美しい世界にまどろむ、それは未だ世界を知らぬ美しいものたち。
持ち主を待っているの?
連れ出してくれる人を、待っているの?

或いは、









繊細な彫刻の施された重厚な木製ドアを押し開けて現れた姿に、店員を務める男は思わず、僅かに目を眇めてしまった。
それは接客を生業とするものの態度として、また雇われている宝飾店の店員として、決して誉められたことではない。しかし、そのときの店員は自分の態度も仕方がない、と思ったものだ。
こじんまりとした店内には、自らが丁寧に清拭した一点の曇りもないガラスのショーケースがいくらか並べられている。
歪みのない一枚板のガラスは熟練の工房でしか生産されない、それだけで価値のある代物だ。それを惜しげもなく窓として使い、そしてその内側には天鵞絨の褥に、名のある職人達により美しく細工を施された宝飾品の数々が、慎ましやかに横たえられていた。
美しいショーケースにまどろむのは、今はまだ持ち主を待つ美しき宝飾品。
最上級の品はこうして陳列することさえしない。客に目をむけ、身につける相手の好みを聞き、その上で好みに合ったもの‥‥そして、購入者の地位や財に応じたものを店側が選択して出す。
当然、訪れる客は少ない。来客があったとして、一日に10名にも満たぬ人数なのが普通だ。けれど、それでも商売として成り立つ。成り立つだけの高級な品のみを扱う、店なのだ。

つまりは、もっさりと大柄な身体にいかにも長旅をしてきた直後のような薄汚れた外套をまとい、足元は険しい山道を歩いてきたのであろう履きこまれた長靴、頭部には埃除けらしき元の色も判然としないほど日に焼けた布を目深に巻いたような風体の男にはどうやっても用のない、また店側としても商売の相手としない、そんな場所なのである。

「‥‥いらっしゃいませ。本日は、どのようなご用件でしょう?」

とはいえ、此処が誰もが往来できる街の通りに面した店舗であり、開店の札を掲げている以上、此処に遣ってくる人間はどのような素性風体のものであれ、客として扱わねばならない。
店員である彼はこの店に雇われてまだ日は浅いが、実際に入る店の『格』を間違えて戸惑うひとに、丁重な態度でお帰り願うという作業は既に幾度か経験していた。誰にでも間違いはあるものだ。況してここは王都でもあり、日々数え切れない数の上洛者が行き交っているのだ。
よってこの時も、一瞬あらわにした嫌悪にも似た目つきを即座に収め、物柔らかな笑顔を顔に貼りつけながら、さてこの相手にどうやってあの木製ドアをもう一度開けさせるかを、めまぐるしく考えていたのだが。

「‥‥あれ?きみ、新しいひとなんだね」

厚いマントに覆われた大柄な身体のその人物は、驚くほどに朴訥とした朗らかな声と眼差しで、店員を見た。

その瞬間、なんともつかぬ怖気のようなものが店員の背を駆け抜けた。

此方を見る淡い灰紫の瞳は、とても綺麗な深い色をしていた。きっとこの街、一国の王都でもあり無数の人間が住まい行き交うこの大都市にいても、お目にかかれるかどうかというくらいの、美しい色の瞳だ。
口元にかかった外套の裾をグイと引き下ろして現れたのは、埃に汚れてはいるものの抜けるように白いことが窺える肌に、うっすらと刻んだ微笑。
若い、男だ。しかも、奇妙なほどに美しい。

