無理言ってごめんな、そう言った彼に、曖昧な笑みを返したのは、夏の前の話。









頬を掠めたぬるい感覚に、日本は手元へと落としていた視線を上げた。

凍てつく欠片が降る季節であれば、とうに陽は西へと帰り、闇に沈む庭では葉を落とした木々が春を夢見て眠る時分である。しかしながらそのような光景が彼の目に映るには、あと6ヶ月ほど必要だ。
未だ夕刻の薄紅に萌える緑の輪郭を滲ませてまどろむ庭先、張り出した縁側に吊るした風鈴がりぃんとひとつ、僅かばかりの暑気払い。
最も風が落ちる夕凪の時間を過ぎ、ぬるく水気を含んだ夏の夜風が滲む庭からゆるゆると吹き込んでくるのに、日本は浅く息をついてからキーボードに指先を滑らせ、手早くファイルの保存やソフトの終了作業を進めていく。通信用のLANカードを押し込んで、0と1で構成された暗号化した情報群を端から上司の端末へと転送していった。
嘗ては硯に筆にと、淡い青墨の香りも奥ゆかしく文箱に収めていたはずの仕事道具は、今では微かな淡い光を瞬かせながら緩い駆動音を響かせる電子の箱に取って代わられてしまった。どちらがより処理能力が高く優れているか と問われれば考えるべくも無いのだが、けれど時折無性に沈んだ墨香が懐かしくなるのは、仕方がないものなのかもしれない。
‥‥なにせこの、データを好きなだけ転送できる文明の利器がなければ、今日の仕事は無かったのだから。

「‥‥終わったのか?」
「ああ、まぁ、とりあえず今日のところは、といったところで」
「あー‥‥」

これでもかと事を濁しきった言い方には、それだけで仕事の未終了を察したなんともつかない声が返されて。けれど光を落としたディスプレイに一応の終業を見てとったのだろう、それまで縁側にくたりと伸べられていた細い身体が、まるで夏の潤んだ大気に滲んだようにゆるゆると起こされ、日本の傍らへと移動してきた。
歩みに合わせて揺れた短めの金髪と森の緑をした瞳がこの国にはない爽やかな大気を思わせて、日本は軽度の疲労にぼんやりとした意識の縁で、微かな笑みを口元に刷いた。
不意の笑みを不審に思ったのか、敷居を跨ぎ、襖を取り払った夏屋敷へといっそ緩慢な動きで身体を移動させていた男が、森色の瞳を微かに眇めて日本を見遣る。

「‥‥何だよ」
「いえ。‥‥イギリスさんはなんだか涼しげな色合いだなぁと思いまして」
「色?」
「目とか、髪とか。淡くて、涼しげです」
「あー‥‥」

茫洋とした声は相づちともなんともつかないぼやけたもので、それがまた涼しげな色合いとの落差を思わせて日本は面白く感じたのだが、これ以上つつけば気を悪くするだろうとそっと目を伏せた。自身が疲れていたのもある。

そして自分が仕事疲れに参っているのに対し、涼しげな色合いとは裏腹に、相当この国の夏の暑気に参っているのだ、この恋人は。

「何か冷たいものでもお持ちしましょうか?」
「いや、お前仕事終わったばっかだろ、少し休めよ‥‥」

とさ、と妙に軽い音で傍らへと腰を下ろし、ゆるゆると首を振りながら気遣ってくれたイギリスへ、日本は台所へと立つ代わりに傍に置いていた竹団扇で緩くあおいでやることにした。
夏の夜はじっとりと潤んで燃え、掻き混ぜる空気は大して涼しくもなかろう。けれどはたりはたりと扇がれる先で瞼を閉じて風を受けているイギリスは、どこか気位の高い猫が気まぐれに憩っているような風情で、日本はやんわりとした笑みを口元に乗せた。
‥‥何をしても様になる人というのは本当にいるのだと、思えばこの人と知り合い初めて実感したのだったか。
仕事に疲れた頭で埒もないことを考えながら、日本はせめてもの涼を今日一日ほっぽり出してしまった恋人へと、運んだものだ。




数日前にこの家を訪ねてきたイギリスは、特に何をするでもなく日本の屋敷に滞在していた。

『休みの間、お前の家に居てもいいか?』
『それは、構いませんが。ただ、あまりお構いすることはできませんよ?』

それでいいから、無理言ってごめんな、と。
そう言った彼に頷いたのは夏が始まる前のこと。つまり、今この時分に此方に滞在するというのは予め打ち合わせ済みであったことで、それ自体は特に問題ではない。ただ、イギリスは正規の夏休暇らしいが、日本ではそんな風な欧州でいうところのバカンスに相当する長い休暇自体が存在しないので、彼が滞在している間も家主である日本は彼を放ってあれやこれやと忙しく働いていた。
碌に相手も出来ない有様に心苦しいと謝りかけた日本であったが、ならば仕事に忙しい恋人の家にのこのこと押しかけた俺のほうこそ謝らなければならない、と先手を打って謝罪を封じられて以来、そのことについては双方言及していない。
屋敷で好きに過ごすイギリスに見送られて、毎朝仕事へと出かける日本。
もてなしも出来ない心苦しさを感じつつ、‥‥日常にない見送りで迎えに少しだけ心嬉しくもあったのは、秘密として。

