これは、今から数年前の話だ。









「‥‥‥‥‥‥見合い?」

思わず。本当に思わず素っ頓狂な声が出たのは、許して欲しいと思う。
いや、誰に許されたいのか自分でもわからないんだけど。まぁ、俺はそれだけ混乱してた、ということで理解して欲しい。
それくらい、唐突だった。
携帯を取り落とさなかっただけマシだとさえ思ったくらいだ。
そんな俺の動揺は、膝上の菊にも伝わってしまったらしい。
胡坐をかいた俺の膝で、小さな小さな手鞠を抱き締めた菊が光沢のある黒い被毛のしっぽをぷわわんとふくらませた。ちりん。喉元にリボンと一緒に結いつけたベルが可愛らしい音を立てる。
見上げてくる大きな瞳は、夜色。俺の動揺を映したせいか少し潤んで、鞠を抱き締めたまま小さな指先が俺のシャツを握りこんだ。

「アーサーさん?」

小さな小さな声は、電話をしている俺を気遣ってのものだ。
菊は、とても賢い。邪魔をしてはいけない時、立ち入ってはいけない場所を、小さな彼なりに心得たうえで、俺の傍にその温かく柔らかい、可愛い身体をそっと寄せてくれる。
俺の菊。ペットショップで買ってきた、可愛い可愛い俺の黒猫。

「‥‥‥‥見合いって、‥‥その、菊に?」

受話器越しのノイズ入りの声は、動揺しすぎて菊の頭をなでてやることすら出来ない俺に、ほんの少し困惑気味にYES、と応えたのだった。




「‥‥また折り返し電話か、後日店に行きますので」

通話終了のボタンの音がやけに白々しく、暖かな午後のリビングに響いた気がした。
勿論この音が知らない間に替わっているだなんてそんなことあるわけもないから、ただ単純に、気分の問題なのだろう。
なんというか‥‥、妙に、疲れた。
俺はひとつ深いため息をついて、今は沈黙した携帯電話を机の上に放り投げる。

「あーさーさん」
「あ、ああ、ごめんな菊、鞠遊びの途中だったよな?」
「‥‥もう、鞠はいいです」

俺が電話をしている間じゅう膝の上に丸くなりじっとしていた菊の小さな両手から、猫用の鞠がぽとりと投げ落とされ、リビングのフローリングの上を転がっていく。シャラシャラシャラ、中に詰められた素材が綺麗な音を立てる。それはまだ子どもの菊の、大のお気に入りのはずなのに。

「菊?」

コロコロと転がり遠ざかっていく鞠を拾い寄せる暇もなく、きゅっと抱きついてきた小さな黒猫の温かい身体を俺はそっと、胸元へと抱き上げた。

この仔猫を俺のマンションへと連れ帰って、そろそろ二ヶ月が過ぎようとしている。
多少人見知りする性格だったのか、最初の頃こそ部屋の中を不安げに歩き回ったり、ペットショップの店員を恋しがって鳴いていたりしたのだが、今ではすっかりと俺の小さなパートナーとして、この家に落ち着いていた。
賢いがやはり仔猫らしく少し甘えたで、俺が仕事で外出している時などは時折メイクしたベッドやたたんだ洗濯物の中にもぐりこんでぐしゃぐしゃにしてくれたものだが、それもどうやら『俺の匂いがする』からだった、と知ってからはあまり咎めないことにした。
膝上に抱き上げて匙で一口ずつやっていたミルクはもう自分ひとりで飲めるようになったけれど、それでもときどきミルクのカップを持って俺を見上げてくるから、膝上に乗せて一緒におやつにしたりする。
疲れ果てて仕事から帰っても、チリチリと喉元の鈴を鳴らして玄関までとてとてと走り出てくる菊を抱き上げれば、疲れなんて吹き飛ぶ気さえした。

『えっと、かえり、なさい?アーサーさん』
『うん、おかえりなさい、だな菊。俺の帰る家はここだけだし』
『おかえりなさい』

まだ巧く喋れも出来ずに、それでも一心に俺を見つめて控えめに笑ってくれる、小さな小さな仔猫。

そんな可愛い、まだこどもの菊に、見合い!

‥‥まぁ、解らなくもないのだ。
菊は、純血種だ。
真っ黒い瞳に艶のある黒い被毛、小柄であまり大きくならず少し長生きの、東方生まれの品種らしい。俺は菊を血統で買ったわけではないから、購入手続きの際にあれこれと申請書類を書く段で相手をしてくれたペットショップの店員が軽く教えてくれたのだけど。

『大人しくて飼いやすい品種です。ただ、甘えたいときでも言葉を飲み込むところがあるから、いっぱい好きだって言ってあげてくださいね?』

微妙に奇抜な名前の白い犬を抱えていた、ほんわかした口調の店員の顔を思い出す。そういえば、さっきの電話の相手も彼だった。

見合い、ねぇ‥‥。

純血種、だから。
しかし、てっきりその血統を維持する為の見合いかと思えば、訊けばそうでもないらしい。というか、店の客から持ち込まれた話に店員のほうも少し困惑していたようで、後日来店すると言ったからには近いうちに会社帰りにでも話を聴いてこようかとは思うのだけれど。
と、そこでツイツイとシャツの襟を引かれた感触に、あれこれと思い巡らせていた思考を腕の中の仔猫へと集中しなおす。
集中しなおして、そしてその異変に気がついた。

