針仕事というのは、心が落ち着く。
布を裁ち、合わせて、糸を通し、針を刺す。
こうして工程だけを列挙すると、至極単純な作業の繰り返しだ。手練の職人でも針を覚えたての少女でも、それは変わらない。勿論そこには修練によって習得する技があり、布の裁ち方、運指ひとつとっても出来栄えに驚くほどの差がついてしまうという事実はあるにせよ、作業自体は変わらない。
布を裁ち、針を刺す。
シンプルでミニマム、其れゆえのシステマティック。やはり自分も針を使うことも関係しているのだろう、ゆったりとした機械を使わぬ針仕事を見ていると、落ち着くし、楽しいのだ。
そう、それは見ているだけでも。
「そう楽しいものではありませんでしょうに」
「そんなことない」
即座の否定に、ゆっくりと針を操る日本が口の端だけで笑うのを見る。形のよい眉尻を下げての其れは苦笑というのに相応しいものだが、イギリスとしては本当のことを正直に言ったまでなので、それ以上そのことについての言葉を継ぐことはしなかった。
「はん、え、り。」
「はい。半衿、と書きます」
夜も深い時分、手元を照らす間接照明の他は庭に向いて開け放った縁側から差し込む、街の薄い明かりのみだ。昔は月と蛍の灯りがなどとも言われたのですがとは、地から立ち昇る街灯りに押され所在無げに霞む星々を一緒に見上げながら聞いた言葉だが、夜を焦がすような街明かりも、それはそれで美しい。
室内は夜の闇が勝り気味だが、もともと濃い色の瞳をしたアジア系に較べて光に対する耐性が低いイギリスには、これくらいの薄暗さが心地良い。自分がこちらに来て以来、恋人は天井に設えた吊り照明ではなく、少し古風な紙と竹と陶器で出来た間接照明を主に使ってくれていた。風情があっていいでしょう、夏はこうでなければ。そういって笑っていた彼だが、これは自分の目を気遣ってくれてのことだろう、とイギリスは不意に気づく。
無言の心遣いは愛しく、星も朧な静けき薄闇は美しい。恋人と過ごす、恋人の国の夏の夜である。
長い夏休暇(冬もだが)という文化風習のない日本を、その休暇を持つイギリスが西の果てから訪うようになったのは、もう随分前のことだ。
当初こそ、この国の避暑地だ有名な温泉郷だとあれやこれやと気遣ってくれた日本だが、気を使わなくていいと再三再四言い、果ては「お前の傍に居れたらいいから」などという、我ながら暴れたくなるほど照れくさい台詞を羞恥を押し殺して告げた効果もあってか、近年は普段どおりに仕事をし起居する彼の自宅へと招き入れてくれるようになった。それでも時折、さほど面白みはないでしょうに、と困惑した顔をされることもあるのだが、イギリスにしてみれば『日本』という(大都市部はともかく)国、東の果ての島国そのものがエキゾチズムに溢れる場所なのであって、ちょっとした建物や民族衣装、自国にはない植生や昆虫類を眺め、小さな妖怪たちと他愛のない交流をするだけで十分に休暇足りえる場所なのだ。
くわえて今年は、ちょっとした買い物もして。‥‥そして、それに起因する、今この状況なのである。
『三週間もあれば大丈夫ですよ、こちらにいらっしゃる、休暇中に出来上がるでしょう、ミスター・カークランド』
日本の紹介で顔をあわせたその男は、物慣れた柔和な笑みを添えて、ゆっくりとした発音の簡単な英語でそう言った。
「どうでしたか、イギリスさん?」
「そうだな‥‥、生地を持って家に来てくれるなんて、貴族のようだなと思った」
「あはは。まあ、今ではあまりなくなってしまったかもしれませんが、割と普通ですよ。西洋のご婦人のドレスを仕立てるのとはまた違いますしね。反物は持ち運びも重ささえ気にしなければ扱いも楽ですし、そもそもドレスと違い定型がありますから。仮縫いの手間がないあたりは紳士服とも違いますね」
