イギリスの屋敷には、年代物のソファがある。
まだ家具は町の工房で職人により作られることが普通だった時代に誂えたそれは、アンティークとしての付加価値はあるかもしれないが、実際の購入費用や工房のグレードを鑑みると殊更に高価というわけではない。
ただイギリスが気に入って使い続けているという、それだけのごくありふれた3人掛けの造りだ。使ううちに磨耗する表地は幾度か張り替え、脚や肘置きなどの木製部分もところどころ補修の跡が窺える。なんてことはない日用品である。
だが、歳月を得たものだけが持ち得る存在感は、他の家具にはないものだ。
ありふれた造型であるからこその使いやすい肘置きや強く支える脚は、歳月に美しい艶を持つ飴色に染められていた。
購入時には瑞々しく匂やかであった骨組みの木材は、すっかりとこの屋敷の空気を吸い込んで、ごく自然な佇まいである。
物言わぬ道具という存在でありながら、まるで老齢の賢人が端座しているかのような。しっとりと重く、しかし重苦しくはない。なんとも言えない落ち着きをソファは無言のまま、室内にもたらす。
イギリスはこのソファを気に入っていたし、このソファがくれる老成した落ち着き、静穏で恬淡とした優雅さを、愛していた。
もともと彼は、静かな生活が好きなのだ。
数百年前まで7つの海を駆け巡り、ありとあらゆる冒険、勝負、闘争、享楽の限りをその力に任せて味わいつくしたものだが、それも今は昔の話だ。
様々な経験が、自分の内側に刻まれている。兄弟との今なお残る確執に繋がる内乱を征し、足下に横たわる海峡をものともせず欧州に覇を唱え、輝く海を越えて新大陸を発見し、世紀の革命とも謳われた産業の大転換を経て、小さくなった世界を焼き尽くすような凄惨な戦争を、超えて。
そして今また身の丈にあった国土に穏やかに暮らし、長年使ったソファに腰を落ち着け、一杯の紅茶を飲む生活に戻ってきた。
静かな、落ち着いた生活だ。
恬淡と、静穏な日々を、これからは送るのだと。
「‥‥思ってたんだがなぁ」
磁器のティーカップから唇を離して零したイギリスの声に、反応したのか。
寝息のような小さな声、僅かな身動ぎ。それから柔らかな指先が、イギリスの膝の上をするりと撫でた。そのまま力なく落ちかけた手のひらを、イギリスは素早く芳しい紅茶を湛えたカップをソーサーごとテーブルに置き、そっと拾い上げるように取り、包み込む。
彼の手の中にすっぽりと納まるサイズの白く柔らかな其れには、かけらも力が入っていない。すっかりと、眠り込んでいるのだ。
イギリスの傍は、安全であると。
安らぎ憩う場所であると信じきって、眠る姿。
3人掛けのソファの端に座り紅茶を楽しむイギリスの膝に小さな頭を預けて眠るのは、彼の歳若い、最愛の恋人だ。
ハニーゴールドの豊かな巻き毛が、華奢な身体を飾るように散らされている。ソファに身体を伸べて眠る姿は、イギリスと較べればずっと細く柔らかく、繊細だ。
膝に乗る小さな頭。覗き込んだ横顔、ほんのりと淡い色をのせた頬は瑞々しく滑らかだ。僅かに開いた唇はいかにも健康的な薔薇色。今は閉じられて、ハニーカラーの長い睫に縁取られている瞳は淡くけぶる水の色をしている。
そして、男の腕の中、甘い熱に蕩けきったときにのみその瞳が赤みを増して艶やかなアメジストカラーになることを、今は知っている。‥‥その甘やかに淫らな姿を己だけが知っているという、えもいわれぬ優越感!
