ドアのロックが開錠される音が、深夜に静まり返った廊下に響く。
引き開ける、ドアがやけに重い。
勿論、ここを出る前と今とでドアをやり変えたわけではないから、純粋に自分の感覚上の問題だ。‥‥ドアの重さは、翻って自分の身体の、精神の重さだろう。鬱屈とした、不可視の、重み。
アーサーは短く息をつく。それすら重く感じて、苛立たしげにひとつ舌打ちした。
明かりの無い真っ暗な玄関先で靴を乱雑に脱ぐ。普段であれば決してしない、荒々しい仕草だ。
革靴というものは使用後は汚れを丁寧にぬぐい、シューキーパーを嵌めて休ませなければ、靴先が反り返って使い物にならなくなる。況してや今日の靴はアーサーが持つ其れのなかでも中々に上等な部類のもので。
そう、例えばここ数日のように、品の良いスーツを身につけ小物もトワレも吟味して、‥‥柔らかな肢体に薄いドレスを纏わせた相手をエスコートしなければならないような時に必要な、もので。
‥‥靴も、スーツもどうでもいいと不意に思う。
靴を脱ぎ、靴下越しに感じるフローリングの少しひんやりとした感覚に、イギリスは足元から崩れるような脱力感を感じた。
その感覚に逆らわず、ズルズルとその場へくずおれる。
ぼんやりと視線を飛ばす先は、いくつかのフットライトのみの、暗い自宅。
現在のアーサーの住まいは、独り暮らしにしては部屋数も広さもある分譲マンションの一室だ。自分がよくよく吟味して購入したもので、使い勝手の良い、居心地の良い場所だ。
自分の好きなものだけ選んで置いてある、自分の領域。
‥‥そのはずなのに。
「‥‥‥‥アーサーさん」
ちりん。と暗闇に、その闇色とは違う黒をまとった小さな姿が、そろそろと姿を現した。暗闇ではなく、星空の夜のような、柔らかな黒。
ほろり、と刺々しく固まろうとしていたアーサーの心が、少しだけ解ける。
「菊。」
名を呼べば、ととと、と足音ともいえない軽い音とともに小さく愛らしい姿が彼の前へと走ってきた。さらさらとした夜色の髪と瞳。
座り込んだままそっと手だけを伸べると、遠慮がちに指先にふにりとした柔らかい頬が、あてられる。
ああ、久しぶりに、本当に柔らかいものに触れた。
(打算ばかりで触れる女の身体なんて、柔らかくもなんともない。)
「アーサーさん、おかえりなさいませ」
「ああ。‥‥ただいま。悪い、起こしちまったな」
自分の言葉に、アーサーは今の時間を自覚する。
深夜をとっくに過ぎた時間は、確かにネコとっては本来活動時間なのかもしれないが、アーサーの手元に来て以来彼のサイクルに沿って夜に寝る生活をしている菊にとっては、ぐっすりと眠り込んでいる時間帯のはずだ。おそらく、ドアの開く音に反応して起き、暫く家を離れていた飼い主を、迎えに来てくれたのだろう。
そのけなげな行動に、アーサーは暗闇に慣れてきた目を頼りにそっと膝元に座り込んで飼い主を見上げてくるペットの頭を、出来る限りの優しさでもって撫でた。さらさらとした黒髪が指に優しく、ふるりと震えた耳の付け根をくすぐれば、ゴロゴロと喉の鳴る音と、アーサーさん、と澄んだ愛らしい声。
そっと脇下に腕を差し込んで、小さな身体を抱き上げる。
ちりん、と黒いしっぽに結んだベルとリボンが、澄んだ音をたてた。
ここ数日、アーサーは家を空けていた。
菊は猫とはいえ一通りのことは出来るので、数日の不在も問題にはならない。が、そこはペットを溺愛する飼い主らしく、細々とした用意を入念にしたものだ。菊が普段使う、たとえば服や座布団などは菊の目の届くところにまとめて揃えておいた。食事に関しては、アーサーが作り置きしておけたおやつ以外は(誠に不本意だが!)近所に住む腐れ縁に頼んで彼のところに行くように言い含めていた。
「大丈夫だな?」
「はい。大丈夫です。」
穏やかな、けれどしっかりとした声にそれでも後ろ髪を引かれる思いでその頭をひと撫でして出かけたのは、数日前。‥‥どうしても、どうあってでもこなさなければならない、仕事の為。
使えるものは何でも使うのが、アーサーの主義だ。
たとえそれがどれほどえげつないものだろうと、方法として成功の確率が高いのであれば、使う。
高級な靴を履き、品の良いスーツを纏い。‥‥篭絡して。
(柔らかい、熱い身体を、抱いて。)
