カナダはのんびり屋である。

彼自身はきびきびと動いているつもりであるし、決して怠けているわけではないのだから、周囲の評価も良い。良いのだが。

「んー‥‥」

のんびり、おっとり、ほわほわ、ふわり。
小首をかしげて、ほっそりとした指先でピカピカの調理台の縁を弾く。
目の前には市場で買ってきた新鮮な食材。
もしも彼とそっくり同じ顔な兄弟がその姿を見ていたならば、頭をかきむしって「ああもうっ、何で君はそうスローテンポなんだい?!」と怒り出したかもしれない。

「そうだ、あれなら!‥‥あー、でもなぁ‥‥」

ふわふわ、ほんわり、ほろほろ、おっとり。
ぽふりと手を打って微笑んだかと思えば、一転俯いて思案に耽る。
瑞々しい食材は、未だ瑞々しい原型のまま。
仮にいつまでも若々しい父親が見ていたならば、「くッ、可愛く育ちやがって‥‥ッ!ええっとカメラどこだ」と涙を浮かべつつ、愛する子どもの成長を記録すべくデジタルカメラ(『可愛いわが子の姿を逃さない、不器用なひとにも簡単便利!』が謳い文句の日本製、当たり前に最新モデル)を探し始めたことだろう。

カナダは、のんびり屋である。

しかしながらこの日の彼は、実際にはちっとものんびりしていなかった。
むしろ固い決意とやる気に、大変とてもこの上なく、満ち満ちていた。

目の前には調理前の食材。‥‥と、一通の手紙。

「‥‥うん、僕頑張りますね、イギリスさん!」

ふんわり、おっとり、ほわほわ、ゆったり。
のんびりな口調と裏腹の熱く固い決意表明は、ソファの上にまるまったシロクマの些かうんざりした視線を受けつつ、いつまで経っても調理の開始されないキッチンに、ふんわり響いたものだった。









事の始まりは一本の電話。

『今日帰るから!絶対帰るったら帰るから!!』
「えっと、あの、気をつけて帰ってくださいね」

仕事と立場の関係上、この家の住人は二人とも長期にわたって家を空けることなど、決して珍しいことではない。仕事の時間も内容も一定していないし、二人でのんびりゆったり過ごせたかと思えば唐突に目も回るほど忙しくなったりもする。スケジュールの変更なんて日常茶飯事だ。
とはいえ、甘い空気に満たされた休日の午後を過ごしていたところに飛び込んで来た呼び出し電話に「ちょっとだけ顔出してくるから。あ、プリン蒸し上がったらバットごと冷蔵庫に入れといて」と、普段着どころかエプロン(イギリスお手製フリル付き)をつけたまま出かけた人が、よもやそのまま一週間帰らないとは。

『‥‥‥‥‥‥‥‥何故か、スペインに、居ます。』

夜もとっぷり更けて、プリンもしっかり冷えたところにかかってきた電話を「プ、プリンは食べておきますね?」と切ってから、一週間。
毎日電話はかかってきたものの、回線の向こうの慌しい空気に巻き込まれるように慌しい会話で。「もしもしカナ俺だよ愛してるおやすみ!」と2秒で切られた日には、新手の詐欺電話かとカナダは既に回線の切られた電話片手に思ったものだ。

『あー、カナダに会いたい会いたい会いたい愛してる会いたい』
「はぁ‥‥。あ、プリン食べました、美味しかったですよ」
『うん‥‥お兄さん一緒にイチャイチャしながら食べたかったんだけどね‥‥』
「アメリカも『美味しかったぞ!』って言ってました」
『あああ俺の「カナダとイチャイチャしながらプリン食べさせっこ★作戦」がああぁあッ!』

電話向うで悲嘆に暮れるフランスをなんとか宥め、「夕方に必ず帰るから!愛してるよカナダ!」と言うフランスの声を最後に電話を切ったのが、本日早朝。
そしてカナダがとある決意を固めたのが、その次の瞬間。




(結婚してからこちら、いつか必ずと誓った『アレ』を、今日こそやるぞ!)




