「あ、あの、困ります」

聴覚というのは精妙かつ、不思議なものだ。
世界には無数の音が溢れているけれども、その中から必要なもの、あるいは聴いていて心地よい音だけを、まるで神の御手により創造された緻密なふるいにかけたかのように聞き分けて、正確に意味あるものとして認識する。もちろん音量や音程、周波数などは関係するけれども、それすら感覚器は過去の記憶に照らし合わせた微妙な匙加減で要・不要を選別し、出来る限り心地よく、なるべく必要な音を、重要な情報として感覚するのだ。
長年使ぉてきたわりにはよぉ出来とるわぁ、まだ親分若い証拠やんなー。
思考速度はのんびりゆったり、本物の若者であれば考えないだろう言い訳めいた微妙なことを思いつつ、青年はくるりと辺りへ視線を廻らせる。
今にも落ちてきそうな透き通った天の青に映えるのはこの国が誇る世紀の天才が半生をかけて築き上げた聖家族の御家。今なお祈りと信仰心に支えられ建設が進む大聖堂の周りには、世界中から押し寄せた観光客がひしめいて、文字通りに様々な音が溢れかえっているのだが。

「‥‥大丈夫ですから、その‥‥すこし、連れとはぐれてしまった、だけで」

おっとりと甘くとろけるような柔らかな声は、ほんの少しの不安と困惑に、やや沈みがちだった。
スペイン語やカタルーニャ語が母国語ではないことを物語る、たどたどしい口調。
初々しい少女とも成熟した女性ともつかない澄んだ声音は耳に甘くやわらかく、この美しいカタルーニャの空に映えて青年の耳をくすぐる。
おっとりとしたスペイン語はどことなくフランス訛りで、けれど懸命に話そうとしている様子は無条件で男の庇護欲をそそる。況してやその声の持ち主が、若く抜群に愛らしい女性とくれば、尚のことだろう。

「いえ、そういうわけじゃ‥‥でも、探してくれていると、思いますから、ここに居ないと、」

そういう意味で、青年がやや離れた位置に捉えた光景は、ある種必然とさえ思えたものだ。そもそもがおおらかで磊落な国民性、加えて此処が世界的な観光地であることを加味すれば、困っている(それも素敵過ぎるプロポーションの!)異国から来たのであろう女性へ何らかの助け手が伸ばされるのは、さほど不思議なことではない。
ただ何事も、過ぎれば単なるありがた迷惑になってしまうのも、やはり不思議なことでもなんでもなく。
青年はしばしその離れた位置で展開する、自国民男性による困り事相談を装った熱烈な求愛風景を見守って。それから更に一拍置いて辺りへと視線を二廻りほどさせて、居なければならない姿がないことに軽くため息をつきつつ。

「あのっ、ですから私、本当に、」
「‥‥はーい、ごめんなぁ?このコ、本当に先約があんねん」

まっすぐに求愛現場へと足を運ぶと、今しも男に握られようとしていた白くふっくりした手をするりと己の手のひらへと握りこむや、驚いたように己を見上げてきた青灰色の瞳にエメラルドの輝きの瞳をあわせて。
にっこりと、透き通る自国の‥‥文字どおり『自分の』大地を彩る夏の空のように、スペインは笑いかけたのだ。




「‥‥あの、助かりました」
「んんん、ええよぉ。‥‥ごめんなぁ、ちょお怖かったやんなぁ?怒らんといてな?」

唐突に現れて獲物を掻っ攫らおうとした相手へあっけに取られた後剣呑に眼を細めた若い男に、爽やか過ぎていっそ冷ややかな笑みを向けて黙らせて。千年物の凄みのこもったエメラルドに射抜かれ固まった男を尻目に、白く柔らかな手を引いて少し離れた木陰へと移動したスペインは、ほてほてと引かれるままについてきた女性へとくるりと振り返ると、先ほどとはうって変わった柔らかな年長者の笑顔を向けて、すまなげに言ったものだ。
スペインに較べると二回りほども小柄な相手に合わせ、軽く身をかがめて覗き込んだ青灰色の瞳が、あどけないほどにまっすぐな視線でスペインの視線へ己の其れを返してくる。
その色味はスペインが生まれたときから縁と国境続きな見慣れた色にどこか共通していたけれども、その周囲を縁取るハニーブラウンの長く愛らしい睫やふんわりとした蜜色の巻き毛、なによりもメリハリの利いた男の眼にも心にも優しいボディラインに、親友で悪友で時折微妙にうざったい男へ向ける其れとは違う優しい視線を返しながら、白くふっくりした手をそっと離して、代わりに小さな頭をそっと撫でたものだ。

