彼は意外に酒好きだ。

「ま、一献」

普段の楚々とした仕草とは違う手を伸ばしての片手での酌は、それはそれで妙な色気があるな、とイギリスは思う。
ほとりほとりと柔らかな音をたてて鶴首の器から滴り落とされるのは、濃厚な大地の気配をした芳しき神の水。自身の宗教観から鑑みればそんな異称は随分な大言だと思わなくもないが、それが異文化なのだろう。そもそも「神」の解釈が違う。この国は宗教色が少ないと皆が言いつつ、一方であらゆるところに「カミ」を感じている。あいも変わらず不思議国家だ。
手のひらに納まるサイズの杯は銀を帯びた艶めかしい黒で、厚みのある器の肌がしっとりと手のひらに馴染む。
足を崩して座る差し向かいの客人へと酌を終えた館の主は、手元の杯にも同様に気だるい仕草で酒を注ぐと、杯を合わせるでもなく一息でそれを空けた。

「‥‥ああ、いい夜です」

語尾を息に溶かし込むような声がやんわりと酒の潤みを保って濡れた唇から零れ、少し丸めた上体を傍らの硝子戸に持たせかけるようにしての片胡坐に抱えた膝の皿を、杯を支えた指で遊ぶように撫ぜている。肌蹴た裾のあわせから覗く肌は、彼の向こうに広がる硝子越しの夜色を吸い込んだように、曖昧な色だ。
濡れた唇がうっすらと引き上げられ、ほろほろほろりと言葉が零れ落ちる。

「やはりこの時季のものは、若々しくて美味いですねぇ」
「時節のものなのか?」
「そうですね、仕込みは、寒い時期が最盛期ですから。今では温度管理も全てデジタル制御できるようになりましたが、やはりこの時季は昔ながらの製法の初仕込みがね‥‥こう、生のままを味わえるといいますか‥‥」
「ああ、初物ってのは確かにいいよな」
「おやおや、貴方が『初物』なんて言うと妙にいやらしく聞こえますねぇ」
「馬鹿。からかうな」

自身の与太に肩を震わせ笑う姿は、なるほど普段にない姿だ。
飲み始めてそれほど時間も経ってはいないのだが、既に結構に酔いが回っているらしい。それでもイギリスの杯が空いたのに目敏く気づいては普段より若干ぞんざいだが手ずから酌をしてくれる辺りは、果たして彼の骨まで染みた気遣いの精神か。‥‥はたまたイギリスが彼の恋人で、あるからか。

そう、イギリスの恋人は、えらく酒好きだ。

さほど強いわけではないのは既に知っている。下戸の遺伝子を端から持たない自分には理解できないところだが、人種的にそうなのだから仕方がないと彼は笑う。自分たちは地に住まうもの全ての集約だから。
しかし、「弱い」が即ち「嫌い」にならないあたりが、なんというか、面白いものだ。
この極東の島国に育まれた醸造酒は、えらくクセになる。
一度見学させてもらった杜氏蔵で見た、磨きぬかれた米と麹がふつりふつりと息を零し言葉を交わすように艶やかに変貌していく様は、妙になまめかしく惹かれるものがあった。

「杯が空いていますね、イギリスさん、おひとつ」
「いや、俺はもう十分だ」

常にない、ほどけた笑みで向けられた銚子の口を丁重に辞退すると、そうですか、とあっさり言った日本は代わりに己の杯へと甘露を注ぎ、美味そうに干した。
それから、息をまたひとつ。

「今回の取引も、どうにか無事に済み重畳。ようやっと、ですけれど」
「ああ、まぁ今回はアメリカがうまく引いたからな」
「根回しの甲斐もあったというものです。官僚の皆さんに特別手当でもだしましょうかねぇ」
「あれか、『オセイボ』とかいうヤツか?」
「はは、お歳暮は年末限定ですよ」

惜しい間違いでした、と妙に楽しげに日本は呟きながら、尚も気だるげな手酌で杯を傾けている。先ほどのように一息で煽るのではなしに、唇を濡らすように杯に口をつけては、いかにも至福といった、深い息をついていた。

「ああ、美味いですねぇ‥‥。幸せです」

呟き落とされる声は、曖昧を好む人にしては酷くストレートだ。
もしも彼が猫だったなら喉のひとつも鳴らしているだろうなどと、益体もないことを思う。
イギリスは空の酒杯を手のひらでもてあそびつつ、幸せそうに酒を楽しむ日本を見つめていた。

酒席というにはささやか過ぎる夜を共有するに至った理由は至極単純なことだ。
ここに居る二人に共通の最大の同盟国たる若者との共同計画の取りまとめが本日完了した、その祝宴。
たった一文で済んでしまう理由はだがしかし、非常に細かなすり合わせを必要とした案件でもあった。同盟国とはいえ世界に影響力をそれぞれの立場から保持している三ヶ国全ての意見を組み上げて落としどころに落とすのは、実際問題、非常に難航した。そもそもが当初の予定では数年単位で前にとりまとめを終えていなければならない案件だった辺りに、その片鱗を垣間見ることが出来るだろう。
渋い顔をした若者に笑みと握手を振舞って別れ、連れ立って議場を後にした年長者達の目配せ、向かう足先を同じくして。冬の冷気を硝子越しに感じる日本邸の中庭沿いの板間に各々だらしなく座り込み、ただ杯を重ねるだけの時間。
銚子を数本、杯を二枚。肴はといえば仕事の気だるい達成感と互いのみという酒宴の始まりを見守った暮れの水紅はとうに溶け消え、寝待ちの月もはや中空に。

