覚えているのは耳慣れない、古く遠い、彼の国の言葉。
虹色に輝く色鮮やかな刺繍糸、細く骨ばった指先に光る、針の銀。
窓から零れる陽光にきらめく豪奢な金髪、清らかで芳しい薔薇の匂い、温かくしっかりとした膝や胸の感触、それから。
やんわりと細められた森色の瞳と、慈しみ深い、言祝ぎの歌。
幸せの、記憶。
(彼は、忘れてしまったけれど。)
「カナダ、手があいたらちょっとこっち来てくれ」
「はぁい」
背後に響いた呼び声に、カナダはミトンをはめた手でクラシカルなオーブンの扉を閉めながら返事をした。
ほのかに甘い砂糖とバター、甘酸っぱい林檎の匂いは、穏やかな午後のキッチンに相応しい。
ミトンは手製のキルティング、縁に小さなユニオンジャックの刺繍。ところどころ焦げているあたりが持ち主らしかった。公式の場における厳格で狡猾な彼からは想像しようもない、ごく可愛らしい小物にカナダは声を立てずに少しだけ笑うと、軽やかに振り向いてキッチンを飛び出し、恋人の元へと駆けていく。エプロンを手早く外してまとめ、料理の邪魔にならないようにと髪を留めていたクリップを外せば長いハニーブラウンの巻き毛がふわりと辺りに舞った。それを慣れた手つきで整えつつ、デジタルアラームのスイッチを入れ忘れなかったのは、先日うっかりと焼き時間を大幅にオーバーしてミートパイを黒焦げにしてしまった教訓からだ。
でもあれは、自分のせいばかりじゃないんだから。そんな言い訳めいたことを考えたカナダであるが、その原因のひとときに思い至るやほんのりと体温が上がった感覚に、廊下を駆けながらぺちぺちと自分の頬を叩く。‥‥今日のアップルパイは、大丈夫。アラームもかけたもの。
淑女たれと常日頃から礼儀に煩い父親でもある恋人のために、出来る限り足音を立てないよう短い距離を駆けた先。キッチンからほど近い位置にあるリビングから小さな小さな歌声が聞こえる。聴き取るには距離があったのとごく小さな音量の為、言葉の内容はわからなかったが、緩やかな節回しのそれがふつりと途切れ、窓際、一人掛けの椅子に深く腰掛けて手仕事をするその人が、ちらりと視線を上げて目の縁だけで笑ったのに、カナダもつられるように笑った。
エバーグリーン、英国の6月色の瞳は、この国の女性が憧れて止まない澄み渡った鮮やかな緑だ。豪奢な金髪に映えるその色をカナダは密やかに気に入っていたし、憧れてもいたが、口にしたことはない。
「なんですか、イギリスさん?」
「ん、ちょっと頼みがあってな」
言葉と目線で呼ぶイギリスに、カナダはエプロンを入り口近くの棚に置いて、服の上を軽く手のひらで払ってから、そろそろと距離を詰める。
おっとりとしたモーションは、彼女の普段どおりといえばそのとおりなのだが、今回に限っては、理由はイギリスの側にあった。
「悪いな、‥‥足元に気をつけてくれ」
「はい」
さやさやと優しい木の葉の囁きにも似た衣擦れをBGMに、イギリスが手ずから布を捌いて作ってくれたスペースへと、カナダは慎重に身体を滑り込ませた。
カナダの爪先のすぐ隣りには、美しいアンティークシルクを汚さない為の布が床を覆うように敷かれている。勿論、その大部分をたたんで乗せてあるイギリスの、膝上にも、だ。
その敷布の上にのせられた淡い青銀にきらめくシルクには、方々にあでやかな色の刺繍糸と銀の留め針、枠を填めた痕跡らしき僅かな皺が、ところどころに寄っていた。そして。
「‥‥すごい、だいぶ進んだんですね?」
「ん。」
汚れ避けの白い手袋を填めたイギリスの指先、少し大きめの木枠の中には、きらめく白銀の、大輪の薔薇の刺繍。
