万年筆を走らせる音が規則正しく、波紋のように空気を揺らしている。
よく整理された室内には重厚な書棚と誂えものの立派な文机、それにごく控えめなサイズのソファとテーブルが揃えてある。広さはあまりないが、壁の一面を大きく切り取った窓から零れる光が落ち着いた色調の絨毯映え、控えめな開放感を与えていた。ソファテーブルの上には小ぶりの薔薇が灯火のように一輪。柔らかな乳白色の可憐な姿は、文字どおりに室内へ花を添える。自宅に設えるには十分すぎるほどに立派な、静謐で、よい雰囲気の執務室だ。
だがしかし、生憎そんな雰囲気の良い室内の主たる青年の周囲には、あまり雰囲気の芳しくない、実に重い空気が纏わりついていた。
絶えることなく続いていた筆記音が、途切れた。真鍮製のペン先が一つ、硬く鳴く。署名の最後に入れるピリオドを強く打つのは彼の昔からの癖なのだが、生憎用紙の半ばまでしか埋まっていない書類の署名欄は、言うまでもなく、空欄。
「っ、あー‥‥」
ため息ともなんともつかない言葉未満の声は、少しだけ掠れていた。
寝不足、眼精疲労、頭脳労働による糖分の不足?‥‥突き止めたところでどうしようもない理由が、うっすら霞んだ脳内に浮かんでは消える。
文字列の末尾が乱れた紙が空を舞う音と万年筆が転がる音は、彼が椅子の背凭れへと身体を投げ出すように背を預けた音にかき消された。額と瞼の上を軽く覆った手のひらの隙間から、音もなく転がる万年筆を忌々しげに見遣る。
幸いというべきか生憎というべきか、放り出されたにも関わらず広い卓上からの落下を免れた万年筆は、彼が十数年来愛用している品だ。ここ20年程度でめっきり減った手書きの書類は、ほぼ全てをこの万年筆で書いている気に入りのものである。アンティークな雰囲気を持つ其れは使うインクにまでこだわった、特別誂えの一品。普段であれば携えているだけで気分もいいし、仕事にも身が入る、そんな仕事の相棒でさえある。
だがしかし、いくら愛用の相棒だからといって、姿を見たくもない、そんな気分に駆られるときは、あるもので。
「ぅあー‥‥終わんねぇ‥‥」
げんなりと、なんて表現がしっくり馴染みそうな声音と言葉が、筆記音の代わりに執務室の空気を揺らした。
額に乗せた青年の手がうっそりと頭頂へ向けて這わされる。スローな動きに合わせて、指の隙間から少し硬い、けれど豪奢な色味の金髪がゆっくりと零れだした。今は閉じられている瞼の奥は窓の外に広がる英国庭園さながらの、美しい森の色。
「あー‥‥仕事したくねー‥‥」
零れた言葉、本当に投げ出すつもりなどないけれど。
それでも、果ての見えそうで見えない仕事に、モチベーションが下がるのは致し方がない面も、なくはなく。
投げ出された書類と万年筆、ため息。暫しの静止と、静寂。
それを破ったのは控えめなノック音だ。
その瞬間、彼を取り巻いていたどんよりとした空気が、まるで風に攫われたかのように霧散する。
代わりに彼が纏ったのは、どこかのショーウインドウにでも飾られていそうな『英国紳士』の端然とした雰囲気。‥‥カッと開けられた緑の瞳に、ほんの少しだけ若い熱を加えて。
一呼吸置いて、うっすらと笑みの形に引き上げられた、口元。
ノックに合わせて、かかる声はない。青年も、誰何はしない。
けれど、分かるのだ。ノック音など誰でも一緒になりそうなものなのに、どこか、なぜだかおっとりのんびりに聞こえる、ドアの向こうに立つ愛らしい、彼女の其れだと。
彼は深く椅子に腰掛け瞼を下ろしたまま、ゆっくりとした呼吸を、数回繰り返した。‥‥おっとり屋の彼女には、それでちょうど良いくらいだろう。
