意外に思われるかもしれないが、イギリスは冷めた紅茶が好きだ。
否、正確には冷めた紅茶も、好きだ。

紅茶といえば英国の伝統、ポットはもとよりティーカップやソーサーに至るまで抜かりなく温め、ミルクも冷蔵では冷たすぎて宜しくないとされ、注ぐ湯はポットに入れる直前まで火にかけて沸騰させたもの、というのが常識である。要するに、熱い。もっとも近年は、冷えた衛生的な水がいつでも手に入るようになって以来、冷水にじっくりと茶葉をつけて長時間抽出する水出しのアイスティも認められてきてはいたが、基本的には紅茶は高温の湯を使い熱によってよりいっそう華やぐ薫りや色味を楽しむものなのだ。
無論、イギリスもそういったいわゆる黄金律にのっとった紅茶の淹れ方であり味を愛している。
紅茶の喫茶文化を受け入れて数百年、長の年月はそのまま経験則という名の知識の蓄積となり、もっとも美味しい紅茶の淹れ方をオープンソースとして世界中に浸透させた。熱く芳しき英国流の紅茶。英国国民がこよなく愛する紳士淑女の文化の味だ。
一方で、イギリスは冷めた紅茶も好きなのだ。
丁寧に淹れたものは冷めても十分に美味しいというのもあるけれど、もっとも単純な理由としては目先が変わって良い、という点。そのため、時には時間をかけて紅茶が冷めるのを待つことさえある。例えば今日が、そんな気分の日というやつだ。
もちろんイギリスは熱い紅茶を愛している。芳しき英国の伝統、文化の香り。けれど、同じくらいに冷めた紅茶も好きだ。熱い紅茶が愛らしいカップの中でゆっくりと熱を落としていくのをじっくりと待つ、その時間の贅沢な楽しさ。優劣がどうのという話ではない。だって、どちらも美味しい。そういうことだ。
そういうことなわけであって、つまり何が言いたいのかというと。




「もうっ、イギリスさんなんか知らないッ!」

薔薇の刺繍をイギリスが手ずから入れたソファの上、おっとり気味の声が普段よりややぼんやり加減を減量して、イギリス邸のリビングに響き渡る。
床から天井の縁まで大きく壁を切り取った窓はいつもながらに薄曇りのロンドン上空から最大限の採光をして、室内を柔らかな午後の色に染めていた。
瀟洒なテーブルの上にはいくつか数を落としたティーフード。
アフタヌーンティより、やや遅い時間。
イギリスは2杯目の紅茶が入れられたカップを優雅に携え、けれど繊細な磁器の縁に口はつけることをせずにソーサーに戻す。薄い磁器特有の可憐な音が、内側に湛えられた薔薇色の紅茶にまるで華やぎを添えるかのように、水面に美しい波紋を描いた。熱い潤みのまま立ち上る微かな蒸気すら綺麗だと、イギリスは素直に思う。
紅茶は美味しくしかもこんなに綺麗だなんて、なんと完璧な飲み物なのだろう。まさに英国文化の真髄だ。
‥‥と、そんな実に和やかなかつ若干自画自賛的なことを思うイギリスの傍らには、一転して和やかとは言いがたい気配を隠しもしない、柔らかな身体。
人の姿をして人ではない存在でありながら、存在する性差というのは意外に大きく彼らに影響するもので、イギリスと比べれば数倍以上も大きな国土と豊かな自然を湛える筈の彼女はけれど、男性としては決して立派とは言いがたい体格のイギリスと比べても、やはり小柄だった。
玄関口で迎えた彼女はその小柄な身体をふわふわとしたフェイクファーの上着にくるんでイギリスにぎゅっと抱きつき、彼の首元と男心を甘くくすぐったものだが、今は優しい色の薄いニットワンピース姿。柔い生地の下、曲線のみで構成された肢体は男のそれとは組成から違うのではないかと思わせるほど。今は握り締めて膝の上に置かれている拳だって、開けばふっくらと柔らかな、白い少女の面影を残す指先で、丸みを残した頬のラインや今はツンと尖らせた色をつけた唇も、実に、愛らしい。
女性という性は偉大だとイギリスは思う。おもに抱きつかれた拍子に味わった、ぷるんとした胸の辺りと揉み心地を思い出すにつけ。
‥‥と、同時に、女性という性は実に不思議だとも思う。

