窓の向こうを走っていくバスに、フランスは視線を向けた。
その拍子、髪留めで留められたブロンドが朝陽に揺れる。
適当に後ろで纏めた髪はやはり適当に紐で結われ、跳ねる髪は小さな髪留めでおさえられている髪型はなんともラフなものであったが、しっかりと肉のついた脚をボタンを留めていないジーンズに収め厚い胸には皺のよったタンクトップという服装には、ある意味似合いであった。
腰には、フロントで結わえるタイプのエプロン。
手首の動きだけでフライパンの中のベーコンをひっくり返せば、食欲をそそる香ばしい匂いがキッチンいっぱいに広がる。
じゅわっという、ベーコンの脂が跳ねる威勢のよい音に混じって、トタトタトタ。遠く聞こえるのは軽やかな足音。
口の端だけで、笑う。
己よりもずっと軽い身体が駆ける音というのは、とっておきのベーコンが美味しく仕上がっていく音と同じくらい、心地良いものだとフランスは思う。
それがいわば自分の領域である国内、さらに限定して自宅内。
たっぷりと甘い夜を過ごした翌朝の、愛しい相手のものともなれば。
上機嫌をそのまま指先に宿して手早く仕立てていくパニーニは、脂ののったベーコンにとろとろのチーズが絡み合って大変美味しそうだ。自画自賛?実際に美味いのだから仕方がないよねお兄さんの才能だものもういっそ怖いね!己の才能が!‥‥などと、朝から実にフランスらしい思考回路は今日も通常営業の様子。
屋根に斜めに作りつけた嵌め殺し窓から見える空は青く、零れ落ちる朝の光は大理石の調理台を輝かせて眩いほど。キッチンから続くドア越しのリビングに据えたクラシカルなテレビの向こう側、ブルネットにコーヒー色の肌が美しい女性キャスターの澄んだ声音が国内情勢から本日のお天気までを朝に相応しい晴れやかさで読み上げている。きっと幾百、幾千の愛する国民が、同じように晴れやかな声音を背に軽い食事の用意をしたり、外出の為の準備をしていることだろう。
そう、外出の、準備を。
愛すべき数多の国民ではないけれど、愛すべき、たった一人の恋人もまた。
フランスはパン切りナイフで大雑把に切り分けたパニーニを皿に放り込むように並べ置くと、エプロンに零れたパン屑を払うのとあわせて軽く手を拭う。
軽やかで愛しい、慌しいのにどこかおっとりな足音がクレッシェンドしていくのにこみ上げてくる笑みを殺さないまま、リビングではなく玄関へと続いている廊下へと足を向けた。
「ふりゃ‥‥っあぅ、フランス、さんっ!いってきます!」
「はーいはい、お待ちなさいね仔猫ちゃん。お出かけはまだ駄ぁ目」
「っぷにゃ、ぅ」
出会い頭の衝突は、予定調和だった。
柔らかなものを押し潰したような声を、向こうから飛び込んできた腕の中に閉じ込め、柔らかで素敵過ぎる感触を堪能するように抱き締める。そのまま鼻先を抱き締めた二まわりほど小さな身体の華奢な肩に埋めれば、彼女特有の甘い匂いが嗅覚を優しく刺激した。そこに自分の匂いがほんのりと混ざっている事実からくる微かな優越感と途方もない多幸感を、フランスは一頻り噛み締めた後、ほんの少し腕の拘束を緩めることで、ぱっと見上げてきた湖水色の瞳に己の其れを、かちりと合わせた。
「ふら、フランスさんっ、」
「落ち着いて、カナダ。‥‥朝のマナーはなにかな?ん?」
「‥‥お、おはよう、ございます」
「はいおはよう、可愛い子。今日もお前が幸せであるように」
幼い頃と変わらぬ朝の挨拶、言祝ぎながらなめらかな白い額にくちづけを贈れば、ふるりと腕の中の体が震える。それを宥めるように更に緩めた腕で背中をやんわり撫で擦れば、ほにゃ、とふんわりした頬が緩んで笑うから、フランスもまた優しく笑み零したものだ。
愛しさのまま見上げてくる鼻先に唇を寄せれば、お返しなのか軽く背伸びしたカナダがフランスの頬へと柔らかな唇を押し当てる。ああ、なんという可愛さなのだろう!‥‥たとえ前髪に挿した髪留めが傾いていようと、微妙に結わえた高さの違うお下げ髪を飾るリボンが縦結びになっていようと!