イギリスの肩越しに覗き込んだ見事な作品に、カナダは思わずといった感嘆のため息をついたものだ。
刺繍を始めとする針仕事は、カナダの父であり兄であり、そして恋人であるイギリスの、熱心な趣味の一つである。
イギリスの屋敷には、彼の手による品々がいたるところで使われている。
たとえば先ほどまでカナダがその手に填めていたミトンなどがそうだ。だが、そんな小物は文字どおりの「小物」といわざるを得ない。
季節や来客ごとに屋敷の内装を替えるのは(大規模なものではなく、カーテンや絨毯を替えたり、ポートレイトを替えたりといったものだ)、来客へのもてなしとプライベートスペースを大切にするイギリス人らしさのあらわれと言ってもよいのだろうが、その内装を替えるのに使うカーテンやクロス類を自作する、となれば昨今では珍しい部類に入るだろう。びっしりと意匠化された小さな薔薇の刺繍が入ったカーテン、繊細なレース糸で編まれた華やかなテーブルクロス。厳しい花嫁修行を重ねる名門名家のご令嬢でさえ在り得ない、といってもいいくらいだ。質のよい機械製の既製品が出回っている中、敢えて手間隙も金銭もかかるハンドメイドを選ぶ人間は、現代ではとんと減ってしまった。
そんな現代にあって嬉々として刺繍をたしなみ、しかもそれが玄人裸足な腕前ともなれば、いっそ珍しいを通り越している。
そんな珍しい一例、つまり、自作のカーテンをかけたりテーブルクロスに繊細な刺繍を入れたりするひとが、カナダの目の前の人物なわけだ。
そして、そんな裁縫上手が現在針を入れている品はといえば。
「綺麗‥‥。これは、今回着られる方のお母様のなんですか?その人がイギリスさんに刺繍を頼んだ、お友達なの?」
「ああ、いや。これは、花婿の母親が着たものだ。頼んできたのも彼女。彼女の家とは、2、3代前からの付き合いだな。何気なく話したら、花嫁が着たがったらしくてな。子どもはこの花婿含めた息子ばかりだから、譲る娘もいないし」
「うわぁ、恋人のお母様から貰うんですね!そういうのもロマンティックで素敵‥‥」
ほぅ、と胸元で両手を握り合わせて感じ入った風なため息をついたカナダに、イギリスがちらりと視線を寄越してから薄く笑う。その拍子に刺繍枠を支える手元に身動ぎが伝わったのか、彼の膝上に静かに横たわるアンティークシルクが、絹特有の優雅な衣擦れとともにたおやかな輝きを放った。
最上級の絹を惜しげもなく使ったドレス。‥‥まごうかたなき、婚礼衣装である。
「最近はウエディングドレスっていえば純白が主流だからって、はじめは彼女も渋ってたんだけどな‥‥」
言いながら膝上のドレスを慣れた手つきでイギリスが捌けば、窓から差し込む午後の陽光を受けたシルクは美しい青銀に輝いた。確かに、最近ではウエディングドレスに使うには珍しい色である。
しかし、それを差し引いても有り余る美麗さに、カナダはふるふると首を振って応えた。
「けど、やっぱりとっても素敵ですよ。花嫁さんが着たがるのもわかります。だってこれ、手縫いですよね?」
「ああ」
布を膝上に置き、手を伸ばして刺繍箱から取り出した針に新しい絹糸を掛けているイギリスの邪魔にならないよう注意しつつ、カナダはイギリスの背後からその肩にそっと指先を乗せて、刺繍途中のウエディングドレスをじっと見つめる。
布の張り具合やギャザーの寄せ方、糸の始末に至るまでとても丁寧な仕事だ。背中に位置する共布の包み釦には小さな真珠が寄り添うように全てにつけられ、それだけでも気の遠くなるような作業だろう。既成のドレスがどんな風に作られるのかカナダは知らないが、目の前のドレスの丁寧な仕事ぶりは、隅々にまで思いやりや愛情の感じられる、手製ならではの温かみがあった。