「カナダ、」
「知らない!」

だって、イギリスには恋人たるカナダが怒る理由が欠片もわからないのだから。

恋人間での他愛のない諍いなど、ごく普通な世間一般の人間の異性間(或いは同性の場合もある)ではありがちなことだ。
イギリスもカナダも厳密には人ではないが、人としての身体と情緒と思考回路を持ち合わせているわけで、そういった意味では市井で幸せに過ごす恋人たちとなんら変わるところはない。
イギリスはソーサーに戻したまま携えていた、蒸気立ち上る紅茶の水面をぼんやりと眺めながら、思う。
‥‥他愛のない諍い?待て、今俺たちの間に諍いがあったか?
互いに忙しい身で久々に会えた恋人同士、自宅に招き入れた美しい恋人とひとしきり挨拶とくちづけを交わして、甘い雰囲気のままアフタヌーンティ。
実年齢は数えるのも馬鹿らしいものだけれど肉体的にはそこそこ若いイギリスとしては、日暮れ後に続くだろう甘い触れ合いの前戯めいた接触をときおり交わしながらのティータイムは、和やかで幸せで且つ恋人同士の夜の営みを期待させる、なかなかに良いものであったはずなのだが。

「もうッ、イギリスさんいっつもそうなんだからッ」

ふんわりと甘い匂いが伝わるほどに近い距離に座りながら、何故かぽこぽこと怒っているカナダをちらりと見遣り、そしてふたたび手元の紅茶に視線を戻す。ああ、白く熱い蒸気が美しい。
‥‥まぁ、おおかた自分の受け答えが気に入らなくて拗ねたってところだろう。イギリスは蒸気の行方をぼんやり見遣りつつ、そう当たりをつけた。
深く考えても仕方がない。女性という性は所詮男などには理解しようがないのだ。
若干童顔な外見とは裏腹な年月を生きてきて、加えて代々幾人もの女王を上司に仰いだとくればイギリスとていい加減悟りもする。かつて自分が海を制した時代、森育ちの自分をホワイトホールから外洋に放り出した嘗ての女王を思い出しつつ、手元の紅茶をソーサーごと揺らして水面に発する美しい波紋を眺めたものだ。
手元にあるのは芳しく、熱い紅茶。優美に波打つ薔薇色の水面も繊細に揺れ立ち上るミルクカラーの蒸気も、どこか彼女の肢体のようであり、あるいは愛らしく巻いた長い髪のようで、イギリスは再度チラリと視線を横へと向ける。
緩く二つに束ねた髪はメイプルシュガーの優しい色をして、彼女のための華奢な肩飾りのようにやわらかく肩や背を覆っていた。薄いニットワンピースに包まれたまろやかな身体、ツンと尖らせた唇。拗ねた風な横顔。まるで頑是無いこどものような。

‥‥ああ、けれど。と、イギリスは思う。
こんな顔は、昔は見ることができなかったものなのだ。




小さな小さなこどもを最初の父親の元から攫ったのは、千年の歳月を渡り来した身としても、遠くはないとは言い難い、昔。
当時の自分にはまさしく目に入れても痛くないほどに可愛がるこどもがいて、その子とは性別と気性の差こそあれ面差しの良く似たカナダもまた、フランスから奪い取った瞬間からイギリスにとって愛し守るべきこどもとなった。今からは考えもつかないほど交通網は未発達で、海を越えることすら命懸けだった時代。それでも折につけ子どもたちの元へと赴き、イギリスなりに最大限の愛情を傾けてきたのだ。
やんちゃで活動的なアメリカと、おっとりと大人しくて従順なカナダ。
イギリスにとっての幸せな時代の顛末は無数の歴史書が語るとおりで、いまさら言うべきこともない。ただ、守り愛し抜いてきた子の片割れがイギリスの腕を振り払ったとき、大人しく従順だったカナダは、やはり大人しく従順にイギリスの腕の中にいる事を選んだ。

『イギリスさん』

大英帝国の娘。およそ逆らうことなどありえない、従順な少女。
それは彼女が長い時間をかけてイギリスから主権を獲得し、主権国家として歴史に名を刻んでいく中でも変わることなく。
愛らしい彼女。柔らかく笑い悠然と構え、寛容で柔らかな人当たりは、世界中の誰からも好かれる存在になった。
まるで黄金律で淹れられた熱い紅茶のように、万人が認めるおおらかで優しい国。

‥‥彼女がつまらないことで怒ったり、些細なことで拗ねたりなどするとは、きっと世界の誰も知らなくて。




(そう、知っているのは世界でただ、ひとり。)