‥‥奇妙なほどに、美しく、恐ろしい。‥‥厭わしい、それは決して交わらざる、気配の。

「‥‥へぇ?」

ことん、いっそ可愛らしい仕草で男が首を傾げる。
彼の態度は真っ当なものだろう、なにせ接客に(もっとも追い返す目的で、だが)出てきた店員が、自分の顔を見るなり固まってしまったのだから。
男の、柔和な笑みは変わらない。
きっと人によっては、或いは時間や場所によっては、彼に人懐こいであるとか、親しみやすい、などという印象を持つことだろう。実際、大柄な体以外には害のなさそうな、一見安穏とした雰囲気さえ持ちあせている。
けれど、店員にとってはそれこそが恐ろしかった。
まるで、寺院に佇む門番の幻獣の石像に親しげに話しかけられたかのような気がした。
石像は自分に害をなさない。どれほど恐ろしい風体をしていたところで、あるいは美しい姿形をとっていたところでそれは石像であるし、よしんばそれが喋ったとしても石像だ、動けはしない。
けれど、しかし。どうしても馴染めない、気味が悪い。そんな印象。
ともすれば動き出し、あっという間にその鋭い牙に喉を食い破られてしまうかも知れないと、思わせるような。

立ち尽くす店員を、やはり柔和な笑みを浮かべたままの男はしばらく見遣った後、ゆっくりと瞬きをしてから、やんわりと、笑みを深めた。

「ああ、キミは、‥‥」
「ブラギンスキ様!!」

物柔らかな男の声は、店舗の奥からまろぶように走り出てきた店員の雇い主でもある初老の主人の大きな声に遮られた。男の灰紫の瞳が逸らされる。店員は、そこで自分が息を全くしていなかったのだと、ひゅうっと音を立てて吸った息で知った。

「おお、おお、ブラギンスキ様、ようこそお越しくださいました!暫くお姿をお見かけいたしませんでしたので、さてはこのおいぼれも見限られてしまったのかと‥‥」

床に頭をつけんばかりの勢いで若い男を歓待する主人を、店員は呆然と、思考の巡らない頭と視覚で眺める。
高級宝飾店を経営するこの老齢の店主は、此処のほかにも数多くの店を構え、王都で名の知れた名士でもある。裕福な商人、王家にも連なる名門貴族の何某とも付き合いを持ち、宝飾ギルドの幹部も努めるその権勢や、一帯では知られた存在だ。
その彼が、薄汚れた風体の歳若い男を下にも置かぬ扱いで遇し、平身低頭している。
くわえて若い男の態度もまた、親子以上に離れているであろう相手の慇懃な歓待ぶりにもさして恐れ入る様子もなく、例の奇妙に美しい笑顔で頭を下げる店主を見遣っていた。

「あは、そんなことはないよ、貴方はいい眼をしているからね。少し東に行っていたんだ、新しい鉱脈を見つけたから」
「なんと‥‥!東ならば、錫、鉄、‥‥銀でしょうか?私に何か、お手伝いできることはありますでしょうか」

鉱脈の二文字に、店主は爛々と目を見開き男をみた。
この店主は王都に店を構える大営業主という顔だけではなく、宝石の優れた鑑定士であり、同時に複数の輝石の鉱脈を所有する採掘主という一面も持ち合わせていた。
その己の雇い主の態度に、店員である男はこの若い男の正体に合点がいった、気がした。
防寒防塵を旨とする厚い外套や頭布、人里離れた未踏の深山にも分け入れる長靴。‥‥おそらくその厚い外套の下には、その職業のもののみが持つ道具を携えている。

店員は息を呑む。
初めて、見た。『彼ら』の数は、少ないのだ。
ある種の才能を持ち合わせ、世界を渡る『彼ら』。
‥‥そしてその彼らをして、伝説とも言われる、その存在。

若い男は外套の下に隠していた腕を、うっそりと前合わせから出してみせる。
その手には、粗末な布袋がひとつ。
けれどその中に詰まった存在で、きっと店員とその一族郎党が残らず死ぬまで暮らせるほどの価値がある。

「星紅玉と、金剛石だよ。あと水鉱脈も見つけたけれど、まぁこれは貴方には関係ないよね。うん、ここからわりと近い場所だから、貴方に話を通してみようかなと思って。それとちょっと頼みがあってね」
「それは、それは‥‥誠に有難きお申し出で‥‥。頼みとは如何様なものでしょうか?私めに勤まるものであれば、どのようなことでも」