‥‥思い出すのは、耳慣れない、古く遠い、彼の国の言葉。
虹色のとりどりな刺繍糸、細く骨ばった指先に光る、針の銀。
窓から零れる陽光にきらめく豪奢な金髪、清らかで芳しい薔薇の匂い、温かくしっかりとした膝や胸の感触、それから。
やんわりと細められた森色の瞳と、慈しみ深い、‥‥
「‥‥歌、」
「へ?」
きらめくような衣擦れとイギリスの声に、カナダは瞬きをして其方を見遣った。
いつの間にか針に糸を掛け終えたイギリスが、白手袋の指先で木枠を持ち直して、そっと一針目を入れたところだった。枠の位置も替えたらしく、ピンと張られた位置には先ほど見た大輪の薔薇ではなく小さな花弁らしき縫い取りが、縫いかけのものも含めいくつも散らされている。
「え、あ、いえっ。‥‥その、さっきイギリスさん歌ってましたよね、って。よく聴こえなかったけど」
「ああ、それか」
少し慌てたカナダの声に、けれどイギリスは特にそれ以上応えるでもなく、挿し始めの針を一度だけ返してもう一針挿す。
針を入れたイギリスに、カナダはてっきりそのまま彼が見事な技で刺繍を始めるものだとばかり、思っていたのだが。
「で、カナダ。お前、一針入れてくれ」
「‥‥えええ?!‥‥ふぁ、きゃあっ」
緩く振り仰いでなんでもないように言われた、なんでもある発言に、カナダは驚倒して思わず大きな声を上げてしまった。
しかしイギリスはといえばその驚きは想定内だったのか、特に驚いた様子もなく片手で針と木枠を器用に支えると、残った腕で彼の斜め後ろに立っていたカナダの腰を抱き取り、引き寄せた。
カナダは恋人の腕の力と、足元や彼の膝の布を傷つけないようにと殆ど無意識に身体を動かした結果、椅子に座っているイギリスの頭を自身の胸元に抱きこむような格好で、抱きつくことになってしまった。
むに、と緩い圧迫感に殆ど反射で見下ろせば、クツクツと笑う恋人の上目遣いの視線。
自分の、おっぱいの間から。
「‥‥いーい感触」
「ッ、ばかぁ!イ、イギリスさんのえっち、もう!」
「や、そうじゃなくって」
慌ててイギリスの肩に手を遣り軽く上体を逸らすようにして身体を離したのだが、腰を抱き取る腕はがっちりと強くそれ以上離れられない。
あまり身動きするとドレスに身体を当ててしまうかもという不安もあり、カナダは確実に赤くなっているだろう頬を精一杯ふくらせて、自身の恋人をねめつけた。‥‥全く効果はなかったが。
なおも口の端をニヨニヨとさせたままのイギリスであったが、実際にこういう格好になったのは不可抗力らしく、カナダを見上げるとそのまま膝上に座るよう示した。
「え、その、」
「大丈夫だ。あ、敷布の下な。俺の足の間に両足入れて、片膝に座れ」
「う‥‥」
おっとりとしたカナダがテキパキと物事を進めるイギリスに敵う筈もなく。
気がつけばカナダは指示どおり、恋人の膝上に抱かれていた。
自身の膝上に、先ほどまで眺めるだけだったアンティークシルクが乗っている。ちょうどドレスの裾にあたる部分だろうか、既に施された華麗で精緻な刺繍が目に入って、カナダは思わずうっとりとした息をついた。‥‥どう見ても、趣味の域をでた出来栄えである。
そんなカナダを呼び戻したのは、当の華麗で精緻な刺繍を施した、イギリスで。
「カナダ」
「え?‥‥って、あ!ちょ、ちょっと待ってイギリスさんッ」
「ん?」
‥‥ん?じゃないよ、もう!
