何の変哲もないごくシンプルな白い壁を、色鮮やかな毛織の壁掛けが覆っている。
先頃隣国へと会議で出向いた際に、なんとなくの思いつきで購入したものだ。しっかりとした毛織の其れは厚く大きさもあり、壁に掛ければ入念な断熱を施してなお染みてくる冬の気配を遠ざけてくれるように思えた。織り込まれている絵柄も、あの自身を含めた何もかもを飾り立てるのが使命とでも思っていそうな男の国のものとしては控えめで、淡い色調の糸を丁寧に濃淡をつけて、優しい柔らかな印象を醸している。

今まさに、この部屋に柔らかくこだましている笑い声のように。

「あはは、それじゃブラッキー、いくよ?‥‥それ!」

その壁掛けに、白いゴムボールが当たる。
威力も速度もない其れは、ぽふんと和やかな音と共に跳ね返って床に落ち、絨毯の上を軽く弾みながら、ソファに座るドイツの足元へと転がってきた。妙におっとりとした転がり具合は、やはり先日冬用に敷き換えたばかりの毛足の長い絨毯のせいか、はたまたボールを投げた人物の影響か。
何にせよ、跳ね返ったボールはドイツの座るソファの方角へと転がり、けれど彼の足先へと当たる前に、姿を消した。

「ブラッキー、」

ぱたぱたぱたと、黒いしっぽが揺れながらドイツの目の前を通り過ぎる。
口には白いゴムボール。そして、彼の主であるはずのドイツの呼びかけには、ちらりと一瞬、視線を向けただけで。

「‥‥‥‥。」

素通りか、そうか‥‥。
ドイツはなんとなし、黒い毛並みも美しい長年のパートナーの後姿を、遠い目をして見送った。
太い脚と立派な身体を持つ彼は、非常に上品な足取りで居間を横切っていく。
大柄な身体からも判るとおり、彼本来の居場所は太陽の光もまぶしい広い広い草原や運動場で、人の脚力など足元にも及ばない速度で駆け回るのが本分だ。勿論、ドイツのパートナーとして人間社会に属する為の規範は身につけているため、街中で無闇にはしゃいだり駆けたりはしないが。
しかしながら、そもそもが運動量豊富な大型犬である。決して今のように、さして広くもない室内でおっとりとしたボールを投げられ、其れを拾いあげては上品に歩くスピードで持ち帰るというような、言ってみれば退屈な遊びは、好まない犬なのだが。

「わぁ、ブラッキーは賢いんだね、ボールありがとう」

軽やかで愛らしい、おっとりふんわりとした声音はその、黒い毛並みの向こうに埋もれるように座り込んだ人物から。
普段使いの絨毯の上に重ねるかたちで床に直に座れるよう、クッションのあるラグを敷いたその上に、丁寧にたたまれた細い脚。
華奢な身体を柔らかい素材の冬服に身を包み、しかしその上からでもしっかりと見て取れる、女性らしい優美な曲線で構成されたフォルム。ハニーゴールドの豊かな巻き毛は、今は耳元で一つに束ねられてすっきりと清潔な印象だ。
そして、真っ白でふっくりとした小さな手が、ボールを持ち帰り膝上へと落とした黒犬の頭を、愛情のこもった優しい手つきで撫でさする。

「きゃっ。やぁだ、くすぐったいよブラッキー。アスターも」

頭から首の後ろ、耳などを丁寧な手つきでなでられたブラッキーは至極ご機嫌にふさふさの尾を振ると、目の前の細い身体にぐいぐいと身体を押し付けて甘えた。それを見たからか、それまで座る彼女の傍に付き従うように伏せていたアスターも、自分も撫でろと言わんばかりに綺麗にくびれた腰へと頭を擦り付けている。彼女の後ろにはもう一匹、此方は大型犬に圧し掛かるように擦り寄られた彼女が後ろに倒れないようにだろうか、背もたれ代わりのクッション役を進んで買ってでて、もふもふとした大柄な身体を横たえていた。

「‥‥‥‥。」

なんというか、実に、非常に、懐いている。
まるで自分たちの主人はこの相手だと言わんばかりに、懐いている。
本来の主人は一瞥して素通りなのに、普段はしない遊びにしても、自分が遊ぶ為というよりむしろ彼女を喜ばせようとしているかのように機嫌よく付き合い、じゃれつき、寄り添い。全員で、はるばる大洋をひとり渡って来訪した彼女の、とびきりの笑顔を引き出していた。