価値あるものをおし頂くように差し出していた店主の手のひらに、粗末な布袋から鈍い煌きを放つ石が無造作に零れ落ちる。ごろごろとした赤黒い大きな塊と、灰色に透明な部分を織り交ぜた、なんのことはない石に見える其れは、丁寧に磨きカットすることで、途方もない価値と財、そして美を生み出す輝石の原石だ。
その店主に無造作に渡した原石から、男の指が一つを選び摘み上げた。

「これをね、指輪に加工して欲しいんだ。そうだね、女の子の指に似合う、ちょっと可愛い感じがいいな。いくつか貴方のところに好い石があるなら足して‥‥。後の石はその代金として取っておいてね」
「かしこまりましてございます」

恭しく頭を下げる店主の手のひらには大ぶりの‥‥つまりはそれだけ上級の原石がたっぷりと載っており、指輪ひとつの身代にしては法外すぎるものだが、男は気にした様子もなくにこやかにしている。
丁重な仕草で店の奥へと薄汚れた姿を促す店主に、安穏とした態度のまま男は足を踏み出す。
その途上、ふと彼が、先ほどまで自分を追い出そうとしていた店員へと視線を向けた。

クッと、息が止まったのを感じた。‥‥彼が笑った。

「ブラギンスキ様?いかがなさいましたか?」

不思議そうな声で店主が問いかけ、振り返る。
その、「ひと」としては年経た視線に彼は柔らかに笑いかけると、一瞬店員へと目を身やり、言った。

「‥‥いや。貴方の店はいつだって目利きのできる店員が揃っているなとおもっただけだよ。それに、」

呟きほどの音量で零した言葉ににこりと笑い、先へ進む店主の後をついて、彼の姿は店舗の奥へと消えていった。
途端、店員は激しく息をつき、その場にくずおれた。膝が、否、全身が激しく震えている。高価な絨毯の上、己の汗が滴り落ちるのを混乱した頭で知覚する。
己の対峙した存在の重さに、荒くなった息が収まらない。‥‥この業界にいれば知らぬものとてない『伝説』を真正面から浴びせかけられ、絨毯についた震える指先は血の色を失い、白く冷たくなっている。

美しい宝石の原石や資源鉱脈の在り処を読み解き、或いは恵み深く豊かな水鉱脈、死をもたらす毒海、原初の溶岩脈を探し当てる、特殊な才能。『彼ら』はダウザー。鉱脈読み、と呼ばれる世界で一握りの存在。
そしてその内でもとりわけ強い『勘』を持ち、未踏の地の鉱脈を次々と探り当てる、生きながらにして伝説の。

‥‥淡い、灰紫の瞳、大柄な身体。誰も、年齢も素性も誰も知らない男。
その頭布の内側は、聞いたとおりであれば厳冬の雪原のような白銀、をしているのだと、店員は知っている。
そしてその正体も、わかった。解って、しまった。

『貴方の店はいつだって目利きのある店員が揃っているなとおもっただけだよ。それに‥‥彼は、本当に目がいい』

「魔物」と囁かれる得体知れぬその青年、イヴァン・ブラギンスキは、目の良い店員にその正体の片鱗を示し、店主に伴われ奥へと消えた。









さく、さく、と厚底の長靴が霜の降りた細かな砂利を食む。
傍らにそびえるごつごつとした岩肌は厳しく冷たく、葉を広げる植物はおろか苔さえも拒んで厳しい。
空は、恐ろしく澄んで青く、青く。
この世界にもっとも多く住まう人間はもとより、自然により近い種である妖精族さえ立ち入らない、峻厳な高峰。
けれどそれは、彼には関係のないことだった。
大柄で、ともすれば鈍重にさえ見える身体はまるで有翼の妖精族の其れにも似た軽やかさで、冷たい巨岩を険しい傾斜を越え、歩いていく。
高く深い岩山はあらゆる命を拒絶するかのよう、黒々とした砂利含みの土はその下に永久凍土を眠らせて冷たく、‥‥けれど、優しい。
否、優しいという言葉には値しない。
ただ、何者にも等しい、変わらぬ環境を与えるのだ。
人間であれ、妖精であれ、‥‥それ以外、であれ。