カナダは膝上に座らされたせいで視線が同じくらいになっている恋人へと目を向けると、首をふるふると振ったものだ。長い巻き毛がシルクに触れそうになったのを、片手で掻きあげるように軽くまとめて、言葉を継いだ。
「あの、私そんな、刺繍とか上手じゃないですしっ。えっと、‥‥無理です、よ?」
やや言葉が尻すぼみになったのは、さすがに自分の発言がちょっぴり情けないものだ、と思ったせいである。
料理にお裁縫、掃除、洗濯。一昔前までは女性ならば出来て当たり前と言われていたものだが、今時そんなことをいう人も少なくなった。料理が出来なかろうと針仕事が苦手だろうと、そこまで恥じるものでもない。‥‥とはいえ、だ。さすがに恋人である男性が見事な裁縫技術を持ち合わせ、かつそれを趣味にしているのを鑑みれば、なんとなく、こう‥‥。
(ううう、なんだろこの敗北感‥‥)
‥‥とまぁ、針上手な恋人の膝上で、自身のアレコレをぐるぐると思っていたカナダであったが、そんな彼女の様子にしばしきょとんと見入っていたイギリスは、一呼吸置いてから思い至ったという面持ちで、軽く笑って見せた。
「ああ、俺の言い方が悪かったか。えっとな、別にお前に全部縫い取れとか言ってるわけじゃねぇよ」
「え?」
イギリスの言葉に、今度はカナダがきょとんとした目で恋人を見遣る。
その青灰色の視線にやんわりと優しい笑みを返したイギリスは、己と恋人の膝上を覆う布地を丁寧な手つきで広げ直すと、枠を掛けた部分をカナダの手元へと持っていった。
「一針でいいんだ。針を挿して、返して、抜く。それだけ」
「‥‥あの、」
「幸せのまじないなんだ。‥‥さっき歌ってた歌もそうだけど」
そういって、イギリスはこの上もなく優しい笑みを浮かべた。
それは、古い古い、そして他愛のないまじないなのだと、彼は言った。
花嫁の衣装に、人の手の針を入れてもらう。幸せが、訪れるように。幸せを、己の手元に縫い留めておけるように。幸せを願う心を、いれるのだと。
白手袋の指先が、木枠の内側に蝋で書いた図案をなぞる。
それはとても優しい、とても慈しみ深い指先だと、カナダは思った。
「一種の願掛けだな。今じゃこんなこと覚えてる人間も少なくなったろうけど。まぁ、せっかくだから」
「‥‥あの、私でも、いいの?」
戸惑いながらのカナダの言葉に、イギリスは事も無げに「勿論」とだけ応えると、木枠の内側に挿した針をそっとなぞってカナダへと手渡す。
その優しい指先に、カナダは殆ど無意識に針を取り、言われるままに一針、挿した。アンティークシルクの優しい感触と、針に導かれて入る白銀の絹糸が光を宿してきらめくのに、瞬間、見入る。‥‥遠い昔を、思い出す。
‥‥豪奢な金髪、薔薇の匂いの温かい膝上、きらめく針の銀、小さな、歌声。
「えっと、できました」
「ん。」
挿し終えて、おずおずと差し出した木枠と針を受け取ったイギリスが、短い感謝の言葉と同時カナダの薄く開いていた唇をついばんだ。ちゅ、と愛らしい音を立てたキスに、カナダは一拍置いてからさぁっと頬を赤らめる。
その、物慣れない少女のような初々しさにイギリスは一瞬だけ深く笑うと、後は彼女を膝に乗せたまま、刺繍に戻ってしまった。
慌てたのはカナダである。
「ああああのっ、イギリスさん、私、もう膝から降りますから‥‥ッ」
「あ?パイの仕込みは済んだんだろ?」
「え、はいそれは‥‥。じゃなくて、その、膝、疲れちゃうし、」
「お前が乗ったくらい平気だっての。いいからちょっとそこで大人しくしてろ」
手元が狂う、とまで言われては、もうカナダには動けない。
カナダは布の下で床に接している爪先に力点を置き、出来る限り彼の膝に体重をかけないように暫くの間そわそわしていたのだが、‥‥ほんのりと薔薇の匂いのするイギリスの体温と、目前で展開される職人芸めいた手技に、すぐに見入ることになる。
「‥‥すごい、イギリスさん」
「んん、まぁ、慣れの問題だな」
なんの衒いもないごく自然な口調に、カナダは苦笑したものだ。
慣れというが、ここまで「慣れ」るのに、いったいどれだけの時間がかかることか。‥‥長い長い時間を生きた彼だからこその技なのだ。
イギリスの針は止まらない。
先ほどカナダが入れた一針を取り巻くように、美しい糸目があっという間にひとひらの花弁を描いていく。速過ぎるでも遅過ぎるでもない運指は、正確で丁寧であった。
カナダは、それを静かに見つめる。
今は白手袋に覆われている指先は、ほんの幼い頃から馴染み親しんだ、大きく頼もしい手だ。自分を、自分の兄弟を抱き上げ、抱き締めて、愛してくれた手。