さて、これは彼女の優しさと愛情に、彼らが誠実に応えた結果なのだろうか。
‥‥それとも、優しく笑う彼女を密やかに恋い慕う、彼らの本来の飼い主の心情を、代弁してくれているのか。

ドイツは少し離れた位置で尚もじゃれ戯れる、飼い犬たちと秘めたる想い人であるカナダの姿を、密やかなため息をつきながら見遣ったものだった。




「‥‥む?」

来客を告げるベルの音に、知らず浮き立つ心と足取りで玄関へとカナダを出迎えに行ったドイツは、しかし挨拶よりも先に玄関先にほんわりと可愛らしい笑顔の彼女の、普段とはほんの少しの違和感のある姿に戸惑って首を傾げてしまった。

「えっと、ドイツさん?」
「‥‥あっ、ああ、すまない、失礼。ようこそ、カナダ」

ドアを開けて一呼吸ぶんほど固まったドイツに、寒さの為かほんのりとさせた頬をした彼女もまた、ことんと首を傾げた。その瞬間、ほんの少しだけ困惑したように寄せられた綺麗な形の眉に、ドイツは自分の非礼を即座に悟り、はっと息を呑んでから改めて、彼女を室内へと招き入れた。
マナーブックどおりの紳士的な態度で玄関ホールへと招き入れて一先ず落ち着き、丁重な手つきでコートを受け取る。それから、必要以上に馴れ馴れしくはならぬよう、かといって素っ気無くはできるはずもない歓迎の抱擁とくちづけを、彼女へと贈る。

「外は寒かっただろう、その、温かい飲み物と軽食を用意しているから、君が疲れていなければ、お茶に招待したいのだが」
「ありがとうございます、ドイツさん」

会議まで、暫くお世話になりますね、と。
ほにゃっと笑ったカナダがほんの少し背伸びをして、少しだけ屈んだドイツの両頬へとくちづけを返してくれる。勿論、単なる挨拶だと解ってはいるものの、それでも密かに想う相手からのキスであることに心臓が煩いばかりに跳ね騒いでしまうのは、致し方ないことだ。‥‥寄せられた身体からは甘い、いい匂いがする。
殆ど無意識のレベルで彼女の華奢な肩に手のひらを触れさせる。見上げてくる彼女の頬は寒さにだろう、ほんのりと甘く染まって、とても愛らしい。‥‥そして、はしたないとは知りつつも、立ち位置と身長差と自分が男である関係上、彼女の女性らしく、しかもとびきりまろやかなラインを描く胸元に、視線がいってしまい。
そこで再び、玄関を開けると同時に感じた違和感とその正体に思い至り、ぽろりと言葉を零した。

「今日は、あのクマは居ないのか?」
「え?‥‥あ、ああ。クマ吉さんですか」

長い睫に縁取られた湖水色の瞳を瞬かせながら彼女が口にしたその名は、前回あった時に聞いたものとは違う気もしたのだが、何の違和感もなく口にする姿を見ているとそれ以上の言葉は出てこない。もっとも、名前に関しては出てこないわけだが、その腕の中の毛玉の不在については、口に出すのも当然だろうとドイツは思う。

「ああ。彼は、いつも君と一緒に来ていただろう?今回もてっきり一緒にくるのかと思い、彼のための寝床も用意していたのだが‥‥」
「あ‥‥。ごめんなさい」

事実を言っただけの特段意味もなかった言葉に、カナダの肩がふるりと震えたあとで微かに落とされたのに、ドイツは慌ててしまった。
見れば、彼女のひょこんと飛び出た髪の毛も彼女の眉尻と一緒に落ちてしまっている。

「あ!いや、すまない、別に深い意味は‥‥!」

ないのだ、だとか。
君さえ来てくれたなら俺は嬉しいのだ、とか。
ともすれば積年の恋心を口にするチャンスになった、かもしれないドイツの勝負どころは、残念ながらかたちにはならなかった。

「ひゃっ?!」

家の奥から走り出てきた飼い犬たち全員が、ぶんぶんぱたぱたとしきりに尾を振りたてながら駆けてくるなり、可愛い客人をムキムキの主人の腕からかっさらって、熱烈歓迎したからだ。