ずっと、そうしてきた。
そうやって、のし上がってきた。
‥‥‥‥ああ、けれど。
(本当に抱きたい、しなやかで、熱い身体は。)
(きっと泣いている、あの、優しいアイツは。)
「‥‥菊。きーく、菊」
「はい」
小さな身体を胸元に抱きこみ名前を呼べば、素直な返事が遣される。
小さな小さな指先が、スーツの端をそっとつまむように、握っている。
きっと皺がつかないようにだとか、考えてくれているのだろう。彼は、賢い猫だから。
「‥‥‥‥俺は、駄目なヤツだなぁ」
「私は、アーサーさんが好きですよ」
澄んだ愛らしい声が返ってくる。
かみ合っていない会話、けれど全て解った上で。‥‥彼は、優しい優しい猫だから。
アーサーのしていることを、マシューは感づいている。
彼はおっとりしているが、決して愚かではない。‥‥愚かであれば、どれほど良かっただろう。
例えば、なじってくれたなら。
汚いとなじって、糾弾して。嫌だと、言ってくれたなら。
自分以外を 抱かないで、と。
「‥‥‥‥バカか、俺は」
アーサーは吐き捨てるように呟いた。自分で自分を哂う。
どれほど身勝手なことを言っているか、さすがにそれは解る。
利用できるものは、利用して。どれほど汚かろうと、どれほど酷薄だろうと。そうやって歩いてきた自分。後悔はしないはずで、今も本当のところはしていなくて。‥‥なのに、恋人が言うのなら、なんて。
(なんて汚い、責任転嫁!)
彼は、言わないだろう。何も。
一言たりとも。影で、どれほど泣こうとも。
それはマシューのプライドかもしれないし、無言の糾弾かもしれない。
けれど、きっとアーサーが彼の元を訪れれば、なんでもないように迎えてくれる。優しい笑顔で。しなやかで熱い身体に手を伸ばしても、きっと優しく、腕の中におさまってくれる。‥‥愛してくれる。
甘えて、甘えて。傷つけて。‥‥それでも手離せなくて。
(きっと今頃、泣いている)
背中を丸めて、声を殺して。‥‥俺の名を、呼んでいる。
「‥‥マシュー」
なぁ、泣かないで、なんていう資格は。
寂しいなんていう資格は、自分には。
「アーサーさん、もう今日は寝ましょう?」
「‥‥菊」
「また明日、考えましょう。お日様がでて、ぽかぽかして、それから考えましょうよ。ね?」
腕の中の柔らかな重みが、すりすりと擦り寄ってくる。
夜色の姿。一心に好意を寄せてくれる、優しく可愛い、俺の菊。
「‥‥そうだな、今日は、一緒に寝ようか」
「はい」
イギリスは、腕の中から夜色の瞳をひたりと当ててくる猫をもう一度そっと抱きしめた。立ち上がり、暗闇に沈む室内を歩いて、寝室へと向かった。先に小さな身体をベッドへと下ろし、身に着けていたスーツを剥ぐ様に脱ぎ捨てる。アンダーウェア姿で再びベッドに寄ったところで伸ばされた小さな両腕に応えるように抱き上げて、ベッドへと身体を滑り込ませた。
「ぬくぬくですね」
「そうだな、ぬくぬくだな」
くるんと猫っぽく丸めた身体を、横向きに寝た腕の中に囲い込むように入れて、その身体をそっと撫でる。ぴくぴくと揺れる耳を頭ごとゆっくり撫でれば、早くも眠る体勢に入ったのか、ぷす、と暢気な息の音がした。
それから、とろとろと解けた声にアーサーもまた柔らかく応じた。
「あったかいの、好きです」
「そうか」
「アーサーさんが、好きです」
「ありがとな」
「‥‥あの人も、アーサーさんのことが、ちゃんと好きですよ」
だから寂しいなんて、言わないで。
ふい、と上げられた顔がアーサーの其れに寄せられて、鼻先にちょん、と菊の柔らかい鼻をぶつけられた。
驚いたアーサーが何かを言うより早く、ぱたりと伏せた菊は一瞬で眠りに落ちてしまう。すくー、すくー、と穏やかな寝息が、アーサーの腕の中であたたかく繰り返される。
‥‥可愛い菊。賢い賢い、優しいねこ。
「‥‥ありがとな」
そっと呟いた。
菊は既に眠り、きっと聴こえてはいない。それでも。
アーサーは目を閉じる。ゆるりと滲んでいく意識の端で、恋人を想う。
明日は早起きをしよう。
そうしてあの、優しい恋人の涙をぬぐいに走るのだ。
(これからはお前だけだと告げたなら、また泣いてしまうかな)
the end.(2009.03.13)
アーサーさんのお仕事は謎だらけ(・∀・)