イギリスは片手で取った彼女の手をそっと両手で包み込みなおすと、ごく柔らかく、そして最上級の愛しさを込めて撫で擦った。
嘗て、自分が戦いに明け暮れていた時代に、最大の敵国であった腐れ縁の男から奪ったもの。ハラハラと泣いて父親の名を呼びながら、それでも『国』たる誇りを小さな身体に携えて、イギリスの足元に膝を折り、優雅に礼をとった、彼女。
その瞬間に何かが変わったと思うのは、後付の記憶だろうか?
イギリスは眠る恋人の手のひらを愛撫しながら、口の端だけで苦笑する。
自分は、静かな生活が好きなのだ。あの頃のような、血と喧騒、波乱に満ち満ちた日々を送るには、もう自分は年を取ってしまった。そもそも、意気軒昂と世界中を駆け巡っていた時代だって、その先に目指していたものは、不安要素を全て打ち消して後の平穏だった気がする。
そしてその途上で彼女を手に入れて、それから数百年の年月を越して。
気に入りの老成したソファに腰掛け、紅茶を飲みながら、恋人となった彼女の憩う姿を、静かに眺めている。
「‥‥落ち着いた、静かな生活か」
イギリスは呟いて、そして笑った。
静かな生活、落ち着いた日々。確かに、年代物のソファに腰を下ろし、芳しい紅茶を喫するこの日々を、そう表現するに吝かではないわけだが。
しかし、この胸をざわめかす想いは。
きゅっと心臓を一掴みにされているような胸苦しさ、といって其れが決して不快なものではなくむしろ心地よくさえあり、同時に、この膝に掛かる微かな重みを失いたくない、守り抜きたい、誰にも奪われたくない己だけが奪いたいと。軽やかに歌いながら激しく吼え猛る、この激情は。
柔らかな恋人の手を尚も撫でながら、イギリスは年甲斐もなく沸き立ち猛る恋情に、呆れにも似た苦笑を零す。
若く、美しい恋人。全身でイギリスを好きだと告げてくる、その純情と無垢と、激しさ。
それでいて、途方もなく甘い恋心。甘い、身体。
‥‥今更まさか自分が、なんて。そうとも、何度考えたことか!
「カナダ」
イギリスは静かに、眠る恋人の名を呼んだ。
返事はない。すっかりと眠り込んだ彼女は、すよすよと健やかな寝息を返すのみで、そっと手の甲や指先を優しく愛撫する恋人の蕩けそうに甘い表情には、気づかない。
気づかれないままでいい、とイギリスは思う。
これほどまでに甘い感情、年甲斐もなく溢れる恋情を全て明かしてしまうには、やはり羞恥が先に立つ。
だから、今はこのまま。
「‥‥好きだよ、お前だけだ」
このまま、健やかに眠る恋人に密やかに告げるだけで。
年代物のソファに座り、紅茶を一杯。
落ち着いた空間だ。イギリスが愛して止まない、身の丈にあった静かな生活。
そこにするりと重ねられる愛して止まない恋人との甘い甘い恋愛も、それはそれで、また。
「‥‥イギリス、さん?」
起き抜けの蕩けた呼び声に、柔らかな唇を啄ばむだけのキスで応えれば、一瞬で覚醒した彼女がさぁっと頬に朱を上らせ一頻り慌てて、それから極上の甘い笑みを、イギリスへと返すものだから。
長い歳月を経たイギリスの屋敷に、快活な笑い声と甘い甘い恋人達の会話がこだますのも、己がずっと手に入れたくて止まなかった穏やかで静かな生活の、一形態なのだろう、なんて。
静かに密やかに納得して甘い匂いの恋人の華奢な身体を抱き締める、イギリスであった。
年代物のソファ、芳しい紅茶。愛らしい、甘い恋人。
長い長い歳月を経て漸く手に入れた、甘やかにさざめく少し華のある穏やかで満たされた生活が、イギリスを待っている。
オリノコ・フロウ
end.(2009.10.04)
sail away,sail away,sail away
世界中を巡って手に入れた宝物を手に、幸せの日々に漕ぎ出すのだ