「熱烈歓迎、過ぎるだろう‥‥」

ぼそりと呟いたドイツの言葉は、尚も床上で戯れ遊ぶ彼女と飼い犬たちには届かなかった。

玄関先でドイツの腕の中、何故だかしょぼんとしてしまったカナダに対し、ブラッキー、アスター、ベルリッツの三頭は、まるで彼女が自分たちの為にこの家へと来てくれたと言わんばかりに喜び、歓迎し、身体を擦りつけたり指先や顔を舐めたりして甘え、ぴったりと寄り添って、殆ど離れようとはしなかった。

彼女が来訪したのが、お茶の時間の前である14時前後。
それから、彼女を客室へと案内しお茶を終え、来週から始まる会議の打ち合わせを軽くして、そうこうしているうちにこの屋敷のもう一人の住人たる兄と小鳥とが帰宅し、隣人で親戚のオーストリアが菓子を手土産に来訪し、全員で賑やかな夕食を済ませた後はプロイセンがブログにアップするための写真を撮りたがったり、オーストリアがピアノを披露したりし。そうして夜も深まった頃に兄が妙にニヨニヨとしながら「今日はコイツんちで寝るからよ!」とオーストリアの首を引っつかんで「コラ!おやめなさいお馬鹿さんが!」とお決まりのセリフが次第に遠くなっていくのを聞いて、今に至るわけ、だが。
ドイツが入念に整えた客室への案内はブラッキーが、前日から頭を悩ませながら「これなら!」と見事な焼き加減にできたクーヘンとお茶を用意していたリビングにはアスターが、打ち合わせ中は三頭全員が彼女の足元に大人しく侍り、プロイセンとオーストリアを出迎えた頃もやはり三頭とも彼女の傍について彼らを迎えに行き、食事中こそ彼らの食事場所へと渋々、まさに渋々と移動したのだが其れを終えればまたずっと彼女の傍。「お前いい加減決着つけろよ!」とニヨニヨと笑いながら弟の耳元へと囁きこむ兄弟を尻目にオーストリアに優雅な別れの挨拶をされる彼女の足元につき従い、そうしてようやっと二人きりの時間となり、兄の言ではないがそれなりのアプローチを、そこはかとなくかけようと、したところで!

「うふふ、まだ遊ぶ?‥‥もう、みんな甘えたさんだなぁ」

甘い、甘すぎる声も身体も独占してじゃれついている飼い犬達は、ソファに座って‥‥というか、カナダとボール遊びをするからと犬達自身が追いやった主人に目もくれない。

「やんッ、ダメだよ、そこは舐めちゃだーめ」

そこって何処だ。俺はそこをいつか舐められるのか。
‥‥とは、さすがに呟けず脳内だけで呟く若者である。

ドイツはひとつため息をつく。
ものの本などを熟読し、それなりに立てていたアプローチ計画を悉く逃している‥‥というか、飼い犬達にそのきっかけさえ奪われている現状に感じる若干の虚しさと、しかしここで諦めてはならないという己を奮い立たせるための、ため息である。
きゃっきゃと楽しげな笑いや物音が響くそちらへ眼を向け、さらに一呼吸置いてから立ち上がり、そちらへと足先を向けた。

一斉に、犬達が振り返る。
それにつられて、ふにふにとした胸元にアスターをじゃれつかせていたカナダもまた、自分のほうへと向かってくるドイツへと、視線を向けた。

「ドイツさん」

呼び声に、ふわり、心が浮き立つ。

彼女が自分の名前を呼んでくれるだけで幸せな気分になれるのは、自分が彼女に恋をしているからだ。
おっとりと少し甘い口調で、もっと自分のことを呼んで欲しい。
そっと手のひらを置いた華奢な肩を、もっと大胆に抱き寄せ、抱き締めたい。
柔らかな頬に掠らせるだけのくちづけではなく、その甘いのであろう、柔らかそうな唇へと、触れ、味わいたい。

‥‥の、だが。

(アスター、ブラッキー、ベルリッツ。お前たち俺になにか恨みでもあるのかっ!)