「よ‥‥っ、と」

はふぅ、とイヴァンが大きく息をついたのは、僅かな足がかりのみで急な岸壁を登りきったところでだ。身体に羽織る外套の端を摘まんで内側に風を送る。銀糸の髪が、ふわふわと風に舞う。
彼の親しい‥‥というと語弊があるが、幾度も顔を合わせる金髪の青年が見れば、真面目な顔でお前でも汗はかくんだな、とでもいったことだろう。
エンシェントエルフの血を引くその青年は顔を合わせるたびに全身で嫌そうな雰囲気を醸すものだが、あれはあれで可愛いものだとイヴァンは思う。‥‥青年という年齢は100年単位で過ぎていることは知ってはいるが、年齢について言及しないのはお互い様だ。

「アーサーくんも、そろそろ宝石がいるころかなぁ?」

はたはたと手扇子で襟巻きを巻いた襟元に風を送りながら一人ごちる。
彼が名を口にした青年は己をエルフと称しているしおそらく生粋のエルフたちも彼をそうと認めるだろうが、それは正確ではない。むしろ、彼はその近い血筋からいえば人間だ。4代以上前にエルフの血が混ざっているのだろうが、割合だけで言えば人間だというほうが相応しいだろう。
しかしながら、所彼には古く強い妖精の血が色濃く出ていた。所謂、「先祖がえり」である。
一般の人間には在り得ない感覚と長命を持ちあわせ、容姿は親兄弟には欠片も似なかったという金髪にグリーンアイ。鉄気を嫌い、強すぎる魔力と『眼』を持つ彼にとり、人間も妖精族も次第に魔力を薄めつつあるこの世界はさぞ生き難いだろうに、好き好んで人間に関わろうとするのが面白くて堪らない。‥‥自分の手元に居れば、もっと楽に息をさせてやるのに。 クツクツとイヴァンは笑いながら、外套の下、チュニックの懐からザラリと石を取り出した。
其れは数週間前にとある国の王都にて宝飾鑑定士に手渡したものとはまた別の、輝石の原石だ。
切り出されたときのままの石は薄汚れ、形もまちまちで素人が見ればコレが本当に宝石になるのか、と疑ったことだろう。
勿論、これは宝石になる。間違いなく、超高級な宝飾品として金を持つ貴族や王族、あるいは市井の富豪たちの垂涎の的となるであろう宝石になる。街の、宝石職人や細工師たちの手に渡されたならば。
‥‥けれどしかし、この石は彼らにわたることはない。
何故と言って、ほら。

イヴァンの手の中、灰紫の瞳に見つめられた石たちが仄かに発光し始める。其れはやがて目を射る強い光となり、前人未到の深山の一角を眩く照らし出した。
空気がざわめき、木々が揺れる。
これほどの騒がしさであれば、峻険な環境にも逞しく生きる生き物たちがさんざめく気配が感じ取れてもよさそうなものだが、辺りは木の葉擦れのほかは静まり返っていた。峻険な環境に、己の勘だけを頼りに生きる生き物たちは、当の昔に逃げ去っている。
この、世界の理と相容れぬ男の傍にひとときたり立てない、とでもいうように。
目を射る白光は、唐突に収まった。
辺りは変わらぬ厳しい自然の懐で、そこに佇むイヴァンもまた常どおりの姿だ。
違うのは、その手のひらに収まっていた石たちの姿のみ。
先ほどまでの薄汚れたものとは格段の、煌く甘い色。
優美なカボッションやスクェア、多面体カットにされた石達を、イヴァンは満足げに見遣ると再び懐へとしまったものだ。‥‥次にあの強い青年に会ったときに、売りつけてやろうと思う。
輝石は宝飾品として魔力を持たぬ人間達を飾るのとは他に、高い魔力を持ち鉄気を嫌う妖精族達にも必要とされる。
身を飾る宝飾としてではない。純粋に、魔法の触媒としてだ。
あの青年に会うのはそれはそれで楽しみだと思うが、それはまた別の機会だ。
視線を上げる。身動ぎした拍子シャラリと懐で音を立てた石たちに少し笑ったイヴァンは、再びゆったりとした歩みを開始した。この白壁を越えれば、目的地は近い。
目的の、相手は近い。
美しい姿をとらせ収めた輝石達とは別の、懐に収めて持ってきた石をそっと押さえて、彼は優しく、笑った。