しかし、そんな廊下でのほのぼのしつつも甘い恋人達の朝の遣り取りは、リビングから聞こえてきた澄んだ母国語によって中断された。
『───以上、朝のニュースをお送りしました。どうぞ皆様素敵な一日を。8時58分をお知らせ致します。』
「‥‥?!え、ちょっ、遅れちゃう!!」
「っと、カナまだ大丈夫だから!待ちなさいってば、ね?」
「で、でもっ」
「俺が何年この街に住んでると思ってるの?いいから、ほらキッチンに入って」
時報を聞くなりまたも駆け出そうとしたカナダを、フランスは彼女が踏み出した一歩の力を巧く利用し、腰を抱いてターンをする要領で彼女の身体をキッチンへと続く入口に方向転換させる。
鮮やかな手並みはおっとり屋の彼女には効果覿面で、彼女がはたと気がつく頃にはほかほかのパニーニとメイプルシロップ入りのカフェが並ぶ食卓の椅子に見事着席させることに、成功済みだ。
困惑気味の視線が、斜め後ろに立って手のひらで肩を包むフランスへと向けられる。
愛らしい湖水色にはいつだって笑顔を返したいフランスだが、敢えて眉を顰めた厳しい顔で、困惑と焦燥に揺れる顔に視線を返した。
「あの、フランスさん、」
「いいから食べなさい。時間を気にすることは大切だけど、仕事はきちんと体力作っておかないと、もたないぞ?」
「あ‥‥」
嗜める口調と視線が示すものに気がついたカナダは、尚も重ねようとした言葉を飲み込んで俯いてしまう。膝の上に軽く置いた手のひらがきゅっと拳を作るのを肩越しに見てとって、フランスは彼女には聞こえないため息をひっそりとつくと、肩を包んでいた手のひらで、ゆっくりとその肩を叩いた。
それは幼かった彼女の我が侭を宥めるときに使っていたもの。‥‥今では、愛の交歓の中で過ぎた快楽に惑乱する彼女を宥めるのにも使っているのだけれど、それはフランスだけの秘密として。
「カナダ」
しっとりと、落ち着いた声でその名を呼ぶ。
その音を耳にした彼女の身体から、するりと強張りが抜け落ちたのにフランスはふわりと微笑んだ。
リビングのテレビからは、新発売の洗剤のコマーシャルが聞こえる。
天窓から零れてくる朝陽は少しずつ角度を変えながらキッチンを明るく照らし、そして机の上には彼女の為の朝食。
「今日は迎えじゃなくて、バスだよね。大丈夫、まだ時間あるから。お前はそれ食べちゃいなさい。お兄さん、髪直してあげるから」
スン、とカナダが鼻を鳴らして、香ばしいベーコンととろとろチーズのパニーニへと意識を移して頷いたのを見て取ると、フランスはくすくすと笑いながら小さな頭を撫で、縦結びになったカナダのリボンを解いた。
「仕事は10時だったね?」
「はい、でも、ちょっと早く、‥‥んぅ、着いて、おきたいし」
「カナダ、落ち着いて食べて大丈夫だから。‥‥バス停は家から坂道を下ったところだから、大丈夫。進行方向の後ろからバスが走ってくるからね、追い越されそうになったら、」
「‥‥なったら?」
「運転手に投げキッスでもしてやんなさい。お兄さんちの人間なら絶対待っててくれるから」
「‥‥キスするのはフランスさんだけって、決めてるから、出来ません」
「熱烈な告白メルシィ。‥‥カナ、よく噛んで、カフェも飲んで」
「はぁい」
むぐむぐと口を動かす恋人の背後で、フランスは彼女の食事の邪魔にならないよう慎重な手つきで、解いた髪を丁寧にくしけずる。
本日のフランス国内での仕事、に、託けての3日前からのフランス宅への滞在には、カナダの上司は当初若干渋い顔をしたらしいのだが、訊けば首相夫人と女性高官達、果てはカナダ総督の口添えで『快く』許可を貰えたらしい。やはりそこは女性同士、なにか通じるものがあるのだろう。いつの時代も女性は強い。
カナダの外見年齢は、少女の時代は幾分過ぎ、かといって成熟した女性というにはいろいろと足りない、そんな若い娘の姿だ。その姿が、人によっては自分の娘とも思えるほど、恋を優先させても不思議ではないような、おっとりふんわり、優しい姿をしているのも関係しているのかもしれない。カナダ国内の上司連中の内でもとりわけ女性陣は、彼女の健気な恋模様に、とても甘かった。
何にせよ、カナダの恋人であるフランスには嬉しいばかりだ。どれほど交通機関が発達しようと、自分たちの間には広い広い大洋が横たわっている。