「菊、」

鞠はいい、といった菊は、確かに放り投げてしまったお気に入りの鞠には既に興味の欠片もないらしい。少し気まぐれで、集中力が途切れがちだったり逆に自分の体力の限界そっちのけで集中しすぎるのは仔猫特有らしいのだけれど、‥‥今は、そういう気まぐれ的なものでは、ないようだ。
シャツを握り締めた手に、指先が白くなるほどに力が入れられている。

「菊。菊、きーく」

呼びかけにも顔を顔を上げない菊の、小さな指をなでるようにしてゆっくりと解いていく。力を入れ過ぎるのはまだ骨が丈夫でない子どもの菊には、あまり良くないことなんだ。
シャツについた小さな皺から指先を全て外させて、代わりに俺の指先を彼の手のひらに差し込んでやる。きゅ、とやはり握りこまれたが、それでも先ほどのように加減知らずに握りこむことはしないようだ。
そこで俺は指先を菊に貸したまま、また膝上に降ろしてやって、改めて小さな黒い頭を撫でた。ふるん、と温かい身体を震わせた菊が、ようやっと伏せていた顔と瞼を上げて、俺を見上げてくる。
それに笑いかけてやってから、菊に貸したほうの手とは逆の指先で、喉元の鈴をつついて鳴らした。ちりん。菊の気に入りの、澄んだ音。

「アーサーさん」
「ん。ごめんな、電話しててつまんなかったよな」

せっかくの休日なのに、と。
そう付け加えてから喉をくすぐってやれば、くるるっと小さく喉を鳴らしたのだけれど、そのまま菊は俯いてしまった。

このところ、仕事が立て込んでいたのだ。
菊を家に連れ帰る前であれば、どれほど仕事があろうと家に帰れなかろうと気にもしなかったのだが、小さな彼が待っていると思うだけで今ではどこにいても夜になれば気が急いて堪らなくなってしまった。
寒い玄関先で待ってるんじゃないか、とか。
ちゃんとフランシスのところまでメシを食いにいったか、とか。
寂しがって鳴いてるんじゃないか、とか。
自分がこれほどペットに入れ込むなんて、自分でも正直びっくりなんだけど。でも、菊は可愛くて俺を待っていて、だから俺がこの仔猫を好きで大事にするのも当然なわけで‥‥。って、話が逸れたな。
まぁつまり、久々に菊とたっぷり遊んでやれるオフだったのだ。
膝の上でミルクを飲ませて、離乳食も久しぶりに匙で食べさせてやって。
散歩に行きたいですという菊に、買ったばかりのコートとマフラーをつけてから、近所を一回りして。ペット同伴可のカフェで一息ついてからマンションへと戻り、後はねこじゃらしで遊んだり、お気に入りの鞠を転がしてはじゃれつく仔猫を眺めていた矢先の、ペットショップからの寝耳に水な、電話だった。
夜までずっと一緒、と朝起きたときから言っていたせいで、もしかしたら俺の電話に不機嫌になったのかとも思ったのだが。

「べつに、お電話がだめじゃ、ないです」
「え、でも」

ふるふるふる、俯いたまま振られる頭に合わせて可愛いベルの音がついてくる。
子どもの彼に良く似合った可愛い音は、最後にぎゅっと俺の服へとしがみついてきたことで途切れた。

「菊?」
「アーサーさん、お声が怖かったから、怒ったのかなって思って」
「へ?」

ふるふると震えながらの言葉に、思わず間抜けた声が零れる。
けれど、小さな菊はしがみついたまま離れようとせず、ぽそぽそと呟く。
ふるふると震える身体。伏せられた耳。‥‥ああ、これは。




「わ、わたしが、我がままだから、怒ったのかなって。‥‥もうごはんも、ちゃんと一人で食べます。アーサーさんのお洋服も、ぐちゃぐちゃにしません。遊んでって、わがままも言わないから、怒らないで、くださ‥‥ふみゃっ」




皆まで言わせず、抱き締めた。
なんていうか、‥‥うん。菊は、本当に可愛い、賢い、猫だった。

ずっと忙しかったのだ。その間、ずっと相手もろくろくしてやれなかった。
それでも家に帰ればぐずることもなく控えめな声で鳴いて、おかえりなさい、と迎えてくれたし、昼夜を問わず出かけるときも、一撫でするだけで出かけていっていた。食事も結局フランシスに任せきりだし(「むしろそっちのがいいだろ可愛い子の味覚死守!」とかほざいた髭はとりあえず殴っておいた)、読み聞かせてやろうと買い置いていた本は、いつのまにか一人で読めるようになっていた。
そして今日は今日で、電話に気をとられてしまって。

