「おや」

小さな呟きに、ドイツは半ば覚醒しかけていた微睡みの縁から手招きされるように、穏やかに意識を浮上させた。
遠く降りしきる雨音を聞く。雨など珍しくもない気象現象だが、どこか肌に纏わりつくような慣れない湿度が、この場所が水という水に愛された遠い極東の異国であるのだと告げている。
少し暗い、雨色の朝。
水に潤んだ空気とは裏腹の、さらりとした夏掛の感触が心地よい。
同時に、己の隣りに小さな身体を横たえる恋人の温みも、また。

「‥‥日本、」
「え?‥‥ああ、すみません、起こしてしまいましたね」

ごめんなさい、と少し掠れた囁くように小さな声に、ドイツは返事をする代わりそっと腕を伸べて細い身体を抱きこむ。
自分とは違う淡い色をした肌はきめ細かく少し冷たく、潤んだようにしっとりとした触り心地だ。
これが今のこの国の湿度なのだろうか、と恋人の肌をまさぐりながらなんとなし考えて、‥‥コツリと硬い人の肌以外のもので額をノックされると同時、しのび笑う恋人の声に、己の行為が客観的にみてどういう意味合いを持つものかに思い至り、慌てて腕を解いた。

「えっ、あ、す、すまないっ」
「いいえ、お元気そうでなによりです」

澄ました口調は至極真面目で大人しやかだが、この年上の恋人の意外な茶目っ気と毒舌を既に知る身としては、その言葉に含まれたからかいに気づかない幸せを享受できるわけもなく。少し硬い日本式の枕に瞼を落として顔を埋めながら、もそもそと再度謝罪の言葉を口にした若いドイツである。‥‥肌に心地よい夏蒲団に、朝から要らない汗を吸い取らせてしまった。
閉じた視界の向こうからは遠く雨音、恋人の密やかな笑い声。それに加えて、無機物が立てる硬質な音が、水気を含んで潤む朝の寝間に鮮やかに響いた。そろりと、瞼を再度上げる。
横様の視界に映るのは、骨ばった白い肩だ。
昨夜彼が風呂上りに着込んでいた夜着の単衣を剥いだのは、日付を越える前の自分。女性めいた華奢さはないが、西洋人とは組成から違うのではないかと思わせる淡い色の細い腕と手のひらが、己の身体にそっと這わされ、縋りつくのを堪能したわけだが、‥‥現在その手のひらに収まっているのは己の背中でも腕でもなく。

「‥‥なにか、急な用事でも入ったのか?」

若干非難めいた苦いものが口調に混ざってしまったのは、若者であるということで許してもらいたいと、少しだけ思ったものだ。
日本にしてみればドイツを含む周囲の大半が「若者」に分類されるのかもしれないが、自分はその中でも若い方であるし‥‥なにより、熱を分け合った翌朝の褥の中で、隣りにいる相手ではなく携帯端末を相手にしているというのは、恋人として多少不満に思ったところで誰も責めはしないだろう。
そんな、言外に知らず含ませた感情を読み取ったのだろう、日本はそれまで手のひらに包み込むようにして眺めていたフリップ型の携帯端末を閉じると、それを布団の外へと押しやった。外面のディスプレイが数秒淡い光を点して、静かに朝の色に沈んでいく。ドイツはそれを見るともなしに見たあと視線を返せば、やんわりと笑った恋人の夜色の瞳と、目が合った。

「いいえ、外部と連絡を取っていたわけではないのです。時間をみようとおもっただけで‥‥それと、そういえばと思って、暦を少し」
「こよみ?‥‥ああ、カレンダー、か」

はい、と頷く日本の声は静かで、遠く聴こえる雨音にも似ていた。

日本には雨季があるとドイツが知ったのは、この国と既知に間柄になって暫く、幾度かこの国の季節を跨いだ頃だ。
雨季と言っても自分が考えるような激しい雨を一時に落とすというものではなく。そう、どうやってもこの国らしいとしか表現しようのない、ひたひたと降りこの島国に染み込んでいくような慈雨を、この国は花を冠した名で呼ぶ。

『鬱陶しいものではありますが、春を洗い流し夏を呼び覚ます水の声です』

そういって笑った、季節を呼ぶあらゆるものに美しい名を冠する東洋の島国に惹かれたのは、もう随分と昔の話だ。
艶やかに移り変わる季節を擁し、その中に細やかな季節の区切りを刻む。立夏、入梅、夏至。恋人として共に過ごすうち覚えたいくらかの暦に記された名前を、ドイツは思い出すともなしに思う。