それからのカナダはといえば、それはもう熱心に働いた。
のんびりおっとりしている彼が素早い身ごなし‥‥まぁ、彼の兄弟よりちょっと遅い程度には、てきぱきと。
まずは自分の上司に連絡をいれて、今日から向こう3日ほどの休暇を申請する。馬鹿馬鹿しいほど忙しいフランスとは裏腹に、このところ(‥‥いや、普段からか)のんびりとした空気が漂っている自分の職場では、すんなりと唐突な休暇願いも受け入れられた。
電話を切った後は、一つ気合いを入れてエプロン(イギリスお手製帆布素材メイプルリーフ刺しゅう入り)を身にまとう。
部屋という部屋全ての窓を開け、丁寧に掃き清める。
洗濯物を片付けて、庭の手入れをして美しく咲いた薔薇を玄関へ飾る。
フランスが愛してやまないキッチンをテーブルから床までピカピカに磨いて、フランスお気に入りのベッドシーツへ交換して、フランスこだわりの猫脚の瀟洒なバスを丁寧に手入れして。
それから市場にでかけて、とびっきりの食材を購入して、キッチンにこもったところで。

‥‥動きが止まって、冒頭に戻るわけだ。









「うーん、『コレ』には絶対美味しいご飯がいるんだけどな‥‥選択肢の一つだし。でもフランスさんより美味しいご飯はなぁ‥‥」

ぽそぽそと、カナダの誰に言うでもない独り言は続く。
彼の目の前には採れたての山菜、今朝あがったばかりの魚介などなど。
日頃から「料理は調理より食材で9割良し悪しが決まる!(ただしイギリスを除いて!)」と言い切るフランスの言を守り、とりあえず一級の素材を揃えた。あとは料理するだけ、なのだが。

「あのひと、何作っても美味しいって食べてくれるけど、やっぱり本当に喜んでもらえるもの作りたいし‥‥」

カナダは決して料理が下手なほうではない。
古い友人であり、繊細な舌を持ち合わせていることではフランスに負けず劣らずな日本に「ああカナダさん、あの化学兵器‥‥いえパンキッシュで個性的な料理に育てられながらよくぞここまで立派に‥‥!」と涙ながらに言わしめた腕は、まあ標準ちょっと上、といったところだろう。
得意なところではフランス料理、スペイン料理、あと中華。

「好きなものっていうとフランス料理だよね‥‥でもフランスさんより美味しいフランス料理なんて無理だし‥‥。スペイン料理って出張先スペインだしさすがに駄目だろ。なら中華‥‥あ、調味料足らないや」

ぽそりぽそぽそ、カナダの独り言は延々続く。
実際のところ、フランスはカナダの作ったものならば何でも美味しいと言って食べてくれるに決まっているのだ。
そのことはカナダ自身も分かっているし、フランスの舌の好みだって既にしっかり心得ている。新婚ではあるものの、頻繁に料理を振舞ったり振舞われたりの恋愛時代だったのだから。‥‥保護者と兄弟の反対をかいくぐりながらの。

しかし、だ。

「今日は美味しい料理じゃないと意味ないんだってば!」

カナダは料理台の縁を叩いていた指先で、ぴんと一通の手紙を弾いた。
それは、イギリスから貰ったもの。
結婚に大反対だった彼が、いよいよ家を出るという日にプレゼントに添えて渡してくれた、大切な手紙。




『新妻の心得』




「‥‥あれ?えっと、何だったっけセリフ、間違えないようにしないと」
呟いたカナダは復習も兼ね、イギリスから受け取った封筒を開ける。
これまでにも幾度か読み返しているため封蝋(‥‥本来は機密書類など重要書類にしか押されない、イギリス本人だけが使用できるシーリングである。アメリカあたりがこのことを知れば、呆れ返ってまたイギリスと喧嘩になったことだろう)もすんなりと剥がれ、カナダは丁寧な手つきで折り畳まれた手紙を取り出して広げた。

「‥‥『ごはんにする?お風呂にする?それとも私?』だな。よし。」

のんびりふわふわした声で口にするには違和感のありすぎるセリフを、けれど何の衒いもなく復誦したカナダは、再び手紙を丁寧に折り畳み封筒に戻した。
そして封筒を手にしたまま、再びのんびりと考え込む。