「少々骨でしたが、アメリカさんも納得してくださいましたし」
「履行日を無理やりにでも決めたのは良かったな、あれでアイツは言い訳が巧いが、今回ばかりは逃げられる心配もないだろう」
「逃がすものですか、この私が」

く、と喉奥で低く笑った日本に、イギリスも口の端を引き上げて笑う。
属州、母親、愛人。散々な言われ方さえする自分達があの若者に甘すぎるほどに甘いのは世界中の国が知ることだが、甘いばかりで国など成り立つわけもない。
今でこそ老大国と揶揄されるものの、生き馬の目を抜く西欧世界で大国として長い間名を馳せ国体を保ってきた英国。
西側の歴史に姿を現した時期こそこの一世紀と時浅く、未だ拙い交渉術に外交面からすれば幼いと言っても過言ではないのだが、己の歴史を一文明とまで呼ばれるだけの時間と独自の眼差しを持つ日本。
‥‥正面からでは敵わぬ相手への攻め方など、幾通りでも思いつけるのだ、自分達は。

「彼は、我が国には不可欠な方ですから」

必要なものは手に入れるまで、と。
言い切る声は、いつだって優しく万人受けする曖昧な発言ばかりの彼のものとは思えないほどに、隠微で老獪なもの。
笑みとも吐息ともつかないものを零した日本は酒盃を舐めながら、上体をもたせかけていた硝子に側頭部を軽くあてる。カシン、と硝子特有の繊細な音はスローテンポで数度。
その音を聞きながら、イギリスは板間に投げ出された細い足先を見ていた。
片膝を抱えて、捌けた裾の奥は曖昧な夜色にまぎれている。それなのに足先は白く繊細。‥‥繊細で、艶かしい。息を呑むほどに。

「ああ、幸せです」

硝子に頭を持たせかけ落とされる声は酒精に気だるく潤み、板間を掻く足の指先が、膝を崩して座るイギリスの脛に触れた。

「美しい夜、美味い酒、仕事も上々。‥‥好きなものに囲まれて、これに勝るものなどありません」

なるほどその言葉どおり、彼は幸せなのだろう。
彼の欲しいものは、日本が必要とするものは。その小さな手のひらに、全てある。
力を持つ若者の手首を首尾よく握り締め、手元には気に入りの酒。窓の外には潤んだ夜の静けさ。
彼が愛し必要とする、数少ないものたち。

「俺は?」

返答代わりの深い微笑は、脛を弄ってくる官能的な足先と一揃い。
返礼は、気に入りだろう酒盃を割らないように気をつけること、でいいだろう。
勿論その杯を支えていた恋人自身は、いつだって大切に扱うのだから今更気をつけるも何もない。

板間に散った黒髪は美しく、あわせた唇は芳しい彼の大地の味。

「なぁ、日本、俺は?」

至近距離で低く問いかけながら、指先から奪った杯を含めた酒器を片手で押しやる。
間近の瞳は夜を映して濃く、けれど酒精に潤んで最高に艶かしい。クツクツと笑う唇に触れるだけのくちづけを仕掛けながら、イギリスは尚も機嫌よさげに笑う恋人を丁寧に愛撫する。

「おやおや、ご自身と酒とアメリカさんを同列に考えなさる?」
「お前の好きなもの、の範疇だろ」

美しい夜、美味い酒、大切な仕事相手。それが恋人が必要とする、好きなもの。
そこに、「俺」の居場所は?なんて。
まるで癇癪な愚かしい問いかけなのは、わかってはいたけれど。

「イギリスさん」

施し施される細やかな愛撫、宥めるように髪を梳られるのが心地良い。
双方共に仕事上がりの酩酊状態、長い付き合いで今更身体の繋がりを何が何でもというわけでもなく、ただこうして触れ合っているだけで十分すぎるほどに、伝わる。

「アメリカさんは、我が『国』に不可欠な方です。大概スットコドッコイですが、ま、お可愛い方ですしね、好きですとも」
「うん」
「酒も、静かな夜も。長く親しんできたものですからねぇ、今更手離したくもなし」
「そうか」
「そして貴方は『私』に必要な方」

しっとりとした声。
小さな身体に星霜の歳月を蓄えて、艶やかに美しく笑いながら。

「甘やかしてくださる貴方がいてこそ、私の幸せは完成するというもの。‥‥美味い酒、仕事の成功、そして貴方。はは、今宵は実に完璧な夜だ」
「日本、‥‥んぅ、」

深く合わせられた唇は大地の味、彼の味。

「さぁ、今宵は互いに必要な互いを、求め合っていただけますか?」









恋人の言う神の水に勝るとも劣らぬ快楽を、幸せを。この小柄な恋人はイギリスに分け与えてくれる。









尚も忍び笑う恋人に、細やかで情熱的な愛撫を施していく。
仕事は成功した、美味い酒も飲んだ。夜は美しく、‥‥そして目の前の恋人は、最高に甘やかで、愛しい。

「‥‥下、硬いけど此処で大丈夫か?」
「あー‥‥。ていうか、床を整えてませんねぇ‥‥」
「こういうときはあれだな、ベッドのほうが楽だよな」
「爺さんな私には西洋の寝台は柔らかすぎますよ、布団のほうが好みです」
「それじゃ俺の屋敷にも布団揃えるか?」
「貴方が居れば、それで十分私好みです」
「今日は随分とリップサービスがいいな、おい。‥‥脚、こっち」
「ん‥‥ッ、」









酒に蕩けた睦言は密度を増して美しい夜に、秘めやかに沈んでいく。









  花  筐 





the end.(2010.01.31)

この二人、いっつも呑んでますね(笑)
このあと致しながら、好きな吟醸の産地だとか若いコの可愛さだとかを話してます^^