「今日は、何かの日、なのか?」
「ええ、今日は半夏生です」
「はんげ、しょう」

軽い夏用の上掛けを分け合いながらする会話はどこか密やかで、屋外を潤しているのだろう梅雨の空を思わせる。ドイツには発音の難しい恋人の言葉は、どこか古典詩に出てくる、古い古い言葉を聴いているようだ。
しっとりと梅雨の潤みをした恋人の声は、柔らかく艶やか。

「暦の上の区切りの一つですよ。二十四気七十二候の内、夏至の三候」
「‥‥何かの術式の構文か、それは」
「あはは。そうですねぇ、昔はこの日までに田植えを済ませておくとか、農業暦としても重要なものでした。今では稲の改良や田植えの効率化などでさほど意味を成さないものに‥‥ああ、そう、この日は様々な禁忌がありまして」
「禁忌、」

はい、と頷く恋人の柔らかな笑みは、禁忌というどこか裏事めいた言葉にそぐわない様に思えた。けれど当の日本はといえば、それまで起こしていた肩を落とすように頭から布団に埋まり、なんでもないことのように柔らかな口調で、言葉をつむぐ。

「例えば井戸の蓋は閉めよだとか、作物の種は蒔いてはならぬ、とか。そう、食の禁忌もありますね。ああ‥‥昔はもっといろいろありましたが、はて、もう忘れてしまいました」
「それは忘れてもいいことなのか?」
「さて?でもまぁ、今のところ困ったことにはなっていませんよ」
「そういうものなのか」
「そういうものですよ」
「む‥‥」
「貴方は、お若いから。‥‥全て、そうです」

変わらないものなどありません、と。
目を閉じて、呟くように言う恋人の頬を、ドイツはなんとなしに撫でる。
少しひんやりとした頬には夜色の髪がいくらか落ち、それを払うように耳元へと撫で付ければ、くすぐったそうな笑い声が零された。
東洋人特有のどこか幼く見える顔立ちは、けれど自分とは比べ物にならないほどに長い時間を渡ってきたひとの、其れなのだ。

様々な変化を目の当たりにし、様々な誕生と消滅を見つめてきたひと。
降りしきる天の雫を受け、地を駆ける風に吹かれながら、時を渡ってきた。
その傍には、誰が居たのだろうか。
時の権力者だろうか、‥‥彼の愛した、己の知らない、何者か、だろうか。




(変わらないものなどない、なんて)




「‥‥‥‥ドイツさん?」

抱き締めた、腕の中から訝しげな声が響く。
ドイツより確実に低い体温は、けれど抱き締めているうちに次第に己の身体に馴染み、染みてくる。
雨の季節を映して潤んだ肌は心地よく、いとおしい。
‥‥過去にこの肌を知る者が居たとして、それを詮索するほどには野暮ではないけれど。

「‥‥変わらないものも、あると思うぞ」
「ドイツさん」
「たとえば、そう、この梅雨という季節は。この季節は、君がはるか昔から過ぎ越してきた季節だろう?そして、この先も変わらず続く季節だ」
「‥‥まぁ、そういわれるとそうなのですが、」
「それにこの気持ちも、」
「え?」




「君を想う気持ちも、変わらない。ずっと、出会って以来変わらずに君を想って、‥‥この先も続く想いだ」




遠く、雨の音を聴く。
しっとりと潤んだ大気は朝の寝室も隔てなく潤わせて、静かだ。
腕の中の日本は身動ぎもせず、ドイツの言葉を聴いている。腕に、身体に馴染む体温。‥‥変わらずに抱き締めていたい身体と、この想い。
ふ、と腕の中の恋人が息をついた。
そろそろと、白い腕がドイツの締まった脇腹をなぞり、背中を抱いてくる。
水に愛された大地を抱き、遥かな時間を渡りきた腕が、自分へと沿わされていることに、ドイツは妙に堪らない気分に駆られた。

好きだと、思った。‥‥このひとをずっと好きでいるのだと、強く感じた。

「‥‥そうですね。来年も再来年も、梅雨は来るでしょうし、暦を見れば半夏生も載っていることでしょう」
「そうだとも。変わらずに、そこにある。‥‥此処に、居る」

そうですね、と密やかに落とされた声はしっとりと潤み、柔らかだ。
外は夏を呼ぶ雨が降り続いている。
さらりとした夏の褥の内側、彼が忘れてしまった多くの禁忌を持つ今日の始まりを、今暫くは二人で過ごそうと、ドイツは腕の中の恋人を、強く抱き締める。
こうしている日々を、忘れないでいようと思う。









そうして来年の今日もまた、こうして二人、遠く雨の音を聴こう、と。









 半夏雨、恋えば





end.(2009.09.05)

ネタに困ったときの歳時記シリーズ。
半夏生、半夏雨、夏、梅雨、夏掛、単衣など。勿論立夏と夏至もです。
書いてる時期はもう秋だよねなんてツッコミはしないであげて!(笑)