「入れ」
極力音を立てないようにという配慮か、なんともそろそろとした速度で開けられたドアの隙間から、甘そうな蜜色をした巻き毛が零れる。
「‥‥イギリスさん?」
「入っていいぞ、カナダ」
重ねて言ったイギリスの言葉に、まるで幼い子どもの頃のように隙間からのぞかせていた湖水色の瞳がふわりとほどけたのに、イギリスもまた微笑んで、恋人を迎えたものだ。
「メイプルシロップ入れますか?」
「ああ‥‥いや、それは二杯目にするから」
「はい」
白いカナダの指先が優雅に動くのをイギリスは革張りの椅子に深く腰掛けたまま、ぼんやりと眺めていた。
普段から何事につけおっとりしている彼女であるが、こうして紅茶を淹れていく手つきはなかなかに堂に入ったものだ。ワゴンの上に置かれたポットやカップ、軽食を、迷いのない、でもやっぱりどこかのんびりとした速度で、捌いていく。時折控えめに響く磁器特有の涼やかな音が、仕事に疲れた耳に優しい。
「はい、どうぞ」
「ん。」
そうして手渡されたソーサーを、イギリスは僅かに身体を起こして慎重に受け取る。
繊細で優美な磁器の中、華やかな紅にほんのりとした果物の匂いが溶け込んだ紅茶を、目と舌でじっくりと味わう。喉を潤し、体内の深くへと滑り落ちた芳しい飲み物は、身体の内側からじんわりとイギリスを温めた。
「うん‥‥、美味い」
その一言で花がほころぶように微笑んだ恋人に、同時に心も温められる。
「ありがとうございます。‥‥それね、朝、陛下にお会いしたとき少しだけ分けていただいたものなんです」
「へぇ?」
「10時にお茶を頂いたとき、とても美味しかったから‥‥、その、イギリスさんにも、飲ませてあげたいな、って。陛下に頼んだの」
ほんの少しの恥じらいを混ぜ込んだ言葉はなんとも甘く愛らしいもので、イギリスは内心で盛大にニヨニヨしながら、見た目は英国紳士の見本のように優雅に紅茶を口にする。
「そうか、なら俺からも陛下にご挨拶さしあげないとな。礼状でも書くか。‥‥勿論、美味しく入れてくれたお前にも、礼を」
「え?なに?」
「そうだな、‥‥とりあえずは、これくらいで」
「ッ、」
きょとんとした恋人の手を片手で素早く掬い上げ、指先と手のひらに可愛い音を立てるキスをする。それだけでさぁっと赤く染まった恋人の頬にイギリスは軽く笑う。
丁寧にその手を彼女の傍へと戻してやり、もう一口紅茶を含んでから、ソーサーを執務机へと戻す。そこには先ほどまで格闘していた書類は脇へと軽く整えられてから避けられ、代わりにいかにも手作りといった、どこか素朴な風情のショートブレッドやサンドウィッチが綺麗に並べられていた。
ここがイギリスの独り住まいの屋敷である以上、出てくる手作り菓子といえば彼の作品なのが普通だが、どこか可愛い色みをした菓子は見覚えのないものばかりだ。
「作ったのか?」
「はい。私はもう、今日のお仕事終わっちゃったから。‥‥イギリスさんは?あとどれくらい?」
「あー‥‥」
おっとりとした口調の問いかけに言葉で応える代わり、イギリスは脇に控えるように立っていた華奢な身体へと再び手を伸ばした。肘掛のある椅子を軽く横へと回転させてから、座ったまま柔らかな手と細くくびれた腰をとって抱き寄せれば、欠片の抵抗もなく恋人の身体は腕の中へと収まった。
どこか甘い匂いのする、たっぷりとした柔らかなまろみに遠慮なく顔を埋めれば、控えめな笑い声が頭上から降ってくる。
「仕事、なぁ‥‥」
「えっと、その、お疲れ様です?‥‥ふふ」
「本当にな‥‥」