とはいえ忙しい最中にも休みというものはあるもの。
正規の休みに祝日を都合して作った短い連休を日本は、‥‥そしておそらくイギリスも。心待ちにして迎えたわけだが。

「なんつーか、お前んちは本当に勤勉だよなぁ」
「‥‥単に、やり繰りが上手くないだけですよ、もう‥‥」

はたはたと風を受けながらのイギリスの言葉に、日本は思わず愚痴めいた言葉を零す。

二人しておっとりと起き出した朝の時間、今日は何をしようかと夏布団の中で緩やかに睦みあっていた恋人達の傍らで鳴り響いたのは、音色だけは上品な携帯電話の、無粋すぎる呼び出し音。
布団に沈んで事の次第を見守る恋人にさすがにいたたまれず、粘りに粘った交渉の末データを自宅へ転送して貰うことで在宅での作業のみにまで仕事を削ったわけだが、なんと言おうと仕事は仕事である。恋人らしい、或いは休暇に相応しい過ごし方は出来るはずもなく。忙しなくキーボードを叩く日本の傍ら、イギリスはぼんやりと夏虫がさんざめく庭を眺めたり、合歓の樹や夏椿へまるで話しかけているように何事かを呟きつつ樹肌を撫でてみたり、四足の小さな同居犬と共に縁側に身体を伸べて転寝をしたりと、昨日までとさしてかわらぬ一人の休暇めいた一日を、過ごしたわけで。

「あの、イギリスさん、」
「駄目だ。‥‥謝るなよ、お前がバカンスシーズンでないことは承知で俺が押しかけてんだから」

はたはたと日本の送るぬるい風を受けながら、彼の弟とは違う察しの良さで日本の次の句を封じた恋人に、日本はまさに口にしかけた謝罪の文言を飲み込んだ。
イギリスは目を閉じたままだ。
普段何よりも雄弁な強い瞳が見えないことに、惜しいような救われたような複雑な気分に駆られつつ、日本は暑さにうっすらと紅潮した端整な顔を見つめる。
少しだけふっくらした頬、白い顎先から滴り落ちる汗は団扇の風に煽られるでもなく、ぱたりと畳の上に落ちた。
薄い汗の匂いと、暑気に普段より強く感じる藺草の匂いに夏の暑さと湿度を感じ取り、慣れない気候に彼が疲れているだろうことを感じて、酷く申し訳ない気分に駆られる。

‥‥バカンスというからには、疲れが取れる過ごし方をさせてあげるべきなのに。

「ええと、その。‥‥この時期の我が家は普段からこの調子でして。というか、今年はとりわけ暑く‥‥申し訳ありません」
「だから謝るなって。ってか、それこそお前のせいじゃないだろ」
「少し北へ行けばまた違うのですが、避暑には向かない地柄で、本当に‥‥」
「俺にはお前が傍にいるってだけで、十分にバカンスになってる」

さらりと告げられた言葉に、団扇を動かす手が一瞬震えた。
気の利いた返事が出来る自信がなかった日本は口を噤む。

湿度の高い異国の暑気に本格的に参っているらしいイギリスは目を閉じたまま、涼やかな見ためとは裏腹にどこか仄かに潤んだ声で言葉をつむいだ。
彼の祖国の其れに近い穏やかな季節であるとか、或いは張り詰めた仕事の席での其れとは全く違う、まるで夏の潤みを取り込んだような、優しい水気を含んだ声音だ。

そして、恋人としての甘さと気遣いをたっぷりと含んだ、言葉だ。

「お前が傍にいればそれで俺には何にも勝る充実した休暇だ。だから、謝るな」
「‥‥はい」
「‥‥‥‥それに、今日の仕事、終わったんだろ?」
「え?ええ、それは一応‥‥、ん」

はたり、と。
手の内から滑り落ちた団扇の代わり、熱い指先が日本の其れを握りこむ。
重ねられた唇はほんの少しだけ塩みを帯びた、夏の味をしていた。

「‥‥、ふ、」
「日本、」

ゆっくりと離された唇に、透明な水橋が架かって、落ちる。
其れを追うように顎先を舐められて、ふるりと震えた身体を抱き締められた。
日本の夏の熱を取り込んだ恋人の身体は、熱く。

「無理を言ってお前んちに来たんだ。謝るとしたら俺のほうだし、明日だって仕事、あるかもしれないの、解ってんだけど、」

そしてその声はそれ以上に、熱く、‥‥甘く。









「明日の朝までは。‥‥俺に付き合って、甘いバカンスを過ごしてくれ」
「‥‥はい」









ゆるゆると、縁側から這いのぼってくる夏の夜風は熱を帯びて潤んでいる。
長いバカンスを取る風習も無く、避暑にはまったく向かない地柄だが、けれど。

無理言ってごめん、と囁きながら着物の前あわせを肌蹴てくる恋人に、謝らないでください、と返した言葉と伸ばした腕は、甘く潤んで。
ぬるい夜風に揺られた暑気払いの風鈴が、一夜ぶんの甘い休暇の始まりを告げるように、りぃんとひとつ、綺麗に鳴いた。









夏の前、無理言ってごめんなとそう言った恋人に。
無理を押してでも私のところに来てください、来て欲しかったのですと言いかけたのは、これもまた、秘密だ。









  夏凛、一夜





the end.(2009.07.18)

(ねぇ、誰かとバカンスになんて行かないで。‥‥無理、我が侭というならば、それは私の方こそなのです。)


‥‥うーん、英日はどうしても本番一歩手前で話が纏まってしまう^^
因みに前日は致してないのでした、一緒には寝たけれど。
仕事に疲れたおじいちゃんにイギ様が気を使いました。
だから今日は最初からヤル気でした(笑)