頬を撫ぜる風、震える指先。
‥‥気持ちの良い場所に、居たいだけ。









「‥‥えっと‥‥、何をしてる、んだ?」
「涼んでるんです」

躊躇いがちの問いかけに、答える言葉は一言のみ。

常よりずっと低位置にある視界。年経た杉の醸す暗い鼈甲色をした廊下は、木目も艶やかに美しい。額をつけた壁の漆喰はひんやりとして、地続きに聞こえる微かな蝉時雨がまるで本物の時雨のように思えた。

さやと、頬を撫ぜる大気。なんて気持ちの良い。

玄関から屋敷奥に位置する台所へ、家のほぼ中央を縦断する廊下にて。うっすら開けた視界の端に夏色のスラックスの裾を捉える。足先から伸びる、少し濃い飴色の影。‥‥向うに、光。ふわりと、風。気持ちいい。

「‥‥玄関、」
「あ、ああ、開いてたから、奥か庭にでも、居るのかと‥‥」

‥‥だから勝手に上がらせてもらった、とでも本来は続くのだろうが、それは彼の喉に納められたまま結局音を為すことはなかった。

知り合ってから世紀を跨いで最早久しく、互いの立ち位置を目まぐるしく変えながら過ごし来た日々も、落ち着きを取り戻し。
なんとなしのこの距離を、どう表現すべきかも、曖昧に。‥‥時折訪ねてくる彼を、適当に、それでも普段はもう少しまともに迎えていたのだが。

もとより隠喩や比喩が大好きでそれほど物事をはきと話すタイプでも、ついでに素直でもない彼が(故に外交時には二枚舌とも三枚舌とも言われる)いつもに輪をかけて曖昧で戸惑いがちな口調は、‥‥まぁ、全面的に私のせいだろう。

自分とて、仮に彼があの瀟洒な薔薇屋敷の廊下にぼんやり蹲っていたとしたら、戸惑うに決まっている。‥‥けれども、しかし。

「風の‥‥」
「え?」
「風の、通り道なんです。此処が。玄関から、台所に抜ける‥‥夏でも涼しくて‥‥さすがに、今日は‥‥」

そこまで口にしたところで次に発するべき単語に嫌気がさし、口を噤んだ。‥‥ああ、口にするのも億劫だ。
幸いにして目の前にいる彼は、彼の弟のような空気読めなさっぷりを発揮するでもなく、正確に意を酌んでくれた。

「ああ、暑いからか」
「‥‥その単語を聞かせないでください」

‥‥酌んではくれたものの言葉にはされてしまって、殆どため息のような声で抗議をしたものだ。




うちの夏は、暑い。本気で、暑い。
高気温且つ高湿度。昔から暑かったが、ここ100年ほど、とりわけ暑く感じる。
これは昨今の環境問題のあおりか、或いは自分が年をとったからか。

(或いは、そう、湿度の低い彼の地での日々を、‥‥)

別に、夏は嫌いではない。

降り注ぐような蝉時雨、翡翠の緑陰、夜空に綾なす大花火。
どれも美しく、いとおしく。美しく過ぎ行く季節をじっと感じているし、感じていたい。そう、嫌いではない。
‥‥だがしかし、「嫌いではない」と「暑いのは平気」は決して等号では結ばれないのも、事実。




「‥‥ですから、少しでも涼しいところに居たいんです」
「それで、此処なのか?」
「ええ。‥‥他にも、裏手の蔵の横にある井戸の傍とか、始終木陰にある濡れ縁とかもありますが」

此処が一番、気持ち好いのです。そう答えた。

玄関から吹き込む風が、彼のスラックスの裾を揺らしている。
彼の足越し、その少し遠く向うに見える玄関はあたかも光の世界に抜ける針穴で、辺りを一層暗く沈ませているように思えた。
鼈甲色の廊下に、淡色のソックス。形良い足先から続くのは、淡く濃い、飴色の影。

その影が、不意に範囲を広げる。

「‥‥何でイギリスさんまで座るんですか」
「だって涼しいんだろ」

大真面目に返されて、咄嗟に言葉が継げなかった。代わりに、視界に入ってきた彼の瞳へ、目を遣った。
彼の地の深緑をそのまま宿したかのような美しい、緑の瞳。不意に、思い出す。




‥‥彼の庭で、彼の屋敷で、彼の、傍で。
吹き渡る風を感じていた嘗ての日々。そう、あの日々は確かに、‥‥




「‥‥確かに、気持ちいいな」
「‥‥‥‥そうでしょう」

少し間を置いて、廊下に座って。
さやさやと、頬を撫ぜては吹き過ぎる大気を、二人で受け取った。
此処は、本当に気持ちのよい場所だ。

かれこれ一世紀前になる、あの日々感じた風と較べて、どちらが気持ちよいのかは、判らないけれど。




「イギリスさん、」




貴方と一緒に居る場所だから、尚気持ちが良いのだと。




今更のように告げたなら、このひとは何と言うのだろう。




「      」









微かに震えて伸ばされた、握りこまれた手のひらは熱かったけれど。
彼の熱と、頬を撫ぜる風に、目も眩みそうな気持ちよさを感じていた。









title/片蔭
終(07./2008)

一度袂を分かったひとと、時を経てもう一度
あの時言葉に出来なかった、今一度寄り添えるならば
『無言集』から現代へ。タイトルは夏の季語、真夏の太陽が落とす蔭。