ふす、ふす、長靴が黒く柔らかな土を食む。先ほどまでとは違う音だ。
切り立った岩壁を越えた先には、滴るほどに濃い緑が広がっていた。
それは、あの岩山の麓の乏しい植生や現在の標高を考えれば、在り得ないことなのだが。

「‥‥ああ、よく根付いているね?これからも、頼むよ」

彼の言葉に無言で頷くように揺れた草木に、イヴァンは労りにも似た満足げな笑みを浮かべてその傍らを通り過ぎる。
己の力でほんの少し融通した草木達だが、彼らは一度召喚してしまえさえすれば、後は至極従順だ。環境に適応し、自らが最大限生きていこうとする力を発揮してくれる。下手に心を持つ人間や妖精族たちより、よっぽど付き合いやすい。
自分を裏切るのは、常に人間であり妖精族だ。
その心ゆえに、利権から近づいてきたり、本能的に忌避したりする。
王都の宝飾店店主然り、その良い眼で己の正体を見破ったのだろう、店員然り。
イヴァンは肥沃で柔らかな土を踏みしめながら緑滴る森を進む。
濃い森の気配と、奥から呼び声のように彼を導く水の気配に、彼は知らず笑みを深くしていった。
水だけは、自分が呼べないものだ。
イヴァン自身には一般の魔法士たちのような属性というものはないのだが、何故か彼に懐いてくるのは、火属性の精霊や幻獣たちばかりだった。今日も、彼に常に付き従う高位の火精霊を殆ど無理やり麓に置き去りにしてきたばかりなのだ。
火気は、良くない。普段ならば別段気にないのだけれども、この場所にはよくない。




彼女が、いるから。




森は唐突に終わりを告げた。
否、むしろ此処こそが、森の出発点だった。‥‥イヴァンは此処を中心に森を『創造』したのだから、此処こそが原点と呼べるだろう。
もっとも、彼が森を召喚したときは、これほどまでに広々とした湖は広がっていなかったのだが。

今、彼の目の前には青々とした清冽な水を湛える広大な湖が広がっていた。

時折吹き降ろす風に吹かれ、穏やかな波が湖岸に打ち寄せている。
水は何処までも透き通り、一体どうやってやってきたのか時折水棲生物たちの鱗がきらりと閃いていた。
イヴァンが森を創造した時には、此処は精々が少し広い池、という規模だったはずだ。
そもそも苔さえ這わぬ高山帯に肥沃な森を「ちょっとの力で」創造することからして彼の尋常でない力と無理がそこには存在したわけだが、その内池も自分で広くしていこうと思っていたのだ。

彼女が、住みやすいように。
彼女が、気にいってくれるように。

まぁその気遣いは、彼女を此処に置いてから暫くした頃に、無用だったと知ったわけだが。

「ライナちゃん?」

イヴァンが、穏やかに美しくさざめく湖面へと言葉を零す。
空に近い高山帯にあるせいか、太陽がもたらす光は清らかで美しく、静謐だ。
其れが穏やかに波を立てている湖面を照らし煌き、彩っている。