「縫うのは工房か何かがあるのか?」
「さて?基本的に和服ばかりだった時代は自宅で女達が、貴族階級でしたら奥方か、針自慢の下働きの者たちが仕立てるのが主流でしたが‥‥。今は、契約している和裁をされてる方に外注しているのだと思います。ほら、垣根向こうの、シロを飼っていらっしゃる戸田さんちの奥さんも、たまに請け負ってらっしゃいますよ。専業ではなく」
「へぇ‥‥」
そんな会話をしたのが、二週間ほど前の夜のこと。
反物を持って日本の家まで来てくれた男は、呉服屋の店主。
イギリスは、つまりこの夏に日本の着物を誂えようと思っていたのだ。
当初は日本が普段どおりに仕事に出かけた後、老舗の百貨店と呼ばれる場所にイギリス一人で赴いてもみたのだが、そこは文化の馴染み薄い他国であり、その伝統衣装である。いまいち勝手がわからず、結局日本に相談したところ、少し驚いたように目を見張った日本は、馴染みだという上の男を紹介してくれたのだ。
気の良い店主は片言の英語と日本語を交えながら、異国人のイギリスにもわかりやすいよう、普段着よりは少し上等で茶会やパーティには着れるもの、洗濯機でも洗える普段着、夏に着るカジュアルである浴衣、それにあわせた帯、下着と小物類、履物、という説明で算段してくれ、入念に採寸をし、丁寧な見積もりを出してくれた。帰宅した日本にも見せたところ頷いていたので、そのまま任せることにした。
そうして過ぎた二週間。恋人である日本は通常どおりの仕事とはいえ、恋人の傍で時間を過ごしていればあっという間で、休暇も折り返しを過ぎた頃に、「ちょっと立ち寄ったので」と仕事帰りの日本が持ち帰ったのは、イギリスが頼んだ着物のうち、肌着の上に着ける長襦袢と呼ばれる衣装であった。
そして其れは現在広げられて日本の膝上にあり、好い匂いのする井草の敷物の上へ身体を伸べているイギリスを横に、ゆったりとした動きで針を使っている最中、という具合である。
日本の指先は、とてもゆっくりとしていた。
まったく不慣れ、というわけでもないが、日常的に針を使っているというほどに慣れているわけでもない。けれどとても丁寧で、一目一目、正確に針を刺しているのがわかる指運びだ。
「それ、出来上がりじゃなかったのか?」
「いいえ、そうではありません」
多くを応えない日本に、イギリスも多くは聞かない。
ただ、淡い光の下、細やかに針を操り布を手繰る指先を見ていた。
ミルクが多めのミルクティといった色合いの肌は、アジア系特有のきめ細やかなものだ。女性的なたおやかさは欠片もないが、小作りですっきりとした指先が、淡い光に包まれながら針を操る様は、いっそ幻想的ですらあった。
極東の島国、エキゾチズムの粋。美しい恋人の面影に触れ、手元に置きたくて、彼の国の衣装を手に入れようと思ったのだが。
‥‥彼をこのまま手に入れられたらそれが一番なのに。なんて。
決して恋人をモノ扱いしているわけではないと内心で言い訳しつつも、休暇が終われば遥か彼方の母国へと戻らなければならない身としては、本気交じりの戯言として考えるくらいはよいだろう、とイギリスは思う。
ゆっくりと、日本の指は針を進める。
イギリスが馴染んだ西洋の衣装とはまったく造型は異なるものの、布を裁ち合わせ針を入れるという行為自体は変わらない。じっと見ていれば、縫い目自体もそう難しいものではなく、真っ直ぐな、ごくシンプルな糸目をしている。
「半衿、」
「ええ。胸元からうなじを回ってまた前あわせに戻る、襟元ですよ」
「ふぅん」
布端まで縫いきった日本は、打っていたまち針を一度全て抜くと襦袢を一度大きく返して振った。布が空気をはらむ軽やかな音が静かな室内を柔らかに打ち、また直ぐに日本の手元へとたおやかに蹲る。そうして手元に戻した布に、日本はまた丁寧にまち針を打つと、糸を通した針を再び刺し入れた。どうやら、往復して縫うものらしい。