‥‥お風呂は、大丈夫。結婚した際「これだけは!」とフランスがこだわった猫脚のバスタブは丁寧に磨いて、後はお湯を張るだけだ。長期の仕事で疲れてるだろうから、爽やかな甘い匂いのするバスオイルも用意した。髪を洗われるのが好きなひとだから、今日は髪を洗ってあげようと思う。シャンプーとトリートメントは‥‥うん、大丈夫、この前買い足した。あ、髪洗ってあげるなら爪切っておかないと。それから‥‥

コンコンコン ‥‥キィ

‥‥必要なのは美味しいごはん!疲れて帰って来るんだから、なにか疲れが取れるようなメニューでなくちゃ。あんまり奇をてらうんじゃなくて、やっぱりスタンダードなメニューがいいよね。となるとフランス料理が一番かなやっぱり。フランスさん食べ慣れてるわけだし。スタミナ回復ならやっぱりお肉メインのほうがいいけれど疲れてるんなら胃に負担の掛からないもののほうがいいだろうな‥‥貝かなぁ。魚介のスープ、いやリゾット。クリュディテ‥‥お腹冷やすの良くないし温野菜にしよう、きのことインゲンと‥‥。メインは白身魚でお肉料理はパスして‥‥




「‥‥カーナダ。今日はお出迎えはなし?」




パサリと、軽やかな音を立てて手紙が床に滑り落ちた。




「‥‥‥‥へ?‥‥え、ああ、あ?!」




つくづく、カナダはのんびり屋である。

のんびり、ふんわり、ゆったり、まったり。
キッチンに佇み考えに考えて、‥‥考えすぎて、時間の経つのを忘れていた。
窓の外は、すっかりと夜の色。
そして隣りには、金色の美しいひと。

「えええフランスさんッ?!な、なんで、え、いつ帰って‥‥?!」
「うん、さっき。ていうか‥‥、俺帰っちゃ駄目だったわけ?」
「え、あ‥‥!ち、違、」

‥‥少し、やつれたと思った。
それはそうだ、休みの日に何の準備もなく呼び出されてそのまま仕事で国外に行くなんて。
それはいつだって時間なんてないけれど、それでも長期に家を空ける時はあれを持って行ってとかこれ忘れないでとか荷造りして、‥‥あと、そう、行ってらっしゃいって、キスをするのに。出来ないままで。
出かけた時とは違う服装。向うで買ったのか、それとも出張先の友人の家に置きっぱなしの服でもあったのか。無造作に束ねた金髪。ああ、髪を洗ってあげようって思ってた。だって、髪を洗われるの好きなひとだから。‥‥僕が、フランスさんの髪を洗うの、好きだから。

(フランスさんのことが、好きだから。)

カナダの頭の中を様々なことが過ぎる。
けれど、言葉にならない。今はのんびりとしている場合ではないと思うのに、何故か言葉にならなくて、カナダはくっと息を飲むばかりだ。

フランスのため息が、耳を打った。

「なんならまた仕事行くけど。空港から直帰したから上司のところに行かないと、そしたらまた暫く帰ってこれな‥‥」
「行っちゃイヤです駄目!」

離れかけた体温を追うように抱きついた。
温かな体温。誰より慣れ親しんだ、フランスの匂い。
急に現れて、驚いた。‥‥急になくして、寂しかった。だから。

「ごめんなさいごめんなさい、違うんです‥‥!」
「‥‥うん、行かない、俺もごめんなちょっと意地悪言った」

疲れてて、と耳元で囁くように言ったフランスを、カナダはきゅっと抱き締めた。甘えるように凭せ掛けられる重みが、とても心地よい。
調理台に縋っていた、そのまま二人でキッチンに座り込む。昼間掃除したばかりの床はひんやりと滑らかで、いっそう互いの身体の熱が愛しい。キスの甘さが、愛しい。

「‥‥カナ、」
「ん‥‥フランス、さ‥‥ぁ、は」

互いの熱を貪り合うような深いキスを交わしながらエプロン越しに身体をまさぐってくる指先の感覚に、うっすらと霞みがかり始めたカナダの意識を不意に呼び戻したのは、‥‥視界の隅に捉えた、白い手紙。