その手が、今は友人の娘のために美しい文様を描き出していく。
零れる午後の光に灯りを点したように煌く青銀のシルクはあでやかで、あたたかい。
ふと、ドレスの裾の丁寧な糸始末が目に付いて、カナダは囁きめいた小さな声で、イギリスへと話しかけた。
「‥‥これ、この衣装。どなたが作ったんですか?もしかして、イギリスさん?」
あり得ない事ではないと思った。長い年月を姿をとどめて渡る彼であれば、娘時代の友人の衣装を手ずから縫うことだって出来ただろう。
けれど、イギリスは視線を手元に落としたまま、穏やかな声でそれを否定した。
「いや。これは、彼女の母と、大叔母にあたるひとが縫ったものだ。‥‥ああ、あの子らも、針がとても巧かった」
言葉の最後、ふわりと温かな音がのせられたイギリスの言葉に、カナダは丁寧な手つきで針と糸を扱っている恋人の横顔を、そっと窺いみる。
柔らかな、とても優しい微笑を口元に刻んだ「イギリス」が、そこにはいた。
「はねっかえりだった娘をそりゃ心配してたもんだ。『あの子ったら、きちんとお嫁にいけるのかしら』、なんてな。でもそういうあの子も、幼い頃はそりゃあおてんばでな。‥‥そんな娘の、そのまた義理の娘がこうして衣装を着るなんて知ったら、なんて言うんだろうなぁ‥‥」
イギリスの声は、限りなく優しい。
それをカナダは、静かに聞いていた。
カナダもイギリスも、人の姿をして人では在り得ない時間をわたる存在だ。
大地を愛し、その地に住まう全ての生きとし生ける血を愛し、長い長い時間を過ごしてきた。その愛情は無垢であり至上であり、平等なものであるのだが、一個人として存在する以上、そこに特別な存在が生まれるのは不思議なことではない。
生きる時間が違う以上、そこには必ず別離が訪れる。‥‥この婚礼衣装を縫ったひとは既に亡く、イギリスの記憶の中に静かに眠っているだけだ。
‥‥しかし、それでも。
針に幸せを願い、糸に幸せを込めて、彼は。
ふと、小さな歌声が、カナダの耳をくすぐった。
聞きなれた、イギリスの声だ。それは彼女がリビングに顔を見せたとき、聴こえてきたもの。あの時は距離があったから聞き取れなかったと思っていたそれは、けれどこの距離で聞いても、彼女には聞き慣れない言葉で。
‥‥否。自分は、この音を、歌を、知っていた。
幼い記憶。
恐ろしいほどに美しかった最初の父親の元から、彼の手元に引き取られた、暫く後のこと。
自分によく似た面差しの兄弟と出会い、笑いあって過ごした穏やかな日々。
兄からプレゼントされたおもちゃで遊び、遊び疲れて眠ってしまった兄弟とシロクマをその場に残して、椅子に腰掛け手仕事をする兄の傍へと行った。
見上げた先、豪奢な金髪と緑の瞳、優雅な動作できらめく針の銀。
伸ばした腕に、照れたように笑ってから膝の上に抱き上げてくれた。温かな腕の中、頬を寄せた胸元、清らかで芳しい薔薇の匂い、虹色の刺繍糸。
そして、呟きにも似た小さな小さな、歌声。
『おうた?知らない言葉、だよ。えいご?』
あの頃の自分は、英語もあまり上手くなかった。兄にはフランス語を使うことを許されていたし、おっとりとしたペースで英語を習得していく自分を彼は許してくれていた。
子どもらしい、舌ったらずな甘えた言葉で訊いた自分に、兄は優しく応えてくれた。
『そうだな、英語は英語だが‥‥。お前が覚える英語とは、少し違うな』
『ちがうの、』
『ああ。古い、古い英語だ。ずっと昔に使われていた』
『ふぅん。どういうおうた、なの?』
『それは、‥‥』
薔薇の匂いの腕の中見上げた、やんわりと細められた森色の瞳と、慈しみ深い、彼の。
「『‥‥出会いは、喜び、光ありて地に、言祝ぎ、汝が幸せを、請い、願う、』」
「ん?あれ、よく知ってるなカナダ」
古英語なんて、お前聴いたことないだろうに。と。
イギリスは一旦針を止め、紡いでいた歌を途切れさせて、言葉を返してきた。
カナダはイギリスを見返す。美しい、森色の瞳だ。‥‥ほんの幼い頃から憧れて止まない、英国の緑。
「だって、」
むかし、あなたが歌ってくれたのに。刺繍をしながら、教えて、くれたのに。
言いかけて、けれどカナダは口を噤んだ。
幸せで穏やかな時間は瞬く間に過ぎた。
美しい緑の大地は再び戦火に見舞われ、小さかった兄弟は逞しく泣きそうな目で、それでも怒り狂う兄へと剣を向けた。
凄惨な、壮絶な闘争の日々。
幸せは、遠く。
触れた幸せの温かさゆえに心を潰す悲しみを、記憶ごと捨ててしまった可哀想なひとに、何を言えるというのだろう?
