カチリと弾んだ音を立て、圧力鍋の蓋をセットする。
腕を伸ばして棚から取り上げたのはハニーポットを持った黄色いクマのキッチンタイマー。火加減を調節したコンロの横に置けば、あとは時間と料理の女神様にお任せだ。
「‥‥あとは待つばかり、ってね」
歌うように呟いて、髪を押えたバンダナを取るついでに肩なんて叩いてみたり。
くるりと軽快なステップでターンをきめて、見回した室内はお掃除直後の完璧さ。ソファの上では白いクマが丸まって眠ってる。ささやかな庭の手入れは昨日したし、洗濯物も取り込み済み。リネンやタオルの交換も済ませて、あとは本当に、待つばかり。
‥‥誰をって?そんなの決まってるだろ。
コンコンコン、と軽やかなドアノッカー。
さて、極上の笑顔を添えて出迎えようか。
「おかえりー、ハニー♪」
「ハチミツが欲しけりゃ100エーカー森にでも行ってこい」
「‥‥いらっしゃいませー、お父様ー」
‥‥そんな感じで、俺は出迎える筈だったハニーシロップよりメイプルシロップ好きな可愛いあのコの代わり、仏頂面の保護者殿を出迎えた。
「はいよ、ミルクカフェ」
「ああ、‥‥サンキュ」
ダイニングチェアに腰を下ろしたイギリスの前にカフェボウルを置くのと同時、その向かいに自分のカップを持って腰掛ける。
仮にも客人をリビングではなくダイニングへ通すのはどうかともチラリと思ったが、コンロに掛けっぱなしの圧力鍋は視界に入れておきたいし、今更遠慮する間柄でもない。イギリスもそれに何を言うでもなく‥‥というか、それ以外にも言葉らしい言葉を発することなく、ただじっと座っていた。
カウンター向うのキッチンから、コトコトと圧力鍋の音。
薄く開けた窓から吹き込む風が揺らすカーテンが時折壁を撫でては、囁きにも似た柔らかな音をたてている。
「‥‥‥‥‥‥。」
「‥‥‥‥‥‥。」
腐れ縁といっても過言ではない長い付き合いの相手だ。
今更沈黙に居心地が悪くなるなんてこともある筈なく、まして取り繕うものがあるでもなし。黙して座るイギリスはとりあえず放置して、自分用に淹れたコーヒーを味わう。食事前なので胃を刺激しないようにとミルクとシュガーをしっかり入れた其れは普段作らないせいかやや甘すぎたが、沈黙を埋めるにはまあ十分だろう。
「‥‥えっと。今日、カナダ居ないんだけど。ここ5日くらい出張で、いや、今日帰ってくるけど」
「知ってる。つーか、昨日ウチに帰ってきた」
「あ、そっち寄ったんだ?」
ああ、と言葉少なに頷いたイギリスは、ここで漸く飲み物へと手を伸ばした。あ、何かつまむものでも出してやりゃ良かったか?
