住宅街の片隅、石畳を叩く靴音が夜に響いては溶けていく。
ゆっくりおっとり、けれど急いでいるような。なんともつかない足音は淡い残響を刻みつつ、けれど欠片の躊躇いもなく、何もかもが深い眠りに就いている街を渡っていく。
‥‥遠い東洋の国では草木も眠る時間と言うのだ、と。
歌うような声で教えてくれた、あれはいつのことだっただろう?
夜闇を歩きながら不意に過ぎった記憶の欠片に、口の端だけで笑った。
笑ってから、そういえばしばらく笑ってなかったっけ、なんて。神経をすり減らすような仕事の連続だった、ここ暫くの余裕のない状況を思う。
それから、思い出の欠片でさえ容易に笑みを与えてくれる存在を、想う。
夜の街、緩い足音、息の音。馴染んだ街の空気、街路樹、石畳。最後の角を曲がって。
自分が帰るべき場所に、自分の為に灯された玄関灯。
淡く暖かな灯りを目にして、カナダはもう一度、微笑んだ。
カチリと小さな音がして開錠した玄関扉を、カナダはそっと開いてそっと身体を滑り込ませる。音は極力立てないように。普段はシャラリと賑やかに声を上げるキーケースさえも丁寧に押えて音を殺した努力の甲斐あってか、フットライトのみの邸内は静寂に満たされたままだ。
意識して息をゆっくりしながら、カナダはネクタイのノットへと指を挿し入れて首を楽にする。もともと荷物は無い、決済した全書類は疲れきった上司ににこやかに押し付けて帰った。コートは薄暗い玄関先に放り投げた、明日怒られるかもしれない。廊下を進みながらちらりと目を向けたキッチンは、明かりを落とされて闇に沈んでいる。リビングも同様。暗がりの中ソファの向うに白いもこもこした陰がチラリとみえて一瞬足を止めかけたが、結局そのまま通り過ぎた。
突き当たり、階段。一段一段踏みしめるようにして上がりながら見た、採光窓からは光の代わりに夜が降ってくる。
草も木も眠るという、深い深い夜の底。
引き開けた寝室で眠る恋人に、カナダはゆっくりおっとり、そして華やかに微笑んだ。
しばらく、忙しかったのだ。家に帰る暇すらなかった。
仕方がない話だと割り切りは出来ている。それは互いにだ。職務を全うすることは誇りであり、喜びでもある。
けれど、それとは違う喜びも、知っている。
ベッドサイドに腰を下ろし、眠る彼に静かに手を伸ばす。
普段ならば即座に絡めとるように伸ばされる腕はなく、ただ、そっと額に指先を触れさせた。あたたかい。カナダは声もなく微笑む。あたたかい、優しい柔らかい、彼の温度だ。
自分に喜びを、笑顔をくれる温度だ。
「フランスさん」
密やかに、その名を呼ぶ。同じく疲れ切っているだろう彼を起こさないように、ごく僅かな、囁く声で。眠り込んだフランスからは、当然返答もなにもない。何もないのに。
‥‥会えただけで、こんなにも嬉しい。
「仕事は、楽しいです」
眠るフランスの髪を撫でながら、カナダは呟いた。少し長めの、ふわふわとして触り心地のよい金髪。幼い頃、強く大きな兄とも同じ顔のきょうだいとも違う金色に、ぼんやりと憧れていたことを思い出す。
「役に立つのは、嬉しい」
仕事は大事なことだ。やはり幼い頃、凛と背筋を伸ばして働く兄の背中を見ていた。強く強く、あれは自分たちを守ってくれる背中だった。
いつか自分もあんな風に、守ってくれる兄を、手を繋いで過ごしたきょうだいを、‥‥そして、美しい金色の彼を。寄り添って、守ってあげるのだと誓っていた。
誓い合った。
「‥‥好きです。仕事も、貴方の傍にいれることも」
其れこそが僕の喜び。
ふわぁ、とひとつ大きくあくびをする。それが呼び水となったのか、途端に襲ってきた眠気にカナダはシャツのボタンを外しながらうっそりと立ち上がった。多少ベッドが揺れたようだが、フランスは深く眠り込んでいるのか起きる気配はない。
「だって草木も眠る時間だもんね‥‥」
眠気にぼんやりとし始めた思考の片隅で埒もない事を考えつつ、バサバサと適当に服を脱いでいく。シャワーでも浴びようかと一瞬考えたものの、いい加減行動する限界を突破しそうな身体がとっととベッドへ行けと喚く命令に逆らわないことにした。今朝職場のシャワールーム使ったからいいか、と眠気覚ましにやった水浴び(湯ではない)を言い訳にして、下着だけ換えてそのままベッドへと再び向かう。
しっとりと重みのあるシーツをはぐり身体を滑り込ませれば、ふんわりとした、自分に馴染んだ温かさがカナダの身体を包む。大好きな温度に、殆ど無意識で笑った。
「あったかー‥‥うー、フランスさん、いい匂いー‥‥」
半分以上眠った思考が繰り出す、寝言めいた言葉を呟きつつもそもそと寝台の中を移動するカナダにもフランスは気がつかないらしく、深く息をしつつ眠る恋人の身体にカナダはぴとりと己の其れを寄せた。さらりとした素肌の感触が気持ちいい。あたたかい。
あたたかい、優しい、これは自分を守ってくれる温度。‥‥自分が守るべき温度。
掛けっぱなしだった眼鏡のブリッジに指先を掛けて外し、サイドボードのほうへ放り出す。カシンと若干不穏な音がしたが、眠気の勝った思考はどうでもよいことと捉えた。
身を寄せた身体から伝わる熱に、霞がかった意識がほろほろと崩れるようにほどけていく。
‥‥ああ、その前に。
カナダは眠りたがる身体を僅かに起こして、そっとフランスの唇をついばんだ。
「おやすみなさい、フランスさん。貴方の明日が素敵なものであるように。貴方の幸せが、僕の喜び。‥‥頑張るんだ」
囁くように祈るように、決意の言葉を大切な人へ捧げて。
忙しかった一日が終わる。そうしてまた素敵な一日を、恋人の傍で迎える為に、カナダはゆっくりと眠りへ落ちていった。
the end.(2008.10.26)
一日の終わりに祈りを
帰るべき場所 貴方は私に微笑を歓喜をくれるひと