「‥‥むかし、聴いたことがあるんですよ。意味も少しだけ知ってるけど、詳しくは知りません」
カナダは努めて普段どおりの口調で応えた。
イギリスは一呼吸ぶんほど手を止めて、膝上に座る恋人を見つめていたが、彼女がいつものほにゃりとした笑みを浮かべて軽く寄り添うように身体を凭せかけてきたところで、簡単なあいづちのあと手仕事に戻った。再び零れ落ちる歌、針先に狂いはない。‥‥自身の記憶が抜け落ちたことさえ、力ずくで封じて過ごしている。
あの日も歌っていた。
幸せだった穏やかな日々、カナダを膝に乗せ、眠るアメリカを見つめ、幼い子ども達の服に愛らしい刺繍を入れながら、滑らかな古英語を紡いでいた。
お前達が幸せであるように。
お前達を、幸せに出来るように。
歌う姿を、祈るその姿を、カナダは静かに見つめていたのだ。今と同じように。
彼が歌うのは、まじない歌。幸せを祈る、幸せを手にする、手に出来るよう祈り続ける、古い古い優しい歌だ。
長い長い時間を生きて、丁寧で美しい刺繍を入れて、古い古い歌を歌って。幸せを願うイギリス。
一度手にした幸せを失い、その記憶さえ辛くて封じてしまった彼が、今また幸せを祈る歌を歌っている。
「‥‥カナダ?」
ほんの少しだけとまどった声が、耳元で優しく響いた。
けれどカナダは応えずに、ただじっと可哀想な兄を、誰よりも大切な恋人を抱き締める。温かい身体だ。幼い頃に膝に抱かれていたときと同じ体温、同じ薔薇の匂い、ただ、自分はすっかりと大きくなってしまったけれど。
あれから、長い年月が過ぎた。
深刻な世界不況、世界を焼き尽くす大戦、辛いことは今なお数限りなく。
荒れ狂う兄に酷い事もされた。嘗ての父親や独立してしまった兄弟に、辛くもされた。けれど、‥‥けれど今は、幸せだ。
美しかった父親は、やはり美しいままに会うたび抱き締めて美味しいものを食べさせてくれるし、背を向けて駆けていった兄弟は気ままに自宅までやってきては、カナダの手をとり映画撮影だバカンスだと楽しいことを次々とくれる。
そして、イギリスは。‥‥兄は、恋心に震えながら差し出した自分の手をとり、抱き締めてくれた。優しく抱き熱を分け与え、愛してくれた。
幸せを、くれた。いつだって。
「イギリスさん、」
「ん?」
柔らかな衣擦れが聴こえる。それに、恋人の肩へと伏せていた顔をほんの少しだけ上げてみれば、膝上に乗せられていたシルクはいつの間にかたたまれて、敷布にくるまれサイドテーブルにそっと置かれていた。
華麗な刺繍を、幸せの祈りを縫いこまれた其れをぼんやりと眺めていると、そっと頤をとられて、触れるだけの優しいくちづけを贈られる。
特徴的な眉の端を僅かに落として、至近距離にある緑の瞳がそっと窺うようにカナダの其れを覗き込んでくる。
「どうした‥‥?」
しっとりと、カナダを甘やかしてくれるイギリスの、恋人としての声。
それには応えず、ただそっと瞼を下ろせば、再び甘いキスが降ってくる。
息を継ぐタイミングを巧妙に織り込みながら施される甘く慰撫されるようなキスを、カナダは恋人の膝上に抱かれながら受け取った。手袋をはずしたらしい、背中や腰に這わされる手のひらが心地よい。
幼い頃にも、こうして膝上に抱かれていた。
刺繍をしている彼を見上げて、その幸せを祈る歌声を聴いていた。
幸せの記憶。
(彼は忘れてしまったけれど。)
‥‥けれど。
私は、覚えてるから。傍に居るから。貴方の幸せを、私が貴方の傍で、祈り続けるから。だから、
