パリの石畳を訪う全ては美しい。
甘い吐息のような霧も、蕭々と降り注ぐ雨も、深々と降り積もる雪も、どれもこの麗しの花都を彩る美そのものだ。
‥‥が、ものには限度というものがあるのを、神様にはもうちょっとわかってくれたらいいのに。
フランスはぼんやりと思ったものだ。




今日は、記念日。外は、嵐。




「カナー、こっちおいで」

呼び声は、窓際にクッションを抱きかかえて座る恋人へ。
いつも抱いている白い家族の代わりよろしく大ぶりのクッションをぎゅっと抱き締める姿は、妙にほんわかと愛らしい。
が、そのほんわかな愛らしさとは裏腹に、綺麗な弓なりの眉も可愛い口元もきゅっと引き締められて憂い顔。
視線は、窓の外。
石畳を打ちのめさんばかりに激しく叩きつける雨はそのまま窓にも同様の仕打ち、逆巻く風に煽られて硝子を揺らすそれは滂沱と流れる涙のよう。 それを眺める恋人の頬には涙はもちろんないけれど、いつもふあふあぴょこんと揺れているくせっ毛がどこか萎れているかのようで、フランスは呼び声に応えない姿と合わせて、緩く苦笑してから彼のほうへと爪先を向けた。
両手にはマグカップ。きっと真逆の季節であれば白く濃い吐息があがっていただろうそれは、恋人好みの甘い香りだけは一緒のメイプル入りカフェオレだ。

「カーナダ」
「ひゃっ?!」

可愛い声は呼び声ではなく不意打ちのキスに反応してくれたもの。
クッションを抱き締めていた手で頬を押さえて振り返ってくれたのに、彼お気に入りの笑顔で応じれば、くっと息を呑んで口をつぐむ。
こういうところは昔から変わらないな、とフランスは思う。

「もう、フランスさん」
「だってぇ、カナがお外ばっかみて俺のこと見てくれないから。雨より俺のほうが男前だよ?美しい俺をもっと鑑賞すべきだよ!ほーら好きなだけ見ていいぞぅ!」
「はいはいわかりましたから脱がないで下さい」

マグを持ったままの手でシャツの前合わせに手を掛けるふりをすればクールな合いの手をいれられる。一拍置いてから目を合わせて笑いあう、そこまでが予定調和だ。
‥‥予定外は、窓の外の光景だけで十分だ。

「雨、止みませんね」
「ああ、うん。さっき上司から連絡きたよ、今日の式典、屋外のものの行事は大半中止するって。これは災害本部立ち上げかなぁ‥‥」
「フランスさんはそちらに行かなくてもいいんですか?」
「んー?行こうとして側溝に嵌まって流されて行方不明、とかなるのは美しくないから行かなーい」
「美しい美しくないの問題じゃないでしょう。洒落にならないこと言わないでくださいよ。‥‥ありがとうございます」
「うん」

会話しながら手渡したカフェオレに礼を言われたのに、己も自分のカップへと口をつけながら頷いて返す。
一瞬途切れた会話を縫うように、窓を叩く雨音。

外は、季節外れの大嵐だった。

そもそも欧州圏は気候が安定している地域である。
北米やアジアのような、ハリケーンもサイクロンもタイフーンも台風も存在しない。東欧の東端はともかくとして全般的に地震も少ない。もっとも異常気象の名のとおり、近年で言えば海峡向こうの隣国がすっかり雪ウサギ状態になったり、かと思えば火山灰にケホケホ咳き込んだりもしたのだが、基本的には、落ち着いた気候だ。

とはいえ、大雨や大風は、勿論ある。
未明から荒れ狂う空は、屋外に出るのが危ぶまれるほど。

「雨、止みませんね」
「止まないねぇ」
「せっかく、フランスさんのお誕生日祝いなのに‥‥」
「まあねぇ」

それが折り悪く今日、7月14日だった、というだけのことで。

季節外れの大嵐が建国記念日のパリを直撃した。
言ってみればそれだけのことなのだが、おかげで記念日合わせで予定されていた公式非公式交えた行事の大半は中止の憂き目を見ることとなり、災害対策でフランスの上司は別の意味で大忙しになっている、らしい。
伝聞なのは、フランスはアパルトマンでくれぐれも大人しくしているようにと、電話口から言われたからだ。確かに『フランス』が職場への道々濡れた石畳に足を取られてすっ転び、増水した水路に嵌まって水浸し、なんて洒落にもならないし、なにより今日はフランスを祝う日であるはずなのだ。その本人を駆り出すのはさすがに忍びないと、上司としても気遣ってくれたのだろう。
だから、フランスとしては自宅に居るのは問題ない。
このご時世、ちょっとやそっとの雨で壊れるような家も少なく、窓越しに見たところ、少なくともパリ市内では浸水だの水路の決壊だの洪水と呼ばなければならないほどの雨でもないようだ。
だから、問題ない。自宅で大人しく、やや雨音が煩わしいほかは普段どおりの美しい日々を過ごせばいい。
フランスは、そう思ったものなのだが。