「自分、カナダやんな?‥‥どないしたん、こないなトコで。バカンス中?」
「え、えっと‥‥その、」
「ていうか俺のこと解ってくれてるよなぁ、や、小さい頃には結構会ぉてた気もすんにゃけど。ああでも、最近俺も会議でしてるのん、内職か昼寝くらいやしなぁ、ええと自己紹介しよか」
「‥‥あッ、い、いいえ!解ってます知ってます!スペインさん、ですよね?!」
「うん、正解〜」

正解者には親分の幸せになれるおまじないや〜、と。
くしゃくしゃっとカナダの頭に乗せていた手のひらで、陽光に温もりを付与された巻き毛を軽く掻き混ぜて、スペインはにこにこと「おまじない」の笑顔を向けた。ひゃ、と小さな愛らしい声を上げたカナダは最初こそ身体を震わせて驚いたものだが、やがてはくすくすと笑いだし、止めてくださいよぉ、とおっとりとした笑い含みの声で言った。
その声はスペインが遠くに捉えた時と同じく、どこか甘やかでとろけそうにふんわり優しい音で、元来可愛いもの大好きな彼の心をこれでもかとくすぐる。
きゃわきゃわと笑いながら撫でる男の手を捉えようとする愛らしい仕草になんとも言えない和やかな気分になりながら、スペインはまた辺りへと視線を一巡りさせ、内心首を傾げた。

「もぉ、スペインさんてば、くすぐったいですよぉ」
「えー、そぉ?‥‥でも一緒に来てるアイツはもっと、セクハラめいたことしてるんと違う?」
「え、‥‥」

やわらかな感触でスペインの聴覚をくすぐっていた甘い声が不意に途切れた。代わりに、パッとあげられた視線と、ふっくらとなめらかそうな白い頬に、甘そうな薄桃色が広がった。‥‥そのなんとも初々しく、愛らしい姿に、スペインはいっそ苦笑したくなったものだ。
そっと掻き混ぜていた頭から手を外し、再び視線の高さをあわせるべく、軽くかがみこむ。
淡いグロスをのせたふっくらとした唇はほんの少し開かれていて、ついでに視線を僅かに下げれば目に入る柔らかな生地にくるまれた胸の谷間は、ぽよぽよぷるんと柔らかそうな質量を保っていて。なるほど市井の若い男にしてみれば口説かずにはいられない可憐さである。
だがしかし、スペインにとっての彼女は、かつて大洋を渡って目にしたふわふわと小さく可愛らしい存在で、‥‥且つ、今では彼女は、悪友の。

「で、バカンスに来てるんやろ?一人でどしたんかな、フランスと、はぐれたん?」
「‥‥‥‥‥‥は、い」

きゅ、とほっそり白い指先が愛らしいサマードレスの裾を握るのに、スペインは大丈夫やからな、ともう一度、くしゃりと巻き毛を掻き混ぜた。




隣人で親友で時折うざったいフランスに愛らしい恋人が出来たと聞いたのは、少し前のことだ。
出来たというか、漸く取り戻したというか。その辺りの紆余曲折は長い年月を隣国として過ごすうちに自然な範囲で聞き及んでいたわけだが、敢えて踏み込んで聞いたことはなかった。世の中で最もうざったい話題の一つは間違いなく出来たての恋人との惚気話だとスペインは思っていたし、そもそも千年以上も隣国だったり同居だったり尻を狙われたりペシンペシンやられたりを繰り返してきた相手の妙なうざったさは、重々承知していたからだ。

ついでに、ヘンなところで発揮される、間の悪さも。

「フランスもヘンなとこで抜けとるからなぁ、どーせどっか明後日の方向でも探しまくっとるんやろ」
「いえ、あの、‥‥私が、ぼんやりしてたのが良くなかったんです」

だからはぐれちゃって、と。
俯き不安げに呟く彼女に、スペインはなんとなし、口の端に笑みをのぼらせた。

目の前の親友の恋人が纏うオフホワイトのサマードレスは、如何にもこの旅行の為に誂えたとっておき、といった風だ。
きっと、恋人との時間をあれこれとやりくりしてひねり出した中で、ああでもないこうでもないと旅行の計画を立て、荷物や恋人に見せる為のドレスを吟味し、軽やかな足取りで飛行機へと乗り込んだのだろう。
一旦フランスへと降り立ち、熱烈な歓迎のひとつも受けてから、今度は手を取り合いピレネーを越え。
バカンスシーズン真っ只中、自国の保養地ではなく慣れない(まぁ、フランスにとっては国境に程近い隣国の都市ではあるが)他国の観光地へ繰り出して開放的にイチャついて、旅先の高揚感にかこつけて清純な恋人としっぽり。‥‥こんなところだろう。
スペイン自身も誰より可愛がるちょっと意地っ張りの恋人がいるぶん、その気持ちはよくわかるし、バカンスシーズン真っ只中に新婚旅行宜しく観光地へ出かけるのも、別に悪いことではない。自分の家にはメシの種になるわけだし。