「なに、どうしたんだよ、急に。‥‥あ、つまんなかったか?」
そうだよな、刺繍なんて見てるだけじゃつまんねぇよな、いや俺はお前がくっついてるから楽しいんだけど、なんて。もそもそと呟きながらバツの悪そうな顔をしてそわそわするイギリスに、カナダはもう一度体を寄せるように抱きついてから、応える。
「ううん、違うよ。‥‥なんでもないです」
「いや、お前、なんでもないって感じじゃ、」
言葉尻を吸い込むように、カナダはイギリスへとキスをした。
普段はこういったことに奥手な彼女からの、ちゅっと啄ばむようなくちづけに驚いたように緑の瞳を見開いたひとへ、カナダはありったけの笑顔で、告げる。
「幸せだなぁって、思っただけだよ。‥‥一緒に居れて幸せだなって、好きだなって、思っただけ」
「‥‥ッ、は、」
真正面からの直球の告白に面食らったのか、言葉ともなんともつかない声を零したイギリスに、カナダが次の句を告げるより先。恋人らしい深く激しいキスを仕掛けられ、‥‥唇を交わす一瞬前、小さく小さく返された己と同じ言葉に、カナダは先ほど心の中で誓った想いをもう一度繰り返して。
あとは優しく甘い恋人の手に、身体をゆだねて。
「‥‥アップルパイ!!」
「いや、パイはいいから。‥‥それより、なぁ、」
「駄目!‥‥もうッ、前もそれでミートパイ焦がしたんじゃないですかぁ!」
「あー、あのときも良かったよな、お前すっげぇ乱れて締りが最高に、」
「めいぷる!!‥‥ッ、ばかばかぁッ、イギリスさんのえっち!」
イギリスの忍び笑いをBGMに、服を直しながらキッチンへと駆け出す。
デジタルアラームの音に混じって漂う甘い匂いは、ほんの少しだけ焦げ臭かったけれど、許容範囲内だろう。カナダはほっと息をついてアラームを止めて、オーブンの火を落とした。胸を撫で下ろす。
‥‥と同時に、少し肌蹴た胸元に散らされた赤い印にサァッと赤く染まった頬をぺちぺちと叩いて冷まし、まだ少しあがった息をついて、オーブンミトンへと手を伸ばした。
と、ドアの向こうから、小さな小さな歌声が聴こえた。‥‥イギリスの、歌だ。
彼はこの先も、誰かの幸せを祈って刺繍をするのだろう。誰かの幸せを願って、まじない歌を歌うのだろう。友人の、国民の、彼が愛する全ての人の幸せを願って。針を入れ、歌を紡ぐ。
かつて、幼い子ども達にそうしてくれたように。
(彼は、忘れてしまったけれど。)
「でも、いいよ」
‥‥覚えているから。貴方が忘れてしまった、幸せを歌ってくれたことを。幸せを歌う貴方を。幸せを願う声を、私が覚えて、貴方に幸せを、あげるから。
だから、幸せになって。
「私が、幸せに、してあげる」
「イギリスさぁん、まだ刺繍しますー?」
「あー、‥‥そうだな、もうちょっとだけ」
「それじゃ終わる頃ちょっと焦げたパイ持って行きますねー」
「んじゃそれ食いおわったらイチャイチャするか」
「‥‥ばかぁ!」
笑い声。美しいシルクの衣擦れ、歌声。
幸せを祈るまじない歌は途切れることなく、午後の空気を柔らかに震わせる。
かつて彼に教えられた短い箇所をカナダも小さく唱和して、少しだけ笑ってから、オーブンの扉を開けた。
歌声に溶けて、少しだけ焦げたけれど甘い甘い、幸せの匂いがした。
the heart asks pleasure first
end.(2009.10.17)
おまじないは創作です。でもどこかにありそうかな
ちょと内容詰め込みすぎ。刺繍か歌かどっちかにすべきでした反省orz