「こんにちはライナちゃん。僕だよ、遊びにきたよ」

広い、広い湖に向かい、イヴァンは柔らかな、優しい声で呼びかけた。
其れはきっと、彼を知るものが聴けば残らず驚く声音で。
優しく、柔らかく、‥‥愛情深い、声で。

「ライナちゃん、来て」

彼女を、呼ぶ。

不意に湖面が、緩やかに波打った。
それは自然の風がもたらす其れに似て、けれど同じではなく。
水が空気をはらみ、巻いていく。水中の奥底から、湖が愛する相手を優しく、彼の元へと導くように。
空を映した湖面がうねり、逆巻き、そうして。




「‥‥イヴァンちゃん!」




虹色の鱗が美しい、長大な肢体に水達を従えて。
彼女は湖畔に立つ彼へと、笑顔と共にしがみついたのだ。




「こんにちは、ライナちゃん」
「もう、お姉ちゃんでいいっていってるのに」

おっとりと可愛らしい笑みを浮かべたその顔立ちは、年の頃だけでいえばイヴァンよりも年下と言っても良い、愛くるしいものだ。
もっとも、容姿と年齢が比例するのは人間くらいのものなので、イヴァンにも彼女にも関係のないことではあったのだが。
水の辺から身体を伸べて来訪者へと抱きつく彼女の上半身を、イヴァンは愛しげに、この上もなく優しく抱き返した。
少し褪せた土色の髪に、抜けるように白くきめ細やかなふるふるとした柔肌。深い湖水の色をした瞳はきらきらと楽しげに煌いて、イヴァンを見ている。
ほっそりとした、何も身につけていない腕は、イヴァンの身体を抱き締めて。

「ちょっとぶりだねぇ、‥‥あれ、そうだっけ?まぁいっか、イヴァンちゃんは変わんないね」
「お姉ちゃんもね」

彼女以外には言えないであろうセリフに、イヴァンは苦笑しつつ応えたものだ。‥‥彼を畏れ、同時に激しく厭う人間達には死んでも言えない台詞だろう。きっと彼らが何度生まれ変わろうとも、イヴァンはこの姿のまま存在する。
ひんやりとした彼女の腕に導かれるまま、イヴァンは腰辺りまでを湖へと躊躇いなく沈ませて、ちゃぷちゃぷと己を洗う水と共に、愛しい彼女の身体を抱く。
もっとも、白く柔らかなひとにも似た上体はともかく、湖に沈んでいる長大な蛇様の下半身は全て抱き締められなかったのだが。

「元気だった?なにか不自由はない?」
「ないよぉ。ふふ、イヴァンちゃんが来てくれて嬉しいなぁ、いっつもお姉ちゃん、寝ちゃってるばかりだもん」
「また寝ぼけてお家壊したりしないでね」
「うっ、し、しないよ、もう」

イヴァンの腕の中、ちょっとばつが悪そうに裸体を震わせるのに、豊満な白い胸がふるふるんと揺れる。‥‥ばばいーん、とでも表現したほうが的確な気もしたのだが、そこはイヴァンととしてもなにか抑えて表現したかったというか。まぁ、そんな感じだ。

彼女は、最高位の水精霊だ。
おそらく彼女の言うとおり、本来外の界より降りてきた『魔物』であるイヴァンよりもずっと長くを生きている、この世界と深く繋がる存在。

彼女を此処へと連れてきた当初、池ほどの広さだった水が広大な湖へと変化したのは、彼女が此処に住まっているからだろう。彼女を慕う小さな精霊たちが、地中を通して彼女を追ってきたのだ。
水があれば、『創造』された森であろうと十分に育っていく。
最初こそイヴァンが強引に召喚し作り上げた森は、今では彼女を守るために半ば自らの意思で緑を濃くし、大地へ水へと恵みを零していた。

美しい彼女に、森も水も、己の持つもっとも美しいものを提供しようとする。

美しい彼女に気に入られるため。
優しい彼女に、綺麗だと、好きだと言ってもらいたいため。

(それは、自分も)