ぱたしぱたしと、ぶんぶん振られる尾が脚に当たる。
足を踏み出そうとすれば、しぱたんしぱたんしぱたんと、当たる。‥‥踏まれた。

しっかりとカナダにじゃれつきつつ、一方で近づこうとするドイツの脚をどう考えても故意に払ったり踏んだりする、普段は賢く従順なパートナードッグ達を、ドイツは暫し見つめて、見つめ返されて。‥‥諦めて、少し離れた位置に、腰を下ろした。
ずっしりと筋肉のついた身体を受け止めたラグの毛並みが風圧で一瞬ふわりと浮きあがった。
それから、犬達にがっちりとじゃれつかれているカナダ‥‥というよりは、ドイツを遠ざけようと彼女の周りを固めている飼い犬達を、やや疲れた顔で眺め遣った。

「‥‥なんというか、実に懐かれているな、カナダ」
「え?あはは、みんな可愛くって、いいコですよね。すごく可愛いです」

そういうキミこそがよほど可愛い、とドイツは心の中でだけ呟くと、そうだな、と無難な返答をした。

しかしながら、同時に不思議にも思った。

彼女が、カナダがドイツの家にやってくるのは、別段これが初めてでもなければ凄く久しぶり、というわけでもない。
彼女への恋心を自覚して以来、いつぞやイタリアがらみで恋愛本を買い込んだ書肆とはまた別の店舗でその手の本を買い込んで(『カナダ人との付き合い方・恋愛編』は擦り切れるほど読んだ)、そこに書かれていることを参考にしつつ、地道に距離を詰めてきたドイツである。
仕事が重なればランチを共にしたりするし、こうして会議があるときなど、時間が取れればやや早めに入国して数日間のんびりと滞在し、親しい友人としてもてなすのも、すでに珍しいことでもなくなった。
勿論、更にそこから一歩進み、ディナーを共にもしたいし、初々しい恋人同士として、互いの国や家を行き来したいわけだが、そのためにはまず彼女の好意を、それも恋愛としての其れを獲得せねばならない。
その為の、今現在であり、過去にも幾度も会った、カナダの来訪である。であるから、当然三頭の犬達は全員、彼女に既に幾度も会っているのだ。
勿論、主人が厚くもてなす相手として敬意を払い、同時に彼女から寄せられる愛情に、ぱたぱたと尾を振ってもいたはずだが、今日のように全身全霊で、全開で、彼女にまとわりつくことは、なかった、ような‥‥

と、そこでドイツはようやっと、その理由らしきものに気がついた。
何のことはない、彼女が来訪したときにも思い至った、理由だ。

「‥‥‥‥そうか、今日はシロクマがいないのか」

彼女の、カナダのペット。否、ペットという表現では表しきれないかもしれない、いつもカナダに寄り添い、腕の中に抱かれている、ドイツにとっては至極羨ましい相手。
カナダは彼(だろう、おそらく)を軽々と抱きかかえ、いつだって愛しげに撫でたり抱き締めたり喋りかけたり、喋りかけ返されたり(!)しているのだが、なんといっても、クマである。シロクマなのである。‥‥犬達があまり近寄らないのも、道理だろう。
つまり、ドイツの飼い犬達は、クマ不在のこの機会に思う存分甘えてやろう、と思ったのかもしれない。ドイツがドアベルに彼女を迎えに行く際はリビングに居残っていたというのに、玄関ホールで自分たちが遣り取りしている間ににおいなり気配なりで不在を感じたのだろう、その瞬間、駆けてきたのではないか。

「クマか‥‥」

重ねて呟いた声に、犬達の耳がピクン、と震える。
そしてそのドイツの声は、カナダにもしっかりと聴こえたらしい。
それまでいとおしそうに胸元に頭を乗せるアスターを撫でていた手がピタリと止まり、ドイツへと顔を向けてきた。
‥‥はやり、玄関ホールでのときと同様、どこか困ったように、眉と髪の毛を落として。

「あの、ごめんなさい、今日クマ彦さん来れなくて‥‥」
「え?あ、ああ、いや違うんだ、その、キミが彼を抱き締めていない姿は、少し珍しいと思っただけでだな、謝ることじゃ、」
「だって、‥‥ベッドとか、ご用意してくださったんでしょう?」
「それは、その、」

ドイツはそこで、言いよどむ。
‥‥まさか、キミと一緒に眠れるクマに嫉妬した、とは口が裂けても言えない。告白した後ならばまだしも、今日は告白に至る為に仲良くなるプロセスも、踏めていない!むしろ、あのクマがいなければ自分が彼女にもっと近く触れ合える絶好の、たとえばその、正面からいつもより近く抱き締めたりであるとか、得難い機会であったというのに‥‥ッ。ブラッキー達のせいで!ああもうお前たち俺になにか恨みでも以下略!
言うに言えず飲み込んだ言葉に、妙に渋い顔になってしまったドイツに、カナダは豊かな胸に頭を預けていたアスターをきゅっと抱き締めた。まるで、普段そこにいる白い家族を抱いているように。

