ふりふり、ふり。
左右上下にゆっくりと揺らされる、クリーム色のふわふわしたものを、私は必死で追いかけます。ねこじゃらし、というものです。アーサーさんが、買ってくれたもの。

「菊。きーく、ほら、捕まえられるか?」
「ん、ん、んー‥‥、んッ!」
「はは、ざーんねん。ほら、もう一度な?転ぶなよ」
「はい」

頭上から降りてくるやわらかな声に、私は頷いて再度、ふりふり揺れるおもちゃを追いかけます。
今、私と遊んでくださっている方は、アーサーさん。私の飼い主さんです。
お店で売られていた私を、そっと抱き上げて今のおうちに連れ帰ってくださいました。今から少しだけ、前のことです。




『今日からここがお前のうちだ』




そういって、そっと今いるリビングの床に降ろされたとき、私は実はアーサーさんのことが、ちょっぴり怖かったのです。

私は、お店で売られていました。ペットショップ、というお店です。
そこには私のほかにも似たような猫さん犬さん鳥さんが、綺麗なゲージに入れられて、眠ったり遊んだり、ミルクやごはんを貰ったりしていました。
お店はとても明るくて清潔で、きらきらしたいろいろなものが売られていました。そして、いろいろな方が、そんな私達を見に来られるのです。
中にはとても陽気で、「ヴェー、ルート、ルートー!このコとっても可愛いよー?」と言いながら私を抱き上げて、とても上手なお歌を歌ってくださった男性もいましたし、ほっそりとやわらかな手で私を撫でて、お隣に立つ男性に「ローデリヒさん、ほら、この真っ黒な猫ちゃん、可愛いですね」と言っていた女性もいらっしゃいました。ペットショップの店員さんはいつもにこにこと笑いかけてくださり、「キミもすぐに優しい人のおうちにいくんだよ、可愛い名前をつけてもらえるといいね」と私を撫でてくださいましたし、店員さんのうちとっても背丈の大きなもうお一方は、無口でしたけれど、とても優しくて、大好きでした。
だから私も、お歌が上手で、やわらかくて、笑顔の素敵な、優しい人のところへといくのだろうな、と思っていたのです。

けれど、あの日。
ゲージの中、半ば眠っていた私を(まだ本当に小さかったので、一日の大半は眠っていたのです)抱き上げてきた少し冷たい手の感触に、私が目を開けて、最初に見たのは。

『どなた、ですか?』
『‥‥アーサー』

きらきらと、とてもきれいな緑色。まるで、お店のアクセサリコーナーにある、きらきら光る石のチャームみたいな、いいえ、それより何倍も何倍もきれいな、緑色の瞳、でした。アーサーさん、でした。
アーサーさんが、私の何を気に入ったのかは、今もわかりません。けれど彼は、私を抱き上げたその足でペットショップの店員さんのほうへ行き、何故だかあっけにとられたような店員さんといろんなお話をして、いろいろな書き付けをしてそれから、私を抱いてそのまま、お店を出てしまわれたのです。
店員さんが彼に抱かれた私の頭を撫でて、元気でね、といってくださったので、自分が彼のおうちに行くことになったのは、わかりました。
びっくりしました。そして、少しだけ不安でした。
だって、私を抱いて歩くアーサーさんは、優しいお歌も歌ってくださいませんでしたし、ほっそりと柔らかな腕や手のひらでも、ありませんでしたから。

私は、とても小さくて。
大きなアーサーさんに、もしもぶたれたり、いじめられたら、きっととても痛い。怖い。

‥‥お店には、時折そういった、怖い目にあった猫さんや犬さんや鳥さんがどこからか連れられてきていました。
ぐるぐると包帯を巻かれて、ちいさくうずくまって。はらはらと涙を零す猫さん犬さん鳥さんを、店員さんはいつだって悲しそうにぎゅっと抱き締めて、もう大丈夫だからね、もう怖くないからね。と。優しい声で、言っていました。
私は気がついたときにはもうあのお店のゲージの中に居て、にこにこの店員さんや、背丈の高い無口な店員さんにミルクや添い寝をしてもらっていたので、怖い目、というものが具体的には何かは、知りません。
お店にお買い物にいらっしゃる方は、皆さん優しい手で私を撫でてくださいましたし、遊んでいる途中にぺしょっと転んで泣いてしまったときも、大きな店員さんが抱き上げて、撫でてくださいました。
だから、転んだときは痛かったけれど、平気だった。でも。

この方は、どうだろうか。
この方は、にこにこもしていないし、お歌も歌ってくれないし、ほっそりと柔らかな手をしてもいない。
私はひんやりとした床に降ろされてしまって、見上げてもあの最初に見た、きれいな緑色も、見えない。
どうだろうか。
あの、明るくて綺麗だったお店にいた頃のように、ミルクを貰えるだろうか。添い寝をしてもらえるだろうか。

私のことを、好いてくれるだろうか。




『菊』




低く、まだ聴き慣れない声に、私はふるっと耳を震わせて、ずっと高い位置にある、彼の顔を見上げました。
すると、いつの間にか彼も私のほうを見下ろしていたらしく、あの、きれいな緑色が、私を見つめていました。きらきら。きれいな緑色。
その緑が、すぅ、と近づきます。彼が、アーサーさんがしゃがんでくれたのだと、手のひらよりは少しだけ温かい膝の上に乗せられてから、気がつきました。