「‥‥あああ!!!」
「ッああ?!」









背にまわし抱き締め引き寄せていた同じ腕で、カ些か強引にフランスは引き剥がされた。‥‥意外に腕力があるのは、小柄なベビーフェイスにも拘らず強大な権力を持つ保護者に似たのか、はたまたバッファローを軽やかに笑いながらブン回す兄弟の兄弟たる証明か。

「ちょ、カナちゃん首がグキッて‥‥、」
「『新妻の心得』が‥‥ッ、あああ‥‥」
「‥‥はい?」

気分的にも身体的にも盛り上がってきたところで強引に引き剥がされた挙句なんだか面妖なセリフを呟いてくたりと力を抜いてしまったカナダを前に、思わず間の抜けた声がでてしまったところで、フランスに罪はないだろう。‥‥ていうか、何。マジで。

「‥‥カナー?」
「うう、‥‥ごめんなさい」
「や、お兄さん本気で意味がわかんないんだけど‥‥それより、続き、」
「ご飯作れなかった‥‥」
「‥‥‥‥‥‥。」

カナダはくったりと力を抜いてフランスに抱きつく。
そんな可愛い愛しい人を、フランスはがっくりといろいろ持て余しつつ抱き締める。
傍目には数分前と全く違わない光景なのだが、どうやら二人の心情は全く違う方向へと行ってしまった模様だ。

フランスは腕の中のカナダに聞こえない、ごく密やかなため息をつくと、ともかくいろんなところを仕切り直そうと視線を上げて‥‥そして、気がついた。と同時に、いろんなことを若干脱力しつつ、諒解した。

‥‥あー、あの手紙ねー‥‥。

床にひらりと落とされた白い封筒は、実はフランスは以前みたことがあった。
当然その中味も、である。
結婚して間もない頃、ベッドサイドに無造作に置かれていた其れを読んだのは本当に偶然だったのだが、‥‥まあ、そのかっ飛んだ内容にフランスは「大英帝国恐るべし‥‥!」とつくづく思ったものだった。

‥‥ごはん云々、で俺が帰ってきたばかりってことは、アレか。アレなのか。

「なぁカナ、今日のごはんどうするつもりだった?」
「‥‥フランス料理、作ろうと思ってました。フランスさんの好きなメニュー‥‥」
「今日、家ン中綺麗だよな、掃除してくれたんだ?」
「だってフランスさん帰ってくるっていうから‥‥お風呂とか、帰る前にお湯張ろうと思ってたのに、張ってない‥‥」
「‥‥うん。じゃあ、カナは?」
「え?」

問いかけに、引き寄せられるように上げられた顔が、とても愛しい。
ふわりと揺れるメイプルカラーの髪。美しい湖水色の瞳。かけらもフランスのことを疑わない、信頼と親愛に満ち満ちた、端整な面差し。

‥‥すっとぼけた(ある意味感謝しきりの!)保護者の言葉を、正直に実行してしまう純粋さとか、本当に、もう‥‥ね?

「‥‥ごはんと、お風呂と、カナと。どれがいい?って、訊いてくれるんじゃないの?」

すうっと紅を刷いたように染まる頬と目の縁に、心のままにキスを贈った。

「あっ、あの、ご、ごはん作れなくってですね、」
「うんいいよ後で俺が作ったげる。ってかプリンももう一度作りたいし。今度こそ食べさせ合いしようなー」
「お風呂も掃除したんですけど、お湯張れてなくって」
「あとで一緒に入ろう、そのとき張ればいい」
「ああああのッ、僕市場から帰ってそのままで‥‥ッ!」
「ああ、じゃあ俺が言うよ」









「なあカナダ?‥‥『ごはんにする、お風呂にする、それとも、俺?』」









「‥‥‥‥‥‥フ、フランスさんで、お願い、します‥‥」









震える声で返された甘い甘い定番回答に、フランスは幸せを噛み締めつつもう一度仕切りなおして一週間ぶり、のんびり屋の可愛いひとの甘い甘い身体へと、ようやく手を伸ばしたのだった。

綺麗に清められたキッチンの床は、明日の朝にでもプリンを作る前に掃除しなければいけなくなったけれど。









la fin.(2008.08.29)

『新妻の心得』については元ネタのNナオさん宅の神漫画を参照で(*´д`*)
あとキッチンプレイは誰か書いてください書いてください。