まぁ、それで恋人を迷子にしてりゃ意味もないわけだが。

アイツほんまにアホやんなぁ、などと本人に聞かれようものならお前にだけは言われたくないよ?!とハンカチを噛み締めて吼えられそうなことを爽やかで朗らかな表情のまま考えたスペインは、けれどそんな親友の脳内クレームは蹴っ飛ばし、今は目の前でしょぼんと俯く、愛らしい彼女へと柔らかな笑顔を向けた。

「ほぉら。大丈夫やって、そんな顔せんときぃな。フランスならすーぐに走ってくるに決まっとるわ。『カナアァァ!!ちょ、お兄さん独りにしないでよ泣いちゃうよ?!!』とかなんとかいって」
「‥‥っぷ、」

スペインの台詞に、俯いていた彼女がたまらないといった風にふきだした。意外に似ていたと思われたか、或いは彼女もフランスならば言いそう、とでも思ったのかもしれない。
そのままクスクスと笑い出したカナダに、スペインもほっとした気分でもう一度その白い手をそっと取って軽く揺すった。きょとんとした視線にスペインは爽やかに笑う。

「ん。やっぱりそうして笑ぉてるほうが可愛いやんなぁ。フランスも趣味エエわぁ。親分嫉妬しそうやわ」
「やだ、もう何言ってるんですかぁ」

そうして尚も笑い続ける彼女の手を軽く引いて、端にある腰掛けへと彼女を誘導する。人のきれたその場所は、目立つというわけではないが辺りからも此方からも、聖堂へと続く通りを広く見渡すことが出来た。
その立地に気がついたのだろう、はたと思い立ったようにカナダがきょろきょろとそのフランス似の瞳を辺りへと廻らせる。

「この広場で見失ったん?」
「はい‥‥。ガイドブック見ようと思って、手を離したら」
「ははぁ‥‥」

つまりはそれまで、ずっと手を繋いで行動していたと。
辺りに視線をと意識をやっているせいか、きっと自分の発言の惚気具合に気がついていないのだろうカナダに、スペインは相づちともなんともつかない声を返した。惚気具合どころか、実はまだ自分たちが手を繋いでいることにも気がついていないのかもしれない。
手を繋ぎ、隣り合って座る自分たちはそれこそ恋人同士に見えるんじゃなかろうか、とぼんやり思う。
勿論、スペインに先のナンパ男のような意図はない。自分には幼い頃から大切にしてきた大事な本命がいる。そして彼女には、知り合いの男に手を取られていることなど意にも介さないくらいに夢中の恋人が、いる。
常日頃から世界の恋人、愛の国を自称していた親友の、ずっと大切にしてきた可愛らしい彼女。もう二度とその繋いだ手を離さないと、きっと誓いあっている恋人達。
この柔らかな手を、きっとあの男は大切に、大切に握りしめているのだろう。‥‥一度離してしまったこの手を、二度と離すまいと。
通りはバカンスシーズンの観光地ということもあり人がひしめき雑多な音で溢れていたが、諦めることなく彼女の視線はたった一人の相手を捜し求めていた。

真剣で、真摯で、一途な視線。
きっとその恋心も同様に、ただひとりフランスだけを求めて、見つめているのだろう。

「‥‥あ!」




そう、今まさにわき目もふらず一直線に駆けてくる親友が、そうであるように。




「カナダ!!」




その声は耳に心地よい、美しい音。
聖なる家族に見守られるこの地に、鮮やかな天の青に映える、呼び声。

離れていった白い手と、ひらりと舞った愛らしいサマードレスの裾を見送りながら。スペインは恋人達が奏でる美しい音をその聴覚に、刻んだのだ。









「カナアァァ!!ちょ、お兄さん独りにしないでよ泣いちゃうよ?!!」と、ぎゅうぎゅう恋人を抱き締めながら結構本気で泣きの入った声で叫んだ髭の美青年に、周囲の驚いた視線がサクサクと突き刺さり。
さすが1000年を越す隣人の読みとばかりの予想どおりの台詞に、痛いほどに抱き締められた愛らしい恋人は可愛らしく頬を染め、友人である青年は、高らかに笑った。

それもまた、甘く豊かな、美しき音。









 天上音楽





end.(2009.08.06)

‥‥あれあれ?兄ちゃんの出番が少なi(ry
ささ様、リクエストありがとうございました!