殆どため息のような応えに返されるのはやはり軽やかな笑い声と、‥‥久しく触れていなかった、頬に心に優しく甘いふわふわな恋人の胸の感触だ。
数日前から、カナダはイギリスの屋敷へと滞在していた。
それはカナダ個人として、つまり、イギリスの恋人としてやってきたのではなく、上司から渡された書類の、いわばお使いのようなものだと彼女は言った。
『陛下にもご挨拶したくて。暫くこちらにお邪魔していいですか?』
『ん、いいぜ、ゆっくりしていけ。ちょっと俺は、忙しいからあまり相手できないかもしれないけど。‥‥カナダ、』
『んん‥‥ぅ、いぎりす、さん』
仕事の書類を手渡されながらの会話に、それでも挨拶以上の甘く熱いキスを挟んだのは、まぁ久しぶりに会えた恋人達の常として許される範囲だろう。
以来、執務室に篭りがちのイギリスに、カナダは英国での細々とした仕事の傍ら、日々の食事やほんの少し甘い触れ合いを混ぜ込んだ世話をしてくれている。こうしてティータイムにお茶を運んでくれるのも、その一環だ。
「‥‥悪いな、立たせたままで」
「いいの。それより、ちゃんと食べてくださいね?お昼、食べてないんでしょう?」
「ああ、時間が押しててな」
柔らかな恋人の甘い匂いのする身体を抱きこみながら謝れば、同じく甘い、甘い声が降ってくる。
ティータイムに合わせてお茶の支度をしてくれた彼女に真に敬意を表すなら、本当は執務室から離れてリビングへ、或いはせめて室内のソファに落ち着いて、二人でお茶を楽しむべきなのだ。それくらいは些かワーカホリックな向きのあるイギリスとて承知している。
だがしかし、イギリスは忙しかった。
執務室の椅子から離れる時間も惜しいくらい、無闇やたらと忙しかった。
仕事を投げられない代わり、愛用の万年筆を投げ転がしてしまう程度には。
「まだお前が持ってきた書類、全然手ェつけてねぇな‥‥」
「うちのはいいんですよ?本当にゆっくりでも。上司も急がないって言ってたし」
「悪いな、ホント」
「もう、イギリスさんてば謝るの禁止しちゃうよ?」
ため息に混ぜ込んだ謝罪には、どこか悪戯っぽい、けれどとびきり甘い声と抱擁が返される。
細い腰を抱いてふわふわの胸に顔を埋めるのは、男として実に至福の時間である。況してこれっぽっちも拒絶されず、どころか自らの意思でやわらかな身体を寄せて、繊細な指先でゆっくりと己の背中やうなじを撫でてくれるというのは、なんというか、堪らない。
「うわぁ、やっぱり座りっぱなしだから、背中が張ってますね」
「‥‥もう自分じゃわかんねぇ」
「ああもう、それ本当に駄目じゃないですか。肩とか、ときどきストレッチしてくださいね?‥‥倒れちゃ、やだよ」
やわやわと恋人の愛情深い指先が背中を辿るのを、イギリスはぼんやりと感じる。その指先にあるのは、純然たる労わりの心だ。
温かく、甘く優しい、愛情。
ふわふわとおっとりした声音が耳に優しく響く。
彼女が喋るたび微妙に震える柔らかな胸はあたたかく、心地よい。
「ねぇ、イギリスさん?」
「ん‥‥?」
‥‥丁寧に淹れられる紅茶も、手作りのお菓子も、抱き締めてくる腕も、柔らかな甘い身体も、呼び声も。全て。
「お仕事は、大切だけど、‥‥私は、イギリスさんが、一番大切なんだよ?」
全て、恋人へのひたむきな愛情をたっぷりと含んで、心地よく、愛しい。
イギリスは恋人を抱き締めた体勢のまま、前動作なしに椅子の背へと身体を後ろへ投げるようにして、重心を変える。
「ひゃっ?!」