「カナダ、なあ」

呼び声に、返る言葉はない。
イギリスは携え水面を見つめていたソーサーを、テーブルに戻す。
可憐な磁器の音がそろそろと熱を落としていく紅茶を甘く揺らして、その音に、隣の華奢な肩が、震える。
薔薇の刺繍のソファに座り白い指先をきゅっと固め、拗ねた風に尖らせた唇をしてそっぽを向くカナダ。その一方、決してソファから立ち上がることはなく、隣に座るイギリスの、一挙手一投足を気にしている、カナダ。
ふわふわと揺れる甘い色をした巻き毛も、時折そわりと揺らす肩も。己の拗ねた態度にイギリスが何を思うのかと、まるで暖かな巣穴から外をうかがう小動物にも似た愛らしさで伺ってくる、湖水色の瞳も。
全ては全て、頑是無い子どものように拗ねながら、恋人であるイギリスだけに、甘えてきている、証拠で。
イギリスはちらちらと向けられる視線を感じつつ、テーブル上でゆっくりと冷めていく紅茶を見つめる。

聞き分けの良い子どもだと思っていたのだ。
大人しくて従順で、およそ逆らうことなどありえない娘だった。

「カナダ」
「‥‥わ、私、お、怒ってるんだから」

拗ねた声。甘えた口調。
でもそれは、拗ねても甘えてもいいのだと彼女が気づいたからだ。
従わざるを得ない宗主国ではなく。守り手を引くだけの兄ではなく。
恋人として、対等な目線から対等な心から、甘えても許されるのだと。‥‥心を、許しても良いのだと。彼女が、信じたからだ。

紅茶が冷めるのを待つように、彼女の心が想いを決めるのを、イギリスはずっと待っていたのだ。




‥‥ああ、なんて可愛い!




「お前、可愛いよなぁ」
「‥‥ッ、もう!そ、そうやってイギリスさん、言えば私が‥‥っ、ずるい!」
「本当なんだから仕方ねぇだろ。好きだぜ?」
「ふぇ、あう、‥‥も、ばかぁ!ち、違うもんッ絶対私のほうがたくさん好きなんだから!私のほうが好き!」
「んー?そうかぁ?‥‥ほら、いいからこっち」
「ひゃっ、」

しみじみと、息と一緒に想いを零すように言えば、そっぽを向かせていた身体を一瞬で翻し、イギリスの身体にしがみついて言いつのる恋人は実に愛らしい。
ぎゅうぎゅうとしがみついてくる仕草はまるでこどもで、けれど本当にこどもだった頃にはなかった甘え方。
そして、抱きしめ返して甘やかすと同時に甘く熱い快楽も注ぐことが許される、まろやかな大人の身体。

「ふゃ、んー‥‥っ」
「‥‥可愛い声」

膝の上に抱き上げて、蕩かすほどに甘やかす。
柔らかな身体をまさぐりつつの甘いくちづけにすっかりと蕩けうるんだ瞳は、けれどまだ微妙に拗ねた風。‥‥まったく、熱に潤んだ瞳や尖らせたくちびるが、どれほど男を煽るかいつになったら気づくのやら。

「カナダ。ほら、拗ねるな。キスしてやるから」

抱きしめながら耳元に囁き落とせば、甘い匂いのする身体を擦り付けるように甘えて、こくんと首が小さく頷く。こどもみたいに可愛くて、恋人だからこそ愛しくて、イギリスは声を立てずに笑った。
‥‥結局何に拗ねたか怒ったか、イギリスには本当に解らないままなのだけれど。けれど、万人に寛容な彼女が、自分だけに甘えて拗ねる姿は可愛いから、いいのだ。




「ね、イギリスさん。‥‥もっと、」
「ん。」

甘い強請り声に応えてくちづけつつ、イギリスはテーブルの上の紅茶を一瞬、見遣る。
熱く潤んだミルクカラーの蒸気はもう見えない。カップの中、美しい薔薇色のまま佇む紅茶はゆっくりと熱を落としていっている。
けれどそれでいい。
イギリスは、冷めた紅茶も好きだし、紅茶が冷めていく時間を待つ、あの贅沢な楽しさ。ましてや、今日は。

「お前がいるしな、」
「んぅ、‥‥え?」

いぎりすさん、なにか、言った?
絡め合わせた舌の先で転がすような、ふんわり蕩けた言葉と視線と愛情には、雄弁な唇で応える。

イギリスは熱い紅茶も好きだが、冷めた紅茶も好きだ。
万人に寛容で優しいくせ、恋人である自分にだけたまに拗ねたり怒ったりしてみせるカナダが、好きだ。

「イギリスさん、好き。大好き」
「‥‥ん、俺も。」

拗ねた恋人を蕩かす甘いキスを終える頃には、紅茶は自分好みの温度になっている。









 ティータイムにおける彼の嗜好と対応





end.(2011.01.02)


「で、何拗ねてたんだよ、俺なんかしたか?」
「‥‥だ、だってイギリスさん、紅茶に集中して私のほう見てくれない、から。
いつもは淹れ立ての熱いの、飲みながら話してくれるのに、飲まないで、じっと紅茶見てるし」
「‥‥あー、うん。お前、本当可愛いな」
「え?」