『大人しくて飼いやすい品種です。ただ、甘えたいときでも言葉を飲み込むところがあるから、いっぱい好きだって言ってあげてくださいね?』

いっぱい好きだ、なんて。言えてなかった。




「‥‥怒ってなんて、ないぞ」
「ほんとう、ですか?」
「ああ」

抱き締めて、言い聞かせる。

「俺は菊が大好きだからな、怒ることなんてない。そりゃお前がいたずらしたときは別だけどな?」
「う、」
「本当だよ、怒ってない。菊は俺の可愛いパートナーだ。‥‥大好きだよ」
「アーサーさん、」

小さな小さな菊の手が、俺の頬に触れてくる。
濡れたように黒い瞳は、猫特有の真っ直ぐな視線で、俺の心を捉える。

「大好きだよ、菊。お前も俺のことが好きだよな?」
「はい」




真っ直ぐな心で、俺の心を温めてくれるんだ。









シャラシャラと、鞠が転がっていく。
とてとてとそれを追いかけてはつつき、また別の方向へと転がった其れを黒い仔猫が追いかける。
俺はそれをデレデレとニヤけながら、見守った。片手には先ほど机の上に放り投げた、携帯電話だ。ただし、電話の為じゃなく写真を撮る為に携えている。

「菊、きく。こっち向け」
「はい」

カシャリカシャリと、シャッター音風の電子音は先ほどから止まずに続きっぱなしだ。
今のところ菊の写真を見せる相手なんてフランシスくらいしかいないが、そのうち猫雑誌にでも投稿してみようか。‥‥いや止めておこう、こんなに可愛い菊だ、それこそ見合い話が山と来ないとも限らない。
と、そこまで考えて先ほどのペットショップからの電話を思い出し、ため息みたいに声が零れた。

「しっかしまぁ、見合いとはな‥‥」
「ミアイって、何ですか?」
「あ?」

いつの間にやら鞠を抱えた(これも可愛い。写メ必須。よし待ち受けにしよう。)菊が、俺の膝元に帰ってきていた。ゆらゆらと揺れる滑らかな黒い被毛のしっぽ、こちらを見上げてくる瞳は黒くキラキラと、楽しそうだ。
そんな仔猫の頭を一撫でして、俺は鞠ごと菊を抱き上げた。胸元に抱いた猫は大人しく、俺の回答を待っている。‥‥俺が暫く忙しくしている間に、随分と語彙も増えていたのだが(ああ、本の読み聞かせをしてやりたかった!)、見合い、についてはまだ知識がなかったらしい。
菊の喉元を擽ってあやしながら、答えてやる。‥‥つってもまぁ、仔猫だからな。

「あー‥‥そうだな、見合いってのは、大切な相手を探しにいく、お出かけだよ。結婚相手をな、見つけにいくんだ」
「けっこん?」
「えっとだなぁ、‥‥いつも一緒にいて、ご飯を食べたり、遊んだり、一緒に寝たりすること。‥‥好きな人と、することだな」

子ども向けに噛み砕いて(あとまぁ、生々しい部分を抜いて、だ)説明するのはなかなか難しいなどと思いながら、最後に笑って付け加えた言葉に、ぴん、と仔猫の耳が立つ。‥‥あれ、何かヘンなことを言ったか?

「なら、菊は、アーサーさんとけっこんしたんですか?」
「え?」

菊の言葉に目を見開いて見れば、黒々とした瞳はまず俺を見る。

「いつも一緒にいて、」

それから、ミルクのカップやフランシスに渡された子猫と俺の菓子の乗ったテーブルへと視線を遣る。

「ごはんを食べたり、」

次に見るのは手元の鞠。

「遊んだり、」

振り返って向いた先には、寝室に続くドア。

「一緒に寝たりする、こと」

それから最後に、にっこりと笑って。









「菊が好きなのは、アーサーさんです。だから、けっこんしてるのかなって」









‥‥‥‥‥‥ああ、うん。
菊を見合いになんて出せない。
今は子どもだからそもそも無理だけれど、年頃になってからだってパートナーを見つけてやる気に果たして自分がなれるかどうか、甚だ怪しい。ていうか無理。無理無理。絶対ェ手離せねぇから。
見合いの件は、明日にでもショップに赴いて正式に断ろう、そうしよう。

「菊。きーく、可愛い、俺の菊」
「アーサーさん」
「ずっと、一緒に居ような。ずっとだ」
「はい!」

ご機嫌にしっぽを揺らして抱きついてくる仔猫を、俺は大事に大事に抱き締めた。









温かい身体だ。小さいけれど、それは俺の心を十二分に温めてくれる、大切な大切な、パートナー。
これは、今から数年前の話だ。
ずっと一人と一匹で生きていこうと、真剣に思った日。









俺がマシューに出会う、ほんの少しだけ、前の話。









the end.(2010.01.11)

ペットショップにお見合い話を持ち込んだのは、飼い猫ルートさんの恋煩いに気づいたフェリシアーノでした(´∀`)
この時は振られちゃいましたが(ていうかそれ以前)
この数年後には、また事態が変わるようです。