「なんか食う?昨日焼いたガレットならあるぜ。メイプルシロップ混ぜ込んだカボチャとジャガイモのヤツ」
「いや‥‥」
すぐ帰るから、とコイツにしてはえらく歯切れの悪いもの言いを少しだけ不審に思ったけれど、まあ深く詮索するところではないだろうと軽く流した。
本当になにかあれば、言ってくるだろうし。
イギリスとは、長い付き合いだ。
ボコり合いの喧嘩したり愚痴言い合ったり酒飲んでバカ騒ぎしたりマズいメシ食わされたり美味いメシ食わせてやったり、それこそガキの頃からの付き合いで。
‥‥そして、コイツが居たから、あのコと出会えて。
まあ、それ以前にも会ってたには会ってたんだけど、付き合いが続いたのはイギリスがいたから、というのが正解だろう。
イギリスは本当にあのコを、あの兄弟を心から大切にしていた。
あの兄弟を引き取った後のイギリスは、本当にそれまでのコイツと中味をごっそり取り替えたかのような感じだった。
若い頃はその腕力と頭脳にモノを言わせて、俺と一緒に散々なこともした。いろんなモノに手を出して、遊んで弄って飽きて。放埓な日々、それの繰り返し。
けれどあの兄弟を引き取ってからのコイツときたら、幼い子にも危険が無いように丁寧に邸内や庭を整え、決して不自由させることのないようにと蓄財し、彼らがバツの悪い思いをしないようにと紳士然と背筋を伸ばし。まあ料理の腕前だけは新手の化学兵器並だったが、それでも子供たちのために優しく微笑んで家事炊事をしている姿は、いっそ衝撃的だった。面舵いっぱいどころじゃない、ほぼ180度の方向転換だ。
何が彼をそうまで変えたのかと、不思議にさえ思った。
‥‥その理由はすぐに解って、自分でも味わったのだけれど。
「‥‥料理、作ってんのか」
ぽつりと呟かれた言葉で、やや散漫になっていた意識がクリアになる。
瞬き一つで焦点を合わせて、改めて腐れ縁を見れば‥‥パチリと、音がしそうなくらいに目があった。深い緑の瞳。あのコとは似ていない、けれどその色の深さだけは一緒だと思考の片隅で思う。
「え、あ、うん。今日は仔牛とトマトの煮込みであとポテトキャセロールと、」
「俺も作ってやってた」
なんとなくで本日のメニューを列挙しようとした俺の言葉を、深く強いイギリスの声が遮った。思わず、口を噤んだ。
「俺も料理、作った。そんな得意じゃなかったけど、そんなの関係なくて毎日作った。キッチンだって新しくしたし、食器も3人分揃いで整えた。たまに失敗しても、いつも美味しいって食べてくれた」
「‥‥うん」
淡々と、イギリスは話した。するすると言葉が次から次へ紡がれて、途切れることなくまるで真夜中の問わず語りにも似た、深くて、誠実で、真摯な声だと思った。
「何だってした。アイツらの為なら何だってしてやりたかったし、そんなの苦でもなかった。料理もしたし掃除も洗濯も庭の手入れも子供の遊びもどんなことだって大切だった。大切だったんだ楽しかった。楽しくて楽しくて、だから、ずっとそんな日が続くんだろうって思ってた」
「うん」
知っていた。彼がどんなに子供たちを大事にしていたか。どれほど慈しんで、どれほど愛して、愛して、大切にしていたか。‥‥そんなの、今毎日俺の傍で笑ってくれるあのコを見れば、愛され抜いて育ったあのコを見ていれば、解りすぎるくらいに解る。
イギリスが、どれほど子供たちに愛情というギフトを与えたか。
アメリカとカナダから、福音にも似たギフトを与えられたか。
「フランス、」
圧力釜のたてる音、風に揺れるカーテンの影。
完璧に整えた室内、庭の手入れ、ベッドリネンやタオルの交換なんて。
そんなの自分がするなんて、‥‥誰かの、たった一人の為に、嬉しさに歌でも歌いだしそうな気分で家事をするなんて、そうだ、俺だって自分でも想像だにしなかった。
ああ、俺もあのコから、何物にも替え難いギフトを貰ったんだ。
「‥‥アイツは、お前を選んだ。だから、お前は俺より料理が美味くないといけないし掃除だって完璧でないと駄目だし庭も綺麗に整えてちゃんとまめに構ってやって呼ばれたら必ず返事をして休みになったら遊びに行って毎日愛してるって言わなきゃ駄目だ」
「俺より、カナダを愛さないと、幸せにしないと、駄目だ」
「‥‥はい。」
軽快な電子音が、ダイニングに響き渡った。
