかけているのはフランスで、まぁまた天然ガスの供給についてでも話しているのだろう。フランスはもっと鍛えて耐寒訓練でも何でもすればいいのにと少し思う。

そして、そこから少し離れた場所で。

「‥‥ったくどいつもこいつも」
「あはは、まあまあ。意見いえるだけいいじゃないですか」
「いやお前も意見出せよ?」
「‥‥‥‥。出してたんですけど、聴こえませんでした?聴こえませんでした??」
「う、」

何気ない遣り取り、親しげな、穏やかな会話。
窓辺から差し込む柔らかな、よく晴れた午後の光の下、寄り添うように佇んでいる姿。

「ほら、帰りましょうよ。ね、クマ吉さんもお腹すいたよね?」
「ン、誰?」
「君の飼い主のカナダだよ!」
「お前ら相変わらずだな‥‥」

穏やかな声だった。優しい人の、優しい声だ。
嘗て聞き飽きるほどにきいた声は、けれど今は隣に立つ相手にだけ向けられる。

「あー、カナダ?今日はだな、俺がカレーを」
「へ、あぅ、それは、‥‥」
「ぼっちゃん!!!俺のカナの味覚を破壊しないで!!」
「誰がお前のカナダだとゴラァ!?」

泡を食う勢いで割って入ったフランスの言葉に、もうテンプレートと言っても過言じゃない反応であのひとが拳と同時に言葉を返して、あとはいつもの展開だ。まったく、なんて飽きない大人たちなんだろう。

「コイツは俺んだっつの!!禿げろそして滅びろワイン野郎!!」
「んなッ?!お兄さんはどこもかしこもフサフサです!!なんだったら二人一緒に俺のベッドでご立派なのを披露‥‥ッてあぶな!!ちょ、お前今時靴にナイフ仕込むとかしてんじゃねーよ!!今ヒュッて言った、ヒュッて!!」
「よーしフランス、大人しく蹴られとけ刺されとけ滅ぼされとけ。じゃなかったら汚物切り落とされとけ。な?」
「にこやかに怖いこと言わないでぇ!!」

窓から零れる光の中、いつもの展開、いつもの光景。
拳でじゃれあう駄目な大人と、それに寄り添う、俺の兄弟。

「イギリスさん、カレーなら今日は僕が作りますよ」
「ふぁ?‥‥え、でも」
「イギリスさんに作ってあげたいなぁ、駄目ですか?」
「え、ぅ、いや‥‥それは、」

ほにゃほにゃと笑う恋人に、腐れ縁の胸倉を掴んだまま挙動不審になる。
お前らラブラブだよねぇ、お兄さん悔しいわ、だなんて、あきれ返った声はもうきっと彼には届いていない。だって、傍に佇む大切な、大切な恋人が彼だけをみて、微笑んでいるんだから。

「ね、だからもう帰りましょう?」
「‥‥‥‥し、しかたねぇな、お前がどうしてもっていうなら、作らせてやってもいい」
「今日はクマ太郎さんがいるからシーフードカレーにしましょうね。この前フリーザーに入れといたサーモン、まだありますか?」
「使ってない。ていうか食うつもりで解凍しようとしたら1匹爆発した。何でだ?時限性の魔法か?」
「‥‥。うん、まだありますよね、それじゃ残り使っちゃいましょう。あ、メイプルシロップいれたら美味しいんですよ!」
「まかせる」

可愛い恋人に腕を引かれて部屋を後にする彼は、優しい眼差しと優しい声。
‥‥己を選んでくれた大切な、大切なひとを守り愛そうとする優しく愛情深い彼の、声。

選ばれたんだね。
選んでくれたんだね。

俺は、選ばなかった。選ばなかった。あれはあの雨の日に捨てた場所。

‥‥ねぇ、それでも、俺は。




「愛してる、イギリス。大切なんだ、カナダ」



















俺には愛している人がいます。大切な兄弟が、います。
だから、俺は生きている。生きていく。

「イギリス、カナダ、」
互いを選んで、幸せに微笑みあう二人。









俺はあの雨の日に選んだ胸の痛みと、生きていく。









 I'm alive





the end.(2010.03.11)

愛しているからこそ離れただなんて、君は知らなくていい。
大切だからこそたくされてくれた唯一無二の兄弟、君の幸せを心から祈る。

カナダさんは別に兄弟の身代わりとしてイギの恋人になったわけではなく。
ただ兄弟と同じくらいに、兄弟のことも兄のことも愛していたから、こうなっているのです。
その兄弟の繋がりは、他国にも、イギリスにも絶対に解らない。そんなイギ大好きな北米が大好きです。