ずっと一緒に居ることが無理なのは承知の上。
けれど、完全プライベート以外、つまり仕事の前だとか後だとかでも会うことを許してくれるような、彼女に甘い人物が今後も上司におさまってくれてたらいいのになぁ、などと考えるフランスだ。
「‥‥カナ、髪留めの位置がすっごく面白いことになってるんだけど」
「だ、だって急いでた、から!」
「うん、急いで上司との待ち合わせ場所に行って、苦笑されながら髪留め直されたりしたくないでしょ?ちゃんと鏡を見ながら留めなさいね」
「ううう‥‥」
まぁこの子のことだから鏡見ながらやっても面白いことになりそうな気がしなくもないけど、とは、フランスの心の中に留めておくことにして、手早く髪を結っていく。髪留めは最後の仕上げだから一旦外して、置き場に困ったので己の髪に仮留めしておくことにした。
ぱちりと己の髪に髪留めがとまるのとほぼ同時、ふんわりと巻いた髪が、華奢な背やふっくらとした頬に綺麗に流れ落ちる。どこかほんのり甘い匂いがするのは、気のせいではないだろう。
ハニーゴールドにメイプルシュガーの淡いブラウンを落とした髪色は、フランスの其れよりもやや赤みが強い。けれど柔らかく細いサラサラとしていながらふわふわと巻いた髪は、ある意味毎日ケアし慣れたものと同じ感触だ。
毛先の流れを整えるよう、指先に絡めてとった甘い匂いの髪を見つめながら、フランスはしみじみといったものだ。
「ううん、やっぱりお前の髪は俺によく似てるねぇ。サラサラで。毛先の巻き具合なんてそっくりだよ」
「そうですか?」
「ああよかった、お前に眉毛似のボサボサ髪が感染しなくて!アレの感染力は並じゃないからアイツにお前を渡して以来夜も眠れなかったもんさ‥‥。お兄さん頑張った、お兄さんの血統頑張ったよ、カナダ!」
「何言ってるですか、もう」
歌うような半畳に返される呆れた口調は、どこか甘やかで可愛らしい。
それが恋人への甘さなのか、下らないことを言う仕方のない元父親に対する甘さなのかは多少気になるところだが、どちらにせよカナダにとっての自分が特別なことには変わらないとフランスは楽天的に納得する。
柔らかなねこっ毛はややもすれば扱いにくいものだが、日々手入れしている己のものとさほど変わらないことから自然手慣れたものになる。長さこそカナダのほうがずっと長いが、結うのであれば長いほうがどちらかといえば扱いやすいものだ。
あっという間に結い終わり、リボンもきちんと左右対称に結んでやる。あとはカナダが食べ終わるのを待って、送り出すだけだ。
髪が整え終わったことを悟ったのだろう、パニーニの最後のひとかけらを口に放り込んだカナダは、くーっとカフェボウルに入った甘いカフェを最後まで飲みきった。
「ご馳走様でした!」
「はい、おそまつさま。書類は鞄に入ってるな?携帯は?」
「えっと、‥‥はい、大丈夫です!あっ、帽子!」
送り出した玄関のドア前、フランスが先刻落ち着かせたとはいえやはり焦っているのだろう、ぱたぱたと慌しく鞄を探る彼女の襟元をフランスは軽く調えてやる。‥‥キスマークが見えるか見えないか微妙なところだが、見なかったふりをした。
「今日は帰ってくる?」
「午前のお仕事が終わったら、陛下にお会いしにイギリスさんちに渡るから‥‥」
「ん、なら帰ってこれそうなら連絡して。美味しいご飯作って待ってるから。これだけは俺イギリスに圧勝だからね」
「あはは」
軽やかに笑った彼女の肩で、綺麗に結われた巻き毛が揺れた。
リボンは綺麗に整えられて、白いベレーに揺れるメイプルリーフのチャームはいつもの通りに可愛らしい。
湖水色の瞳が、フランスを見上げてほにゃりと笑う。
「あの、フランスさん、ありがとうございます」
「ん?何が?昨日の夜のお兄さんの頑張りがかな?」
「もうっ、そ、そうじゃなくって!‥‥その、いろいろです」
フランスのからかいに、頬に薔薇色を散らせて俯いたカナダはぽそぽそと言葉を継いだ。
勿論、フランスも彼女が何を言わんとしているかは、わかっている。
リビングから聞こえるニュース、キッチンに零れる朝陽。
寝坊に慌てる彼女を落ち着かせるのも、美味しい食事を用意するのも、自分に良く似た髪を結ってあげるのも。それはフランスが、彼女を愛しく想っているからだ。