『‥‥名前な。菊にしよう』
『き、く』
『ああ。お前の名前。きれいな、花の名前だ』
『おはな、の?』

まだ小さくて舌ったらずだった私の言葉に、アーサーさんは静かに頷いてから、私をそっと、硬い冷たい手で、撫でてくださいました。

『あーさー、さん』
『なんだ?』
『わたしのことを、好きになって、くださいますか?』

静かに撫でてくる手のひらは、ほっそりと柔らかなわけでもない。
低い男性の声は、口数も少なくてお歌も歌ってくれそうにない。

ああ、けれど。

『お前のことが好きになったから、連れ帰ったんだ。さぁ、今日からここが、菊の家だ。お前の、帰る場所だよ』
『‥‥‥‥はい。』

きれいな緑色の目は、これまで出会ったひとのうちで一番きれいで、優しいから。




「‥‥菊?菊、どうした?」
「え?」

ふわ、と足が床から離れる感覚。
少し冷たいふたつの手のひらが、私の身体を掬い上げるようにして、抱き上げています。アーサーさんの緑色の目が、すぐ傍に。
このおうちに来た頃と較べると、少しは大きくなったと思うのですが、まだそれでもアーサーさんの片手で抱き上げられるサイズの私です。けれど彼は、私が一度眠さにむずがったせいで彼の手から落ちかけて以来(落とされませんでしたが、彼があんまりに慌てるので、私はそちらのほうにびっくりして泣いてしまったものです)、いつだってそぅっと私のことを、両の手のひらで抱いてくださいます。
今も、先ほどまでふりふりと私の遊びに付き合っていたねこじゃらしを脇に置き、私の脇下に両手を差し入れて抱き上げ、主張の激しい眉毛をちょっぴり顰めて、私の様子をじっと観察しています。きれいな緑色の目が、すぐ傍に。とても、きれい。

「どうした、ねこじゃらし飽きたか?疲れたか、それとも腹が減ったのかな‥‥そろそろ離乳食の時期だし‥‥」
「アーサーさん」

最後の辺りは独り言らしく、ぶつぶつと低い声で喋っていたアーサーさんですが、私が一言お呼びすれば、すぐに目をこちらへと向けてくださいます。

アーサーさんは、確かにいつもにこにことしているわけではないし、ほっそりと柔らかな手のひらをしてはいないし、時折歌ってくださる子守歌もあまり上手ではありません。
けれど一度だって、ぶったり、いじめられたりしたことは、ない。
アーサーさんは、とても優しいのです。
少し硬いお膝に抱いてミルクを飲ませてくださるし、そーっとお風呂に入れてくれますし、ふかふかのおふとんで一緒に眠ってくださいます。
いつだってとても優しく、あのきれいな緑色の目で私を見て、低い声で、きく、きく、と呼んでくださいます。
だから。

「アーサーさん」
「ん?ああ、菊、どうした?やっぱり疲れて‥‥、」




「菊は、アーサーさんをとてもお慕いしております」




ぺしょ、と視界が唐突に横倒しになりました。びっくりです。どうやら、私を抱いていたアーサーさんが私ごと横にぺしょっと倒れたようです。アーサーさんに抱かれていたから、ちっとも痛くはなかったけれど。どうしたのでしょう、急に眠たくなったのでしょうか。

「アーサーさん、お休みですか?眠いときは、おふとんに入るんですよ」

だって、床は冷たいから。私はアーサーさんに抱かれているから、冷たくはありませんが、‥‥あ、ねこじゃらし。もうちょっと遊びたいなぁ。いいえ、でもアーサーさんが眠くてお休みされるのでしたら、わがままは言いません。
‥‥でも、アーサーさんともう遊べないのは、寂しいです。

「アーサーさん、お休みするのでしたら、私もいっしょのおふとんで寝たいです」

遊ぶ代わりに、一緒に居る方法。なんという名案でしょう。今日の私は冴えています。
なんだかふるふると震えているアーサーさんの腕をてしてしとしっぽで叩いてその名案を伝えたのですが、アーサーさんはいっそう私を抱き締めてから、やっぱりふるふると身体を震わせるのです。‥‥どうしたのでしょう、やっぱり寒いのでしょうか。床が良くないのでしょうか。

その後も暫くアーサーさんは床に転がったまま、そして私を抱き締めたまま、ふるふると震えていらっしゃったのでした。




「ああもうマジ可愛いっつの!何だよあれ?!なぁ、おい聴いてんのかよ髭?!あ、写メ送るからな見ろよそして羨ましがれ。うっわこれベストショットだろー猫雑誌に投稿でもすっかな‥‥」
『‥‥うん、お兄さんお前がそこまで猫バカになるって予想は、正直してなかったよー‥‥』

結局アーサーさんがおふとんに行かれる前に、腕の中がぬくかったものですからついうっかり先に眠ってしまった(まだ私はこどもですから、仕方がないのです)私の夢うつつの耳に、パシャパシャとシャッターをきるような音と、ちょっと疲れているようなご近所のフランシスさんの電話越しのお声がしたような気がしたのですが、よくわかりません。アーサーさんの硬い腕の中は、世界でいちばん寝心地がよかったから。




今夜も、あのあまり上手でないお歌と、ひんやり冷たい手のひらで撫でられながら、眠れたらいいなと思います。









了.(2009.10.03)

菊にゃは血統書付でペットショップ『北欧』にて売られてました。