「イヴァンちゃん?」

無邪気な、不思議そうな声音にイヴァンははっと散っていた思考を収束させる。
腕の中には、虹色にきらめく鱗の下半身を水に沈め、けれど上体は美しすぎる女性の姿をとって彼へと抱きつく、愛しいひとの姿があった。厚い外套越しにもわかる女性らしい柔らかな身体は愛しく、世界中の何よりも美しい。
イヴァンはきょとんと見上げてくる彼女に柔らかな笑みを返すと、懐に腕を居れ、小さな石を取りだした。

「今日はね、ライナちゃんにお土産があるんだぁ」
「なぁに?」

取り出した手のひらに収まっていたのは、原石を詰めた薄汚れた原石でも先ほど自分が変化させた原石でもなく。
小さな小さな、石だった。
正確には、美しく研磨されカットされた石を填め込んだ、愛らしい指輪だ。

「ふわぁ、綺麗だね」
「本当?」

彼女の感嘆に、イヴァンはどうしようもない高揚を感じながら聞き返す。
こくん、素直で可愛い水霊の頷きに、彼はにっこりと笑ってその指輪を、そして彼女を見たものだ。
最上級の原石と惜しげもなく引き換えて作らせた、金剛石の指輪。銀の台座に、紫水晶と泡水石を沿えた、愛らしいものだ。
イヴァンの手のひらに乗ったその指輪を暫く見ていた彼女は、きょとんとした瞳で彼を見上げ、小首をかしげる。

「どうしたの、拾ったの?」
「あは、違うよ」

無邪気な言葉は、彼女がひとと交わらないが故の言葉だ。
地中深い水脈にまどろんでいた彼女を水脈ごと掘り出してしまい、くったりと横たわっていたその肢体を抱きあげ、誰も知らない高山帯に彼女の為の森と水を創造してまで、彼女を連れ去った。

誰の眼にも触れさせたくなかった。

精霊は根本的に、人間や妖精族とは成り立ちが異なる存在だ。
水霊であれば地中深き水脈、火霊であれば熱く滾る溶岩流にというようにその属性に沿った場所に棲んでいる。
世間一般、つまり人間や妖精たち(もっとも妖精は人間よりも精霊について知っているのだが)が自身の魔力に応じて見たり感じたりしているものは「小さな精霊」と呼ばれる。その、人目に触れない場所に眠る高位の精霊たちの意識の断片のようなもので、此処の意思はかなり薄い。もっとも、薄いなりに好みというものはあるもので、それが人間や妖精族たちの魔力に呼応して彼らの呼び声に応え協力するという形で、この世界の精霊魔法は成り立っている。

高位精霊の姿を見ることの叶う人間は、殆ど居ない。









『‥‥あれ?ええと、あなたは、誰かな?』

鉱脈を辿っていた最中、どういうわけか強固に譲らない水脈の結界を半ば力ずくで突破した、先に彼女は居た。

『ご、ごめんねちょっと私、寝ちゃってたんだね、あなたの邪魔をしたのかな?ごめんね』

イヴァンもこの世界に来て長く数多の高位精霊に会ってはいたが、世界でもそれぞれの属性に数名しか居ないといわれる最高位の精霊、中でも自分とは相性の悪い水の精霊にお目にかかったことはなかった。

『あ、あのね?怖くないよ、私こんなところに居たけれど、別に怖くないから。あ、あなた、お名前は?』
『‥‥あの、』
『私はね、ウクライナだよ。ああ、私のほうが年上だよねきっと、お姉ちゃんて呼んでもいいよ』
『‥‥‥‥お姉ちゃん、』
『うん!』









こんなに、綺麗な存在なんて、知らなかった。









「ライナちゃんにね、似合うかなっておもって。貰ってくれるかな?」
「いいの?ありがとう。綺麗だね」

細い指に華奢な指輪は似合っていると思った。似合っていたらいいなとも思った。イヴァンには、よく解らない。何故といって、其れまでこれほどまでに惹かれる相手は居なかったからだ。
無邪気に、彼女は笑う。
美しい森よりも清らかな水よりも、磨き上げた宝石よりも綺麗だと思う。
本来、彼女にとってはその身を飾る何物も必要なものではない。
そもそもの欲、というものが人間や妖精たちとは根本から違うのである。世界の理に近き彼女は精霊。今、こうしてイヴァンに優しいのさえ、本当は彼女にとってはさしたる意味もないものなのだ。