「止まないなぁ‥‥」

メイプル入りのカフェオレに口をつけながらも、チラチラと窓の外を気にする恋人はそうとは思えないらしい。
確かに遠路はるばる大洋を渡ってまでやってきた街で、アパルトマンに閉じ込められっぱなしというのは、つまらない事だろう。
マグカップの縁を、白い恋人の指先が所在無げになぞる。
荘厳で華麗な式典、花と空砲と歓声の飛び交う勇壮なパレード。各国より招待した賓客、煌びやかなセレブリティを迎えてのパーティ。勿論テーブル上には、国内屈指のシェフが手がける世界で最も美味しい料理ばかり。
美味しいものが食べられるよ、花火もパレードも素敵だよ。そんな誘い文句で招待した身としては、若干後ろめたいというか忍びないというか。

「ねぇ、カナごめんね」
「え?」

半分ほど残る己のマグカップを脇に置き、フランスは未だ窓の外に気を取られたままの恋人をやんわりと抱き寄せた。
甘いメイプルシロップの匂いは、コーヒーに入れた其れかはたまた恋人自身の匂いか。
肩を抱いて軽く引き寄せれば、こてんと寄りかかってきた後慌ててマグカップを持ち直すのがとても可愛い。
そう、可愛い可愛い、フランスの恋人。
ちゅ、と額に唇を押し付ければ、うひゃ、とやっぱり可愛いほんわかした声とふわんと薄桃色に染まる頬がたまらない。
堪らないのだが、同時に忍びない。

「ごめんね。今日、せっかく来てくれたのにパレードもパーティも花火もないから、楽しくないよね」

窓を打ちつける雨は未だ止まず、華々しい行事は軒並み中止。エリゼ宮をはじめ各省庁では上司がきっと大わらわだろう。
そんな国民の働きを思えば、パレードもパーティの中止もたいしたことではない。その華やかな席で彼らと杯をあわせることができないのは寂しいが、むしろ災害にも負けず健気に頑張る国民への愛しさがいや増すくらいだ。
けれど、けれど。
そこは『フランス共和国』であると同時、たったひとりの大切な恋人を楽しませようと呼寄せた、恋する男の身としては。

「ごめんね、楽しくないね」
「謝らないで」

尚もつごうとした言葉を切ったのは、おっとりとしているけれどきっぱりとした恋人の言葉と、柔らかくて甘やかな、唇の感触。
腕の中で身じろいだ身体はフランスの膝上に乗り上げるように胸を合わせてきて、ゼロ距離の間隔をさらに縮められた。

「謝っちゃだめです、フランスさん」

顔じゅうにキスを受けながら、甘いカフェオレの入ったマグカップが置かれた音を雨音の合間に捉える。そしてマグカップの縁に代わりに恋人の指先がなぞるのは、フランスの髪であり、うなじであり。
キスの距離で感じる甘い吐息と潤んだ湖水色の瞳は、堪らないほど魅力的。

「カナダ」
「ん‥‥ッ」

雨音に混じる濡れた音に素直に溺れる。
甘いのはメイプル色のカフェオレか、己の恋人の、唇か。
どちらにせよフランスの好物には違いない其れを十二分に堪能してくちづけを終えれば、ふ、と甘い吐息を最後に零したカナダが緩く伏せていた瞼を持ち上げる。
己の其れとは僅かに違う淡くけぶる雨の色の瞳が、美しい。
美しい其れに暫し見惚れていれば、キスに濡れた唇が少し舌ったらずに言葉を紡いだ。

「あやまったら、だめ」
「何故?」

腕の中、くたりと力を抜いて凭れて来つつ三度告げられたその台詞に、フランスは苦笑しながら訊ね返した。‥‥薄々理由は解ってはいるけれど、それでも聴きたいと思うのは、恋人としての、我が侭みたいなものだ。
きっとそれはカナダにも知られていて。
けれど、彼は応えてくれる。

「だって、僕は、フランスさんに会いに来たんですよ?そりゃ、パレードもパーティも楽しみだったけど、貴方に会えたから、別にいい。貴方に会えなかったら、パレードもパーティも意味がないし、そもそもそのどっちも、貴方の為に催されるものなんですよ?‥‥雨を、外を見てたのは、それこそどっちもなくなっちゃって、フランスさんがつまんないかなって、思ったから」
「カナ、」

甘い、フランスだけに贈られる笑顔を添えて。フランスの欲しい言葉を、くれる。




「貴方に会いに来たんです。今の貴方にとって、大切な日を一緒に過ごしたかった。‥‥貴方の傍に居て、誰にも批難も否定もされずに一緒に過ごせることが、ねぇ、僕すごく幸せなんです」




外は嵐。パリを濡らす雨は止まない。
上司や部下達は忙しく立ち働いていて、年に一度の記念日のパレードやパーティを楽しみにしていた愛しい国民達やツーリストは、きっとがっかりしていることだろう。

‥‥ああ、けれど、ごめんね?

「カナダ、カナダ。俺も幸せだよ、すごく」

素直に 腕の中に納まってくれる恋人を抱き締めて、幸せを噛み締める。
よかった、そうほんわり笑って言う恋人と、激しい雨音を聴きながら再び甘いくちづけに溺れる。甘い身体を、堪能する。









雨が叩きつける窓際には、憂い顔の恋人の代わりにマグカップが二つ。
恋人達が寄り添い縺れ合うようにして向かった寝室までは、雨音は追いかけてはこれなかった。







the end.(2010.07.14)

兄ちゃん、勝手にパレード中止してごめん(笑)
私の家が大洪水だったんだ‥‥。浸水寸前でした