「機能としては、この上にまとう着物の襟をすっきりと立たせて整えるためのものですが‥‥。それ以外に、襟足はどうしても汗を吸いますし、傷みやすいでしょう?こうして襟だけを後付けにしておけば、傷んだ箇所だけを取り替えることができるんです。あとは、着物の色に合わせて色を代えて縫いかえ、楽しんだりね。まぁそのあたりは女性のほうが多いですが」
「へぇ‥‥」
日本の説明に、イギリスは素直に感心したものだ。なるほど、新しいものを仕立て下ろすときから直しながら長く使うことを前提に作るというのは、実にエコロジカルである。
イギリスはうつ伏せて顔だけを横に向けていた体勢から、肘をついて顎を乗せ、軽く上体を起こすようにして視線を高くする。
その間も日本の指先は躊躇いなく、ゆっくりと正確に動き続けている。イギリスはその指先を暫し眺めたあと、そっと首を伸べて恋人の襟足を覗き込んだ。確かに、一番外に着ている深いグレイの着物の下、僅かに違う色の襟が覗いていた。あれのことだろうか。
「今お前が着てるのにもついてるのか?その、色の薄いところ」
「ええ」
「これは、自分でつけるものなのか、みんな」
「いいえ、今では仕立てのほうで、つまりお店でですが、全て整えてくれることのほうが多いでしょう。手元仕事に馴染みない方のほうが今では多いですし。もともとこれも、私が自分でしますといって出来上がる前に引き取ってきたものですから」
「え?」
思わず、襟下に向けていた視線が上がる。
細い首筋の上、淡く瞬く明かりを吸い込んでなお黒い、潤んだように見える目へと己の其れを向けた。
日本の視線は彼の手元に落ちている。針は止まらず、静かな夜は揺らがない。
けれど渡された台詞の不思議さに、イギリスは軽く混乱しながら言葉を継ごうとしたのだが、なかなか上手い言葉が選べない。
彼がしている仕事は、どの着物にもついているという。
しかし、それは仕立てのほうで普通は整えてくれることが多い。
「出来上がる前に引き取ってきた」ということは、つまり出来上がりで渡されたのなら、既に衿がついた状態で渡される予定だった、ということで、つまりそれは。
「‥‥‥‥何故?」
イギリスが最終的に零せた言葉は、一言だけ。
そして、日本から返された言葉も、一言だけだった。
「したかったから」
簡単な理由でしょう?
言外に含むそんな声さえ聞こえた気がして、イギリスは重ねて問うことを一瞬忘れた。
相変わらず夏夜は静かで、淡い光の下で丁寧な針は続いて。そうして最後の一目をくけ終わった日本が、軽く見分した其れを丁寧に畳んで傍らに置く姿を、無言で見つめる。
イギリスが親しんだ衣服とは全く違う裁ち目、畳み方。それを息をするのと同じくらい自然に慣れた所作でこなす、どれほど世界が小さくなろうとも遥か東に住む、恋人。
「着物を、貴方が欲しいといったとき、思ったことを申し上げますと。」
「え?」
密やかな声が、イギリスの耳を打つ。
淡い間接照明と街の明かり、潤んだような夏の夜に相応しい、しめやかな声だった。それでいてどこかふんわりと軽やかな、僅かに悪戯っぽさを含んだような。まるでこの恋人そのものの、複雑さで。
「私は、針の嗜みがないとはいいませんが、いかんせん馴染みがあるとも言い難い」
「ああ」
イギリスは、短く頷く。
日本の仕事は丁寧ではあったが、確かに、針を日常たしなんでいるようには見えないゆったりとしたものだった。その辺りは自分も針仕事を趣味とする身だ、わからないはずもない。
「餅は餅屋と申しますし、我が国の皆さんの美しい手跡を貴方にご披露したいとも思いましたし。ですので、ご店主をご紹介したのです。‥‥しかし、その、」
「‥‥なんだ?」