そして彼女がそんな接触を許すのも、フランスのことを、愛しているからだ。
自分たちは、ずっと一緒には居られない。けれど今、確かにここに共に在って、慌しい朝の光景を、二人で過ごす一瞬を。何もかもまとめて愛しく想いあっているからだ。
「‥‥ふふ、カーナダ」
「フランスさん」
恋人達は、笑いあう。
言葉に拠らない愛の語らいは、パニーニの味と互いの匂い。
「‥‥っと、忘れるところだった、髪留め」
「あ、」
唇を触れあわせるだけの軽いくちづけを一頻り楽しんだ後、フランスは白い額に自分似の髪が落ちていることに気がつく。そう、最後に留めてあげようと思っていた髪留めを、すっかりと忘れていた。
フランスは己の髪に仮留めした彼女の髪留めへと手を伸ばす。
クリップ式のそれはパチリと爆ぜる音がして、簡単にフランスの手のひらに落ちてきたのだ、けれど。
「‥‥え?」
「あのっ」
白い、己よりも小さくふっくらとした手が髪留めを握った手首へと掛けられたのに、フランスはぱちぱちと瞬いて目の前の恋人を見た。
見ればカナダ自身も、フランスの手首をおさえた自分に自分で驚いているように湖水色の目を大きくしていたのだが、けれどひとつ息をした彼女は、どこか恥ずかしそうに俯いたあと。
「フランス、さん、その‥‥髪留め、」
「え?ああ、うん、今から挿してあげるよ?」
「そうじゃなくって、いえ、挿してもらうのはいいんですけど‥‥その、」
「?」
するりと、白い指先がフランスの髪に伸ばされる。
フランスが料理をするため適当に結った髪、寝癖に跳ねた髪の毛を、やはり適当におさえるように留めた、髪留めの一つ。
ぱち、ぱちん、と音がして外された其れがカナダの手のひらに収まって、直ぐに柔らかなハニーシュガーの髪に居場所をかえる。
「こっち。‥‥貸しておいて、ください。フランスさんと、ずっと一緒に居る気分になれるから」
フランスが呆気に取られている間に、おっとり屋の筈な恋人は足元に置いていた鞄を素早く取り上げると、ドアを開けるや、身を翻して駆け出した。
はっと気がついたフランスが慌ててポーチの外まで追いかけた時には、既に石畳を駆けていくほっそりとした後姿だけ。
お下げの髪が揺れている。綺麗に結んだリボン、フランス似の、可愛い巻き毛。‥‥否、自分などよりよっぽど可愛く愛しい巻き毛の、愛しい恋人。
フランスはカナダの後姿が見えなくなるまで立ち尽くした後、蹌踉とした足取りで自宅へと戻った。カナダとキスをした玄関を過ぎ、抱き留めた廊下を渡って、髪を結ってあげたキッチンへと。
どさりと身体を投げるように腰掛けた椅子は、先ほどまで己よりずっと軽い身体を受けとめていた椅子だ。
ほんの十数分前、ニュースを聴きながら白い皿に投げ置いたパニーニは、綺麗に姿を消している。
当たり前に、彼女の姿はない。
「もー‥‥、あの子はぁ‥‥」
ため息のように零した意味を成さない言葉は甘いものを含み過ぎていて、フランスはこみ上げる衝動に逆らうことなく、クツクツと笑ったものだ。
キッチンはいよいよ輝きを増した朝陽に満たされている。
リビングから聴こえるのは、ニュースに続いて始まった数年前の古い恋愛ドラマ。
白い皿とカフェボウルは空っぽで、甘い匂いの髪を結ってあげた恋人も、とうに出かけてしまったけれど。
握りこんだ、手のひらの中。
「一緒に居る気分、ねぇ?」
笑いながら呟いて、額に落ちていた前髪を上げるように、ぱちりと髪留めを留めてみる。少しだけ視界が明るくなった。ふんわりと、心が、温かくなった。
彼女と過ごす時間のように。遠く、近く、彼女を感じて刻む日々のように。
窓の外をバスが行き過ぎていく。
さて、もう彼女はバス停に辿り着いただろうか。
石畳をゴトゴトと進むタイヤの音を聞きながら、フランスは窓の外へと派手に投げキッスをした。
‥‥カナダの投げキッスは自分専用だから、悪いけど俺ので彼女の為に停まってあげてね?
ありふれた特別な朝のフラグメント
end.(2010.09.16)
「あー‥‥あの子まぁた面白い位置に髪留めつけてちゃったなぁ、
だからつけてあげるって言ったのに‥‥。大丈夫かな?」
案の定、苦笑した上司になおされました。