時を刻む夜を、見ていた。
時計の秒針が刻む規則的な音が、まるで世界で一番大きな其れとでも言いたげに、夜に沈んだ寝室を揺らめかす。時を、刻む。
夏時間ですっかり日が長くなった、と部屋の主はおっとりとした口調で言うけれど、イギリスにとっては本国のほうがやや緯度が高い為、時間と夜闇の暗さが巧く合致しない。夜に沈んだ寝室は、一体何時なのだろう。‥‥もう、その日は終わったのだろうか。
‥‥その日。その日って、どの日だ?
深い深い森の中、まどろんでいた自分に大陸の手が伸びた日?
世界を覇した帝国に切っ先を向けて、海を血の色に染めた日?
新大陸の領有を巡り、腐れ縁の鼻っ柱を圧し折ってやった日?
愛しい弟とそっくりな子どもを戦利品として、奪い取った日?
それとも、誰よりも愛した弟が、自分に銃口を、向けた日?
「イギリスさん」
ヒュッ、と己の喉が鳴ったのが判った。咳き込む。肺が欲していた酸素を体内で二酸化炭素と交換、けれど炎症を起こしているらしき喉はなかなか言うことを聞いてくれず、柔らかなベッドシーツの中で身体を丸めるようにして、幾度かえづく。これもフラッシュバック、と呼ぶのだろうか。
いけない、せっかく、今日は心づくしの食事を一緒に食べたというのに。
そうだ、おっとりした見た目のわりに結構豪快な、フランス風であり英国風であり、今ではアジアンテイストも混じった多国籍な、けれど、それこそが『彼』なのだと知れる、優しい料理。
イギリスが淹れた食後の紅茶に、甘いメイプルシロップをたっぷり入れて飲んでいた、彼は。
「‥‥カ、ナダ」
「はい」
カナダですよ。と、まるで普段から一緒に居るシロクマとの例の遣り取りめいた回答に、ヒューヒューと喉を鳴らしながらも少しだけ、笑う。
笑って、自分の中に現在の時間を、落とし込む。どの日だって?そんなの馬鹿げた、簡単すぎる質問だった。
「ま、だ。お前の、誕生、日、か?」
「はい」
切れ切れで聞き取り難いだろう言葉にも歯切れよく、けれどおっとりとした優しい声が、返される。
今日は、7月1日。カナダを、イギリスが手放した日。
そうと、知覚できるようになったのは、ずっと後のことだけれど。
思えば自分はなんて駄目な保護者だったことだろう、と。イギリスは改めて、思う。
大英帝国、太陽の沈まぬ国の名をスペインから奪い取り、版図と威光は世界の隅々に及んだ。
たくさんの蒼海を渡った。たくさんの大地を踏んだ。その地に生まれた無垢で柔らかなものを、懐柔し、時に虐げ、奪うと同時に与え、従わなければ徹底的に排除した。
やらなければやられるのだ。だって、自分がそうだったから。荒い潮流と深い霧に囲まれた小さな島国の怯えなんて、肥沃な大地と輝く太陽を生まれながらに持つ大陸の国家達には決して理解出来やしない。
いつだって怯えていた。息も出来ないほどに怖かった。誰も彼も敵だった、晴れやかに笑って頭を撫でてくれたスペインも、甘い菓子を手に抱き上げてくれたフランスも、剣を振りかざす傍ら様々なことを教えてくれた北欧諸国も。気まぐれに手を出して弄んでは飽きたら棄てる連中だった。
好きなだけ搾取されて、棄てられる、なんて。そんなの、嫌だ。
だから戦ったのだ。だから全てを撥ね付け、当時の航海技術では難所となる海峡を利用し、必死で砥いだ刃を彼らへ突きつけ、同時に何かを求めて外海を目指した。海を駆けた海洋国家?そうならざるを得なかった、それだけのことだ。
どれほど詰られようと、どれほど謗られようと。生きたかった。行きたかった。‥‥出会いたかった。誰か、自分を絶対的に必要としてくれる、相手の傍へ、行きたかった。
そうして、自分は出会った。
そうして、自分は、棄てられた。
‥‥棄てられた、けれど。
「イギリスさん、お水飲みましょう? 喉が、」
ゆっくりと、同じシーツに包まって体温を分け合う相手が、喉の痛みに丸めたイギリスの背を撫でる。
もうすっかりと大きな、大人の手は、ひたすらに優しくて、温かい。
‥‥とても小さな、子どもの手だった頃から、彼は優しく、温かだったのだ。
『イギリスさん』
それは、望んだ声ではなかった。
誰よりも望んで、けれどイギリスを棄てた相手によく似た、声。
ただ、寂しがる弟の為にと腐れ縁から奪い取った、戦利品。
いつだって、傍に居てくれた、小さな温みを。イギリスは、忘れた。
あの愛しい弟と、よく似た面差しも。
あの憎らしい弟と、まったく違う柔らかな眼差しも。
そうしなければ耐えられなかった。耐えられずに、忘れて、逃げて、逃げて。‥‥ああ、なんて酷い保護者!
