「月に群雲花には嵐、と申しまして」
「意味は?」
「楽しみにはとかく邪魔がつきまとう、という意味ですね」

そういって密やかに笑う館の主人に、ドイツは夜をねめつけていた視線そのままに、振り仰いで彼を見た。夜にとろけるような黒瞳がやんわりとたわめられているのに、やはり無言のまま視線をそらす。
視線の先は、闇夜、深い闇。‥‥否。深い闇にひたひたと沁み込み這い入ってくるような、仄かな光が夜に沈む庭を潤ませている。
夜にあってなお世界を包む光は、重なる雲の向こうから。

「ほう、さすが名月と申しましょうか、雲に隠れても明るいものだ」
「姿は見えんがな」

雲夜空を仰いでいた夜の瞳が、降りてくる。
知らず滲んだ己の声に含まれた不満さにドイツは自分でも驚いて口をつぐんだものだが、日本は何を言うでもなく、そっと腰を下ろす。縁側と呼ばれるバルコニーは内とも外ともつかない微妙な場所で、ドイツが足を下ろす縁石には家主のそれと思しき小さな草履がひっそりと並んでいたが、小柄な和装の主は器用に足を畳み、板間に座した。
ことり、小さな音に伴われて、手元に仄かな温み。

「ドイツさん、温かいお茶をどうぞ。残暑が厳しいとはいえ夜にじっとしていては冷えてしまいますよ」
「む‥‥」

言われて手元を見遣れば、白い碗に澄んだ液体が湛えられている。雲越しの薄明かりでは色の判別がつかないが、仄かな香ばしさを伴う爽やかな匂いは、漸く慣れてきた緑茶のものだ。

「すまない、いただこう」

ひっそりとした視線の相づちに、ドイツは本で習い覚えた作法に則り、ゆっくりと日本茶を啜る。使い慣れた西洋の茶器とは違い、持ち手のない碗は手のひらで包むように支えれば、じんわりと陶器を通して茶の温みが伝わってくる。‥‥なるほど、気がつかなかったが確かに夜風に当たられて冷えていたのかもしれない、とドイツは思った。
咽喉を滑り降りていく温みを感じながら、そろりと隣りを窺う。
佇む姿は濃色の和装のせいもあるのだろうが、普段にも況して闇にとけそうな風情をしている。小柄な姿は幼ささえ感じられるが、物慣れた所作は幾万の夜を、遥かな時間を生きてきたのだと感じさせるに相応しいものだった。




観月会を、と言われた時は、首を傾げたものだ。
月を見る会だという。パーティか何かかと返せば「‥‥似たようなもの、な気もしなくはないですが‥‥」と曖昧に笑っていた日本だが、確かに「パーティ」と呼ぶには微妙な会ではあった。
会場は、日本の自宅。
なるほど上等の客間には季節の果物だという栗や葡萄、また西洋では珍しい柿や梨、甘い林檎などを用いた菓子が美しく並べられている。
部屋の片隅にはやはり季節のものだという花‥‥というか草木が活けられ、庭へ面した回廊を全開放しているせいで今いる縁側に勝るとも劣らぬ具合に、内と外が曖昧になった不可思議で、だが清雅な空間だ。
気候の厳しいドイツでは、こういった無防備とさえ思える大胆な家屋の仕切りはあまり見られないので、なんとも不思議な感覚を覚えたものだ。

「昔は管弦の宴や歌会、句会などを開いていましたから、西洋の方の感覚ではそちらのほうがより『パーティ』らしいかと思いますけれど‥‥。今ではそのようなことは殆どありませんが、古来よりこの時季の月は格別と申しまして、国民の皆さんも、この夜は月を待ち望むのです」
「そうなのか」
「ええ」

頷いてやんわり笑った日本は、己の手元にも持ってきていたらしい碗を手に、ほう、と息をついている。
ドイツはその息づかいを感じながら、再び夜空を見上げた。
見上げた夜空には月はおろか星ひとつ見えない。ほんのりと刷かれた濃淡は時にわだかまり、時に薄くちぎれるように流れていってと、けれど空一面を雲が覆っていることだけはよくわかる空だ。

「ならば、今日の天候にはがっかりしたんじゃないのか?」
「え?‥‥ああ、それは、別に。」
「‥‥?」

事も無げに投げられた日本の言葉は、ドイツには理解し難いものであった。
観月、月を見る。その観点から見れば今夜は全く不向きの天候で、日本の言うとおり国民が楽しみに待っていたというのならば、それはとても残念なことなのではないだろうか。
しかし、日本は何故だかほんのりと笑っているように見える。月は、見えないのに。

「曇れば曇りなりに、それは良いものなのですよ」
「楽しみの、邪魔なのにか?」

月に群雲。楽しみにはとかく邪魔が付きまとう。先ほどそう言ったのは日本で、ならば今空を覆う雲は邪魔者、という解釈が成り立つはずだ。
だがしかし、この小柄な年長者はそうではないという。