ハニーポットを抱えたクマが時間が来たと騒ぎ立てる。
クマといえば現在もこの家に住んでいるのだが、アレは大人しいシロクマでしかもカナダだけの絶対の味方だ。よくカナダのことを忘れているけれど。
キッチンに入り黄色いクマが抱えたハニーポットのスイッチを押して、コンロの火を止める。コトコトクツクツ、圧縮された空気が肉の中までとろとろと柔らかくしているだろう鍋の中身は、後はトマトの味が馴染むまでおくだけだ。
「‥‥じゃあ、帰る」
「え、何だよ、メシ食ってってもいいのに」
「いい。今日はカナダが戻ってくるんだろ、ちゃんと出迎えてやれ」
「‥‥ん、わかった」
大真面目にそんなことを言うイギリスはいつもどおりのふてぶてしいくらいの仏頂面で、けれど今日ばかりは茶化さずに素直に頷いた。
玄関へと颯爽とした足取りで向かうイギリスの後ろをついて、ポーチまで見送りに出る。
「じゃあな」「ああ」なんて、これまで数え切れないくらいに交わした、素っ気無い別れの挨拶。この挨拶を交わした回数は、イギリスとのものがきっと一番多い。他のどんな悪友たちより、‥‥カナダより。きっと多い。
「イギリス!」
後ろ姿を、呼び止めた。肩越し振り返る、金髪。
「‥‥なんだよ、」
「確かめに来ればいい。カナダが幸せかどうか、何度だって確かめに来りゃいいよ。大丈夫だから。絶対だから」
そう言いきった俺に、イギリスが目を剥くのが解った。深い緑の瞳、それから少しだけ笑う。
決して、俺達が愛しているあのコには似ていない、シニカルな笑みだったけれど。
‥‥やっぱり、少しだけ似てるなと思った、綺麗な笑みだった。
棚からメイン用とスープ、デザートの皿、グラス類とシルバーを出す。
結婚したとき一緒にあれでもない、これでもないと選んだ小物は、どれも大切なものだ。
ダイニングテーブルにはクロス、その上にはガラスボウルに放り込んだ庭で摘んできた鮮やかなグリーングラス。朝のうちに焼いておいたパンをバスケットに入れ、スープポットにレードルを引っ掛けてポットごとテーブルに持っていく。テーブルセットを終えてから一息、くるりと室内を見渡した。
夕刻を迎えた窓は、落ちた風の代わりに美しい水紅色の光がカーテンの縁を彩っている。
ソファの上の白クマが、無言でのそりと起き出した。
コンコンコン、と軽やかなドアノッカー。
さあ、本日二度目の極上笑顔もセッティング完了。
「おかえり、カナダ。愛してる」
「はいただいま帰‥‥って、えええ何ですか藪から棒に」
「んー?いやぁ、毎日愛してるって言わないとなーってね?」
「は、はぁ‥‥」
「うん。ごはん出来てるから。さ、荷物置いておいで」
「あ、は、はい。‥‥えーと、そのフランスさん」
「ん?」
背中を抱きこむように迎え入れてキスをしてから、コートと帽子を受け取る。書類は機密上受け取るわけにいかないから、彼専用の家内執務室に置いてくるように促して、ハンガーに掛けた帽子とコートの手入れをしようと後ろを向いた、‥‥ところに。
「‥‥ただいま、帰りました。フランスさん、愛してます。大好き」
「ッ、」
バッと振り返ったときにはもうカナダの姿はなかった。遠ざかっていく足音と、いつのまにかその傍に来ていたのだろう、彼の後を追うクマ二郎の、ふわっと白いしっぽが廊下の隅にちらりと見えただけだった。
のんびり屋のあのコにしては素早い逃げ足は、照れ隠しなのかな、とか。
‥‥しかし、まぁ。
「うーん、‥‥イギリスのヤツ、本当に毎日『愛してる』って言ってたな、ありゃ」
さらりと紡がれた愛の言葉。侮りがたし、保護者の愛情教育。
そんなことを思いながら、ダイニングへと足を向ける。
着替えてやってくる可愛いあのコの為に、さて料理を整えよう。
‥‥それまでに、顔の赤みが引けばいいのだけれど。
見渡した我が家の掃除は完璧。
明日の休みはずっと一緒に過ごして、夕刻になれば手を繋いでマルシェに行こう。新鮮な食材で美味しい料理を一緒に作って、ふかふかのベッドで寄り添って眠ろう。
そうして愛してると告げて、一緒に幸せになろう。
「‥‥愛してるよ、カナダ」
la fin.(2008.08.16)
お父様と旦那様。
パラレルだと遠慮なくお父様がカナを愛してくれるのが楽しいです(´ω`*)
あ、黄色いクマはアレですよ、イギんところのアイツです。