頬を撫でられた気がして、顔を上げた。

勿論、そこに何があるわけでもないことは解っている。
もとより一人身の住まい、今此処に意識を持って座すのは、己のみだ。
けれど確かに頬は撫でられていて、その正体に日本は微かに口の端を引き上げて、笑った。
ふくり、と障子紙が夜風をはらんで静かに呼吸する。
書院造の飾り棚へと光を入れるように配した飾り障子、その向こうには引き上げ式の隠し硝子戸を、今は入れている。昼の間に風を通そうと開けて、どうやら其れを閉め忘れていたようだ。

木と紙で出来た建物。そう、海向こうからやって来た史家達が記したのははるか昔。否、日本自身からすればほんの僅か前に過ぎないのだが、けれども世間は「ほんの僅か」の間に激変したものだ。
日本個人としては、慣れ親しんだ屋敷を全く一から建て直すのは面倒でもあり、戦争だ地震だ台風だとところどころを破損するたび適度に手を入れて、或いは壊れるに任せて家屋自体を小型軽量化していって今日までやってきたわけだが、‥‥思えば昔は風の入るままにしていた障子に硝子を入れるなど、それなりに近代化していたのだな、と妙な具合の感慨を覚える。

空気が震える。彼の頬を、撫ぜるように。

それは夜の気配を纏い、確かにひやりとしてはいるのだが、降りしきる風花も美しかった数週前までの皮膚を斬りつけるような冴えた硬さは、ない。
きちんと目を覚ましていれば何かを羽織るほどのこともない、余寒というには些か潤みがちの甘い冷たさは、まさしく春寒といったところか。

「こんな夜には、やはり此れですねぇ」

我ながら緩み過ぎの声だと自覚しつつも、日本は若干浮かれた軽やかな仕草で『此れ』を引き寄せたものだ。
美しい塗りの盆に、もう既に誰に貰ったのかも忘れた楽焼の徳利と杯。冷のままか燗か迷った挙句、火鉢の傍に置いて温めるという優柔不断すぎる選択をしたそれは、鶴首に触れた指先に馴染む温みだ。
ふるり徳利を揺すれば、とぷりと甘い、神の水。まったく酒好きには堪らない響きである。
徳利と揃いの杯に甘露を注ぎ、一口、二口。
口に含めば舌を冷やす夜のような冷気、喉にしくりと染みる、痛みにも似た快楽。五臓六腑に染み渡るとはよくも言ったもので、喉を焼き胃へと落ちた其れはじんわりと日本の身体を内側から温めた。

春寒の、独り酒。

‥‥否。

「‥‥‥‥‥‥なに、ひとりでいいモン、飲んでんだよ」
「おや、起こしてしまいましたか」

申し訳ありません、謝る声は実のところ欠片も謝罪の色が含まれていなかったのだが、けれど其れを寄越された相手もまた、欠片も気にしはしなかった。もっとも単純に、覚醒しきっていないせいだったのかもしれない。
眠気に掠れた、甘い声。
膝上にかけられていた温みと重みが消失する。細い身体を覆っていた綿入れが身を起こしたのに合わせて緩く金色の襟足を擽って後、畳へと落ちた。
くは、とまるで猫の仔めいた欠伸をついた翠緑の瞳にはうっすらと水の膜。

「よくお眠りのようでしたから、起こすのも忍びなくて」
「ああ‥‥いや、悪い、せっかく来たのに寝ちまって」
「いえ」

謝られることではないと、日本は緩く微笑んで首を振った。‥‥建前でもなんでもなく真実そのとおりなのでいっそ素っ気無くなったのがよくなかったのか、翠緑の瞳が微かに眇められた。ちゃんと、起こせよ。ほんの少しの不機嫌、けれどそれは怒気からくるものではないことは、解っている。付き合いのなかで、既に。

「で、何だ?サケ?」
「ああ、ええ。寒造りの新酒は季節感がありますし蔵から貰う生酒も好いものですが、やはり清酒はね‥‥ああこれは昨年の秋に呑切りの大吟醸で品評会でもなかなかの評価を」
「お前も意外に酒好きだよな‥‥」

意外にものを包んで話すイギリスには珍しい、ストレートに呆れの出た声に、この人にだけは言われたくないですねぇと思いつつも何も言わずに杯を舐める。‥‥身体に馴染むこの味を堂々賞味できるならこの際どういわれてもいい。

「俺にも」
「はい、はい。杯をお出ししましょうか」
「いや、それでいい」

黒楽の端を、色素の薄い唇が食むのを見る。
森の色を映したような翠と其れを縁取る金、白い肌。目の縁には、未だ眠気に残った涙が飾りのように残っていて。
杯ごと掴まれた、手が熱い。

静けさに、ふく、と障子がまた呼吸する音を聴く。

「‥‥なんつーか、微妙な温度だな」
「冷にしようか温燗にしようか迷ったので」
「お前はそんなところまで曖昧なのか」

はっきりと呆れた口調に、けれど日本は薄く笑うに留めた。

この曖昧さが、好いのだ。
舌を冷やすとろみ、胃の腑を焼く激しさ。
寒さの中にたゆたう密やかな春の温み、静けさの中に響く、無音という音。
全であり無、どちらでもあり、どちらでもない。

‥‥ああ、けれど。

「曖昧でない部分も、ありますよ?」
「ふぅん?」
「そう、欲しい熱も」
「‥‥例えば?」
「お解りのくせに」

つながれたままだった指先から絡め取られるように取り上げられた杯は、思いのほか優しく盆へと戻された。気に入りのものなのでその気遣いが素直に嬉しかったのだが、けれど礼をいう暇はない。

芳しい酒の匂いは、果たしてどちらの唇から移ったものか。

「‥‥寒いか?」

は、とついた息さえも残らず食らうように唇を吸われ震えた身体に、甘く熱い声で、囁かれる。
障子越しの春の夜から忍び込む冷気は、確かに今も室内をゆっくりとかき回し、日本の頬を、暴かれていく肩や膝を撫ぜはしたのだけれど。

いいえ、と言う代わりに己を抱きこみ温めてくれる恋人の背へと手を伸べれば、熱と欲に潤んで美しい緑の瞳がとろりとほどけて、熱い指先で頬を撫ぜられる。
日本、と熱を含んだ呼び声が、春寒に呼吸する障子の其れをかき消して響く。
閉め忘れた隠し硝子戸はそのままに、恋人のくれる優しく激しい熱を拠り所として、日本はそっと、瞼を下ろした。









甘く触れ合う恋人達の横、徳利の中で熱を落としていく酒は、触れ合いの後の火照った身体を適度に冷ましてくれるだろう。









  千金の夜より





the end.(2009.06.16)

「春さむや 庵にとゝのふ 酒五合」
西島麦南の句より主題をもらいました。酒はいい‥‥
季語は「春寒」ですが見てのとおりタイトルは「春の宵」から貰った季題とかどうなってんだ(笑)
英日リクを貰ってるので、その手慣らしです