「あの‥‥クマ大門さん、いま冬だから、あんまり動きたくないって。私のお家でもいっぱい寝てるし、ごはんも今はあんまり食べないんです。クマ衛門さん、シロクマさんだから本格的な冬眠はしないんだけど、やっぱりちょっと、いつもより眠くなるみたいで‥‥」

ぽそぽそと、柔らかく可愛らしい響きで喋りながら、カナダはやはりどこか困った風に眉をよせ、綺麗な湖水色の瞳も伏せがちで、胸元に抱いたアスターをぎゅうぎゅうと抱き締めている。
彼女に抱き締められたアスターは勿論、肩口に顎を乗せているブラッキーは俯き加減の彼女の頬を舐め、背後に侍り寝転んでいたベルリッツも、甘え慰めるように鼻を鳴らしながら背中に擦り寄った。‥‥だからお前達。その場所は、飼い主に譲れ。
と、一瞬思ったドイツであったが、まあ、彼らが怒るのも無理はない、とも思った。‥‥そう、彼らは、不甲斐ない飼い主に、呆れ怒っているのだ。今に至り、漸く解った。

来訪するなり、彼女を困った顔にさせ。
今また彼女を、哀しげに俯かせてしまっている。

彼女だって、本当ならあのシロクマと一緒に居たいのだろうし、此処にだって一緒に来たかったはずだ。会議の席でさえ、彼女はあの白い家族を膝上に乗せて参加しているのだから。‥‥きっと今は、あの白いふわふわとした毛並みを感じられないことを、寂しがっているのだろう。
ドイツは、己の無神経さを恥じる。
寂しい思いをして一人で来た彼女を、悲しませてしまったこと。
せっかく犬達が彼女を元気づけようとして(だろう、おそらく)甘えて振舞ってくれたのに、自分と来たらその不在を改めて突きつけて、挙句哀しそうに俯かせてしまった。しかも、その不在を彼女にもう少し近く触れ合える好機であるかと、身勝手な期待までしてしまった。




好きなひとが、恋人になりたいと希っている相手が寂しがっているというのに!




「‥‥すまない。彼の不在は君がもっとも寂しいだろうに、思い出させてしまった」

ドイツは潔く、謝罪した。座ったままの体勢ではあったが、腰を折って頭を下げる。視界にはほっそりとした想い人の華奢な足と、ぱたしぱたしと床を打つ飼い犬の尾の先だ。‥‥「まったく情けない!」とでも説教されている気分だ。

「えっ?!、あ、あのっ、そんな頭を下げていただくことじゃ、」
「いや、俺が無礼だった。謝罪させてくれ。その‥‥君が悲しそうにしているのは、俺も見ているのが、つらい」
「え‥‥」

カナダが息を呑んだ気配を頭を上げないままにドイツは感じ取った。
こころから、この謝罪を受け入れてくれたらいいと願いながら、言葉を重ねる。

「また春には、彼と一緒にこの家を訪れてくれ。待っているから。‥‥冷えてきたな、なにか、飲み物を持ってこよう」

ドイツはそう言うなり素早く立ち上がり、けれど慌てているようには見えないよう、見せないよう、キッチンへと続くドアへと足先を向けた。背後から、声はない。
代わりにどこか呆れたような、飼い犬の鼻を鳴らす声と、ぱたしぱたしと床を打つ尾の音が、ドイツの背中を打ったものだ。

振り返らないまま廊下に出たドイツは、ドアを閉じたところでため息をつく。
‥‥今日は本当にマイナス点ばかりだ。これはまた『カナダ人との付き合い方・恋人編』第4章5項の「気まずさを流すには」の項目を読んで反省せねばならん。‥‥ああ、やはり、だがしかし。




「‥‥‥‥アスター、お前の居る位置一度でいいから俺に代われ」




キッチンへと続く廊下を早足で歩きながらそう呟いてしまったのは、若い男性であるからには仕方のない、思いだったのかもしれない。









「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥はああぁ。」

深い、深いため息は、リビングの温かなラグの上から。
きゅっと、細い腕がふんわりとした胸に懐いてくる大型犬を抱き締める。
きゅぅん、と動物ならではの甘えた可愛い声に、深いため息をついたカナダはほんの少しだけ心を浮上させて、己を覗き込んでくるつぶらな瞳たちに笑いかけたものだ。
ふわふわとした毛は優しくカナダの肌をくすぐり、ざらりとした舌が頬を舐めてくる感触にクスクスと笑う。‥‥彼らは、自分を精一杯慰めようとしてくれている。その優しさに、きゅっと胸を締め付けられるような哀しみの残る胸へ、ほんのりと温かなものが宿る。