「無月、と申します。在るべき月が隠された夜。‥‥けれど、月はありますから。そう、厚い雲のむこう、浩々と座す姿はきっと美しい。人の目の、人の力の及ばぬところにただそっと佇む姿を想像するのは、楽しいことですよ」

日本の視線が空を、そして夜に沈む庭を滑る。

「月に群雲の例えを楽しみにはとかく邪魔がと申しましたが。けれどその邪魔すら本当は、楽しさ、美しさを引き立てるものです。そも、その邪魔と厭われるものもまた揺ぎ無き美しきもの。‥‥ほら」

雲を通して朧に落ちる月光。雲を吸い込んで潤む月光に浸されて、凛々と空気を震わせるのは無数の虫の囁き、それでいて樹が大地から水を吸い上げる音が聴こえそうなほどの静寂。
季節を呼ぶ風が庭を秋に染めていく。
移ろう季節の豊かさ、去り行く季節の儚さ、そして連綿と紡がれる時間の、揺ぎ無さ。

どれほどの時間を渡ってきたのだろうか。
どれほどの秋を過ごして、どれだけの名月を仰いで、ここまで、彼は。

「まぁ、縁側に座って出来る爺の妄想遊びに近いですけどね。‥‥ほら、アメリカさんあたりなら、『なら見える場所を探すんだぞ!』とか言って月が出てる場所を探してTシャツで登山でもしそうじゃないですか」
「‥‥言えてるな」
「あのバイタリティの正体は何なんでしょうねまったく‥‥ハンバーガーですか?ハンバーガーなんですか?爺に肉を食えと!」
「シェイクとドーナツもいるんじゃないのか?」
「勘弁してくださいよ、もう‥‥」

言って肩をすくめて見せる日本に、ドイツは笑う。
わざと笑いを誘う軽口はそれでもこの年長者らしくどこか暢々とした緩やかさで、秋の夜に相応しい気がした。

「月の無い月見、か」

ひそりと、呟く。
見上げた空はやはり雲に覆われて、炯炯と輝く月はない。
けれど時折、雲越しにほんのりと月の位置がわかることがある。
ほんのりと明るみ、けれど姿を見せず。そこに居るのは判るのに、決してその姿を見せてはくれず。‥‥ああ、それは、まるで。




(濃色の装束を身にまとい、闇に蕩けるような黒瞳と、密やかな声で、ひとを惹きつける、彼の、ような。)




「‥‥そうだな、月に焦がれるのも、良いかもしれない」
「ふふ、たまにはこういった爺の趣味も善いものでしょう?」

笑う日本に微笑み返せば、ちょうど飲みきった碗をするりと取り上げられ、己の其れと重ねた日本がするりと立ち上がった。

「さぁさ、何か召し上がりませんか?秋は食べ物の美味しい季節ですからね、観月に託けて酒や御馳走を食べ、おしゃべりをするのも楽しいのですよ。これぞ我が国の、秋の夜長の過ごし方です」
「なるほど。それならば確かにパーティと言えなくもないな」
「はは、来年はイタリアくんやロマーノくんも誘ってみましょうか。パーティらしくなりますよね。‥‥最近我が国の皆さんはイタリア料理が大好きですからねぇ、美味しいごはん‥‥」

何事か呟きながら座敷へと向かった日本は、さすが食べ物のこととなると人が変わると言われるだけあるというか、どうやら真剣に来年の観月会(に、託けたお持ち寄りイタリア料理)について考え込んでいるらしい。
ほんの少し前まで、無月をしめやかに楽しんでいた年長者とは思えない他愛の無い姿に、ドイツは思わず笑いたくなった。

「ねぇドイツさん、せっかくですからフランスさんやトルコさんも呼んではどうでしょうか?あっ、スペインさんもいいですね」
「パエリヤか‥‥」
「千葉の浦安で食べるチュロスは何故あのように美味しいのでしょう」

友好関係にある超大国でも縁の深い欧州の島国でもなく、世界に名立たる美食国家を挙げるあたり、なんというか、徹底している。

面白い相手だ。興味が尽きない。
その小柄な身体の中に何を秘めているのか、優しげな言葉の後ろに何を思っているのかを、想像する。

「雲の向こうの月は、美しいだろうな」




‥‥ああ、その秘められた心は、どんなにか。




「時に、ドイツさん。例えに女心と秋の空、と申しまして」
「意味は?」
「移ろいやすいものの例えですよ。‥‥ほら、」

指し示された空には、息を呑むほどあでやかな名月。









いつかこの名月の如き彼の心を、とらえることが出来たなら。









  無月夢想










the end.(2010.09.23)

歳時記シリーズ。秋の季語でも名月関連を
名月や 池をめぐりて 夜もすがら(松尾芭蕉)
杯中に 無月のこゝろ 閑かなり(京極杜藻)