一呼吸ぶん言いよどんだ恋人を促すように言葉を継げば、慣れた動きで長じゅばんを畳んでいた指先が一瞬止まってから。
「出来ることならば、私が全て仕立てたかったのです。まあ、さすがに其れは無理、と申しますか‥‥。出来なくはないですが、申し上げたとおり餅は餅屋。どうせならば美しいものをお持ちいただきたくもあり。その一方で、私も、少しなりと、‥‥」
日本の指先が、たたまれていく布を、そっと撫でる。
まるで大切なものに触れるように。
まるで、日本がイギリスに、イギリスが日本に触れるときにも似た、愛しさで。
「貴方のもとに置かれるものに、手を入れたかったのです。」
日本と出会ってから、長い時間が経った。
言葉を交わし、視線を交わし。血と刃までも交わして、そうして、情を交わして、ここまできた。
遠い、愛しい母国で過ごす間も彼を感じたくて、触れていたくて。恋人が親しむ衣装などを手元に置いてみようと考えて。日本を、手に入れたくて。
「日本」
夏の夜に馴染むゆっくりとした動きで身体を起こす。伸ばした腕は拒まれない。
すんなりと腕の中に収まってくれた恋人を、イギリスは長い息をつきながら抱き締めたものだ。息をつかなければ、愛しさが溢れて胸が痛くなりそうだった。
そうしてみても尚も落ち着かず、抱き締めたままでイギリスがもとから身体を伸べていた敷物の上に恋人ごと寝転べば、腕の中の相手は驚いたように一瞬息を飲んだ後、まるで悪戯を窘めようとして出来なかったような、クツクツと小さな忍び笑いを零している。
「‥‥お前な、あんま可愛いこというなよ、着物じゃなくてお前手に入れて帰りたくなるだろ」
「おや、おや。私はあいにくスーツケースには入りませんよ?」
「ついでだからスーツケースも誂えるか。特別誂えで」
近距離で交わす声は密やか過ぎて、互い以外には聞こえない。
勿論、それで構わない。自分たちだけに響きあえばいい言葉なのだ。
頭を抱き込むようにして横向きに抱き込めば、触り心地のよい黒髪の襟足から、先ほど聞いた半衿、らしき部分が垣間見える。‥‥これは、彼が自分でつけたのだろうか。
「これって、俺でも縫えるか」
「‥‥え?‥‥ああ、そうですねイギリスさんは針仕事もお上手ですし、そもそもごく簡単なものですから、出来ると思いますが?」
「お前は、付け替える予定はないのか?」
「おや、縫ってくださると?」
「針仕事なら任せとけ、昨今の花嫁修業中のご令嬢よりは巧いぞ」
襟をなぞりながら言えば、やはり笑いを含んだ密やかで甘い、声が返ってくる。淡い色の半衿と、その下の、淡い色の素肌。
手に入れたい、否、既に手に入れている、恋人の身体。
‥‥ああ、美しい、恋人の手が入った着物も手に入れたかったものではあるけれど。
「やっぱ、本物っつーか、生がいい」
「‥‥。あなたねぇ‥‥」
うっかりと零してしまった直裁に過ぎる発言に、なんとも微妙な視線が少々痛くはあったが、イギリスは気にしないことにして体勢を入れ替え恋人に圧し掛かった。
若干呆れた風なため息を吸い込むくちづけに、最後にひとつ息をつくように笑った恋人は、二人を包む夏夜の薄闇に似た静けさで目を閉じてくれたものだ。
さらに一週間後、仕立てあがった着物が届いてからは休暇が終わるまでイギリスは其れを愛用し、帰国する際には大切にスーツケースへと仕舞い込んだ。
「ああ、お前が入るスーツケースは、次の休暇のときに誂えに来るから」
空港まで見送りに来た恋人の耳元でそう囁けば、呆れた風に笑いながらもその襟足から覗く素肌がほんのりと赤く色づいたのにイギリスは笑って。恋人の手が入った美しい衣装を手に、西の果ての愛しい母国への帰路に着いた。
星朧抄
終 (2010.08.15)
「手を入れる」と「手に入れる」の言葉遊び
それにしても「やっぱ生がいいし」は名言だね!(台無しだ)