人間や妖精たちと自分が違うように、自分と彼女も違う、その事実。

「イヴァンちゃん?」
「うん‥‥」

でも、彼女が欲しい。
誰にも見せたくない、彼女は僕だけのもの。
僕だけの、ものでいて。




‥‥もしもそれが叶わないならば。




「イヴァンちゃん、どうしたの?あっ、ど、どこか怪我しちゃったの?痛いの?」
「ううん‥‥ううん、なんでもないよ、大丈夫」

水の中、蹲るように彼女に縋りついたイヴァンを、柔らかな身体が抱き締める。
華奢な身体はひとのように温かく、優美なフォルムは美しい女性のものだ。するりと腰から下を撫でれば、繊細な鱗の感触。

「ライナちゃん、」
「うん?‥‥ああ、そっか」

きょとんとした水霊は何かに気がついたように軽く身体を震わせた。
その次の瞬間には、虹色にきらめく鱗に包まれた蛇体の代わり、柔らかなひとの下肢になっていた。

「そうだった、お姉ちゃんこのままだったらイヴァンちゃんと一緒にお家に入れなかったね、忘れてたよー」
「‥‥ライナちゃんらしいね」

先程よりも薄くなった感じのする柔らかな下腹に半ば水に沈んで頬をくっつけるようにして笑えばくすぐったそうに、素晴らしく美しいひとの姿をとった精霊も笑う。

「イヴァンちゃん、いつまでいられるの?今日は一緒に寝よっか」
「うん。僕、ミルクパイが食べたいなぁ」
「いいよ、作ってあげる」
「ありがとう」

イヴァンは、水の中立ち上がると同時、裸体の彼女を腕に抱き上げた。
真っ白な、瑞々しい女の身体が清らかな水と光に美しく浮かび上がる。まったきひとと同じ構成に自らを作り変えてイヴァンに寄り添ってくれる、‥‥この美しい身体を抱くことさえ、本当は出来るのだけれど。

「‥‥いまは、いいよ」
「え?」

イヴァンちゃん、何か言った?と。
きょとん、腕に抱き上げられることも裸体であることも欠片も気にしない精霊にも、イヴァンは聴こえないような小さな声で呟く。なんでもない、笑って湖畔へと上がり、こじんまりとした小屋へと足先を向けた。

‥‥そう、今はいい。
彼女は自分以外、誰も知らない、誰にも知られていない。
美しいこの場所で、自分が作り上げたこの場所で暮らす、自分だけのもの、自分だけの、彼女。
穏やかな森よりも清らな水よりも煌く宝石よりも美しい、自分だけのものだ。

けれど。けれどもし、誰かが彼女を欲し、‥‥彼女が、自分以外の誰かを見ると、いうのなら。









そんな汚らしい世界は消し去って、美しい彼女だけを連れこの界を去ればいい。









「ねぇライナちゃん、僕のこと好き?」
「好きだよー」

魔物に抱かれて笑う精霊の指には、ショーケースから出で持ち主を得た美しい指輪がきらめている。









美しい世界にまどろむ、それは未だ世界を知らぬ、美しい精霊。
知らぬ間に囚われ笑う綺麗な笑顔に、魔物は優しく笑う。









 ディアマンテ





end.(2009.12.13)

RPGで露ウク or RPGで普+加(コイの県民 様)
肝心の露ウク‥‥露ウク‥‥?すみません orz
RPGはヘタリアファンタジアではなく、オリジナル設定です
詳しくはブログのカテゴリ『APHでRPG』でどうぞ

コイの県民様、リクエストありがとうございました!(´∀`)