「ありがとうね、みんな」

密やかな言葉で感謝を告げれば、まるで其れを正確に聞き取り理解したかのように、尚もドイツの飼い犬達は優しい彼女へと擦り寄ったものだ。
優しく滑らかで、温かい被毛は、今は自宅に残してきた彼女の白い家族とはまた違う柔らかなものだ。

「クマ吉さん‥‥」

名前を呼んでも普段の「誰?」という声は聴こえない。
カナダとの時差は約6時間。あちらもそろそろ、夕食の時間だ。
‥‥本当なら、彼も此処に居て、ドイツさんの美味しいごはん、食べられたのにな。ごめんね。冷蔵庫の中のおやつ、全部食べてもいいから。
カナダは心の中でおっとりと大洋の向こうで普段どおりに暮らす家族に、申し訳なさそうに告げたものだ。
そう、「普段どおり」。

「や、でも『眠イ。』って言ったのは本当だし‥‥!」

誰にともなく慌てたように零れた言葉は、妙にいいわけじみていた。というかきっぱり言い訳だった。
そう、別に彼女の家族は、ドイツへと来たがらなかったわけでも、本格的に冬眠しているわけでもない。ただ、此方へと来るために、前日遅くにカナダがあれでもないこれでもないと、一番可愛く見えそうな服を用意している最中、呆れきったような視線でカナダを見遣った後、『‥‥眠イ。』とだけ言ったのだ。
もう深夜も近い時間だったから、眠かったのだろう。
でもカナダはちっとも眠くなかったし、服や小物を選ぶのに集中していた。




だって、好きな相手の自宅を、訪ねるのだから。‥‥片想いでは、あるのだけれど。




「‥‥ドイツさん、やっぱり私じゃなくって、クマ吾郎さんに来て欲しかったのかな‥‥。」

アスターを抱き締めながら、カナダはぽつりと零す。
結局あのままカナダの横で眠ってしまった白い家族は、翌日フライトの時間が迫っても起きようとせず、それでも起こそうとしたカナダに『‥‥家ニ居ル。オ前一人デ、行ケ。』と言ったのだ。
その時点でカナダは出来る限りの速さで彼のための食事類を整え、冷蔵庫や地下の倉庫に詰め込んで、彼を置いてきた。
‥‥ちなみに、『オ前ヒトリノホウガ、アイツハ喜ブニ決マッテル。』とも彼は行ったのだが、それはクマ二郎の為にパンケーキをおっとり忙しなく量産するカナダの耳には届いていない。

「だって、今日だって着いてすぐも、クマ三朗さんのことだったしな‥‥」

もそもそと抱き締めたアスターに頭を寄せながら、カナダはため息をつく。

こんなに、好きなのに。
今日だって自分じゃ一番可愛い服を選んできたつもりだし、お化粧だって頑張った。可愛くみてもらえるよう、彼と、もっと近い場所で触れ合えるように、努力したつもりだったのにな‥‥。

「‥‥あ、でも」

そう呟いたカナダは、ふわっと頬をそれはそれは愛らしく、恋するもの特有の可愛さで紅く染めた。

「『君が哀しそうにしているのは、俺も見ているのが辛い』‥‥かぁ‥‥」

えへへぇ、と笑み零しながら、ふるふるっと首を振って恋する相手の優しい言葉を思い出す。
少しは、好きでいてくれてるの、かな。
‥‥クマ衛門さんの、半分くらいは?

そしてまた、ため息。

「‥‥ねぇブラッキー、アスター、ベルリッツ。私、クマ吉さんには勝てないのかなぁ‥‥?」









ぎゅうぎゅうと抱きつき哀しそうにため息をつく、美しくいい匂いの自分たちにもとびきり優しい主の想い人に、犬達は不平一つ洩らさず、彼女を慰めるべく、寄り添ったものだ。
彼女好みのメイプルシロップ入りコーヒーを持って帰ってくるであろう、不甲斐なさ過ぎる飼い主を、ぱしぱししっぽで叩いてやろうと思いつつ。









 アニマルセラピスト達のため息





end.(2009.12.13)

『独→←加(にょ加でも)で、付き合い始める直前のふたり(まる 様)』
きっと動物達を含めた当事者以外の面々は、あまりのスローペースな二人に
イライラしてると思います(笑)

まる様、リクエストありがとうございました!(´∀`)