「カナダ、」
静かに、秒針が時を夜に刻み込む。
刻む時は時代を超え、ざくざくと切り刻まれた心さえひたすら静かに、時間を埋め込み。
そうして、自分が様々なことにようやっと向かい合えるようになったとき、知った。
その、小さな子どもが、たったひとり、耐えていたことを。
『一日中、玄関にいるのは昔からですよ?
昔から、一日玄関先にいたんです。贈り物が来ないかなって、日が昇ってから沈むまで、沈んだ後だって、待ってた。贈り物がこないかなって。貴方からの贈り物が、来ないかな、って』
おっとりとした、静かな声で彼は言った。
イギリスが知る子どもらしい舌ったらずな口調ではもうなくなって、静かな、ただ静かな。‥‥奪われ、弄ばれ、様々な大人に棄てられたことを受け入れて佇む、静かな声だった。
カナダは、長い時間と多くの言葉を尽くして、イギリスの手から離れていった。
そこには勿論若干の不満や諍い、齟齬はあったものの、大地を血に染めるような凄惨な闘争はなく、爆発的な熱狂をした宣戦布告や独立宣言がなされたわけでもなく。
静かに、己の立ち位置を時代の中から抱き取るようにしての、独立だった。
一方の自分ときたら。
6月も早いうちから始まる不調、煌く英国の緑さえモノクロームの世界に沈ませたかのように陰鬱に、ただひたすら、『その日』が終わるのを待っていた。
まるで小さな子どもだった頃のように、深い森の代わり厚いシーツに包まり、外界の全てを拒絶して、ひたすらに、7月4日が過ぎるのを、願っていた。
その日さえ終われば何とかなるのだ。
失った夢の時間に囚われるのはその日を合わせても、一ヶ月強。それさえ乗り切れば。それだけ、何も考えずに、蹲っていれば。
蹲り逃げている間に、自分をひたすらに待つ相手が居ることなんて、考えもしないで。
『贈り物は、たくさんもらいました。毎年。貴方の名前で貰いましたから。‥‥ふふ、イギリスさんの秘書の皆さんは本当に頑張ってたなぁって思いますよ。綺麗なもの、高価なもの、たくさん貰ったから』
部下が、母国の名前でカナダに贈り物を贈ってくれていたことを知ったのは、ずっと後になってからだった。
その姿勢を『英国の長女』とまで呼ばれた、従順で忠実であった彼は、大国となった今も連邦という緩やかな枠組みの内に留まってくれている相手で、歴代の部下達にしてみれば一種義務以上の使命感さえ持っていたのかもしれない。まるで性質の悪い呪いに囚われたかのように倒れたり暴れたりを繰り返してばかりの上司を前に。
‥‥本当に、随分と酷いことをしたものだ。部下達にも、カナダにも。
そうだ、酷いことをしてばかりだった。
共に独立をと手を差し伸べる兄弟の手を振り払い、戻っておいでと招く嘗ての父親の言葉を撥ね付けてまで、イギリスの傍に残ってくれた。
欧州情勢の煽りを食らった形で始まった二度目の戦争、己の大地を戦場に据え街を焼き払われ国民の命を奪われ、しかし圧倒的不利な状況にも歯を食いしばって。敵対者‥‥兄弟の、刃に屈しなかった。
そんな彼を、時を超えて双方合意の上での独立を果たして後も、その成長を祝ってやることすらしなかった。忘れて、しまっていた。
いつだって優しかったこどもを。
いつだって、自分へと視線を、心を向けてきていた、彼を。
『でも、本当は、一番待ってたのは、貴方の靴音だけでした。貴方だけを、待っていました』