可愛らしい悲鳴を上げた恋人の身体をがっちりと抱き込み支えながら、細い腰にまわしていた腕の力だけで抱き上げる。長い蜜色の巻き毛が空を舞い、窓から零れる光をはらんで瞬いたように見えた。
ぐっと椅子の背凭れが唐突な加重にしなったが、欠片も軋まないのはさすが誂えもの、といったところか。
「お、驚かさないでくださいっ」
「悪い」
「もうッ、イギリスさんてば今日謝ってばっかりだけど、悪いと思ってないでしょ!」
「そんなことねぇって」
先程より近くなった距離からの声に、イギリスは緩く振り仰ぐようにして彼女へと言葉を返す。膝の上には柔らかな温み、緩く抱いた細い腰。
するりと薄いニット越しに撫で上げれば、彼女の身体が一瞬震えたのが判った。
「‥‥脚、疲れちゃいますよ?」
「心の休養にはなる」
「‥‥ばかぁ」
する、と白く柔らかな腕がイギリスの首へと掛けられる。
膝上へと横抱きにした恋人は、イギリスの真面目くさった物言いに一瞬呆れたように目を見開いてから、甘い甘い声での罵り。
それから、まろやかな胸を押しつけるようにイギリスの頭を抱いた。‥‥実に、いい感触である。ここまでくるとさすがに紳士ぶった澄まし顔も限界というか、まぁ、男として実に素直に純粋に、イギリスは仕事の合間の甘いサービスを思う存分楽しんだ。
「あー‥‥マジで心の休養。やーらけぇー‥‥」
「んんッ、もう、イギリスさんのエッチ」
クスクスと笑い合い、戯れに触れ合いながら、甘い言葉を交わす。
「お仕事、あとどれくらいなの?」
「あー‥‥今のは、‥‥夜、には、ギリギリ終わるかどうか‥‥やる気がなぁ‥‥」
「頑張って?」
「んー?‥‥んー」
「‥‥あの、それじゃ、」
「ん?」
戯れに触れ合わせていた指先を絡めて引かれ、仰のいたところで甘いキスを、受け取る。
「‥‥続きは、お仕事終わったら、ね?」
パタパタと軽い足取りが出て行った執務室は、再び静寂を取り戻した。
イギリスの膝上から、甘やかな温みが消えていく。‥‥けれど、受け取ったまさかの言葉に、じわじわと。
「‥‥‥‥ッ反則だろ、くそッ」
両の手のひらで顔を覆っても隠せない赤みは、彼女が出て行ってからで良かったと、イギリスは心底思ったものだ。
執務机の上には頭が痛くなりそうな、未だ山積みの書類。
そして、恋人の心づくしのお茶と甘いお菓子。
けれど机の上には乗り切らない、それ以上に心を癒してくれる、甘い甘い約束をもらえたので。
「‥‥これでやる気がでねぇ男なんざいねぇっつの」
冷めても十分に美味い紅茶を飲みきり、手をつけていない軽食の皿と書類の位置を手早く逆転させる。
投げ出した愛用の万年筆を掴み取ればやはり手に馴染んで、美しいフォルムも美しいインクの陰影も、自然と仕事のやる気を引き出してくれる。すっきりとクリアになった脳内で、今後の仕事を捌く順序を思い描き、イギリスは先ほど投げた書きかけの書類へと、向き合いながら。
「カナダ、」
傍に居ない恋人の名を呼びながら一つ手に取り口へと放り込んだショートブレッドはどこか彼女に似た、ほんのり甘いメイプル風味だった。
深夜近く、仕事を終えたイギリスが堪能することができた極上の甘さについては、恋人達のとびきり甘い、秘密事だ。
SWEET CHEER
end.(2009.09.13)
最強チアリーダー。
イギ様も意外にチョロイよっていう話(えええ/笑)
あと暫くおっぱい話書いてなかったからそのうち米にょ加で、とか思ってたのに
メリカより先にイギ様におっぱいふにふに権あげちゃった。アハ、ゴメン☆ ←
あまーい夜のご褒美はおっぱい大好きなエロの神様がチェックインしたら書きます(´∀`)