こんなにも、愛してくれていた、相手を。
「イギリスさん、水、飲んで」
「‥‥ん、」
夜闇の中、しっとりを合わせられた唇から、温い水が滑り込んでくる。
どこか甘ささえ帯びた液体は、揺り戻しのように不良を訴える身体へとしみこんでくるように感じられた。視界を滲ませる夜色に、ただカナダの、恋人の、唇の温度だけが、甘く伝わる。
夜に染まった寝室で肌の熱を分け合ったのは幾らも前じゃない。少し甘い語尾の声も、しっとりと瑞々しい肌も、今ではすっかり自分の中に馴染んでしまっている。
存在すら、忘れてしまっていた。
そんなイギリスを、長い長い時間愛し続けてくれた。
「‥‥ぅん、イギリスさ、んっ」
「なぁ、こっち、」
恋人の口腔に残った水を全て啜り上げるように飲み干して、同時にその奥の柔らかな舌へと己の其れを擦り付ける。まったき裸体のイギリスとは違って彼が薄物の夏夜着をまとっているのは、きっと唐突に正体を失った自分の横で、ずっと起きていたからだ。‥‥ずっと、イギリスを待っていたからだ。
秒針が時を刻む。
時は刻まれ、切り刻まれた心はゆっくりと癒えていく。
今ではイギリスも嘗て愛した弟の誕生日を、その場で過ごせるまでになった。晴れやかに笑って、少しだけ泣いていたアメリカの姿に、変わらない愛しさを感じた。
そんな兄弟の背後で、ひたすらに優しく笑ったカナダに。
イギリスは伝えるべき言葉を、想いを。思い、知った。
「‥‥カナダ、ごめんな」
「謝らないで」
「長い間、ありがとう」
「‥‥うん」
秒針が時を刻む。
今年もカナダの誕生日が終わろうとしている。
朝まだき、夜も明けぬ内にイギリスの腕から抜け出して玄関へと向かう後姿を見た。
陽光零れる昼、家へと続く上り坂をまるで誰かを探すように見遣りながら、宅配屋の届ける各国の贈り物を受け取っていた。
燃え立つ夏の夕暮れ、日の沈んだ丘を遠い目で眺めて、それから玄関を開けて戻る彼を、抱き締めた。
カナダはいつだって待っていた。
イギリスの贈り物を。イギリスが、丘をあがってくる足音を。
待って、くれていた。
「誕生日、おめでとう。‥‥愛してる」
イギリスが、この言葉を言えるようになるのを。
夜に満たされた室内に肌と心を解け合わせる甘い音が広がっていく。
もうすぐ日付は変わり、カナダの誕生日は終わるだろう。そうすればもうアメリカの誕生日は目前だ。今年もいっそ呆れるほどにはしゃいではしゃいで、盛大な祝いを催す兄弟にカナダは笑って付き合い、イギリスは渾身のびっくり箱を手になんでもないような顔をして、遊びに行くのだ。そう、出来るようになった。
不意に訪れる胸の張り裂けそうな雨の記憶も、寄り添う体温に心を癒されて。
「イギリスさん、」
「ん‥‥?」
甘い息を零してしがみついてくる恋人を、見つめる。
今日この日、傍に在れることに感謝を。
そしてこれから先も共に在れるよう努力し、彼に愛情という贈り物を贈り続けられるよう祈りながら、言葉を、贈られる。
「僕、幸せ、です。‥‥大好き」
「‥‥ん。」
長く長く注がれ続けてきた心に染み込む愛に、イギリスは少しだけ泣きながら、カナダを強く強く抱き締める。
それから、夜に溶け出すような湖水色に張った水幕を緩く唇で吸い上げて、誓約の厳かなキスを、贈った。
the end.(2011.07.14)
(待ち続けてくれたお前に、最高のキスと最上の愛を贈ろう)
TOP