Happy birthday、親愛なるひとへ。あなたの誕生をお祝いします。
磨き抜かれた大理石のようだと言われたことがある。
或いは、熟練の職人により織られた極上の絹、だとか。
艶やかでまろやか、毅然として気品に溢れ。
そして、世界のすべてより美しい、と。
賞賛の言葉は尽きたことがない。何時の時代も、どんな相手からも。‥‥この歌声に幸せを乗せて。
「‥‥‥‥あれぇ?なんで、英語なんです か?」
薄闇のベッドルームを満たしていた歌声が途切れる。促したのは、メイプルシロップのようにとろりと甘い、すこし掠れた声。
フランスは形の良い唇へ紡いでいた和やかな歌の代わりに甘やかな笑みをうっすらと刷くと、腕の中で眠るひとの甘い唇へゆっくりと触れるだけのくちづけを落とした。
それは先ほどまで数え切れないほどに交わした互いの性感を高めあうようなものとは違う、ひたすらに柔らかい愛情を乗せた其れ。ちゅ、ちゅ、と小さな音を立てながら、結婚して間もない誰よりも愛しい人物を、唇で優しく愛撫する。んぅ、と吐息のような可愛い声が聞こえ、フランスはこみ上げる愛しさそのままに腕の中の身体を抱き締めなおした。
「ごめんな、起こしたか?」
カナダ、と。
大切な名前を耳へと囁き込めば、フランスの腕の中に収まった身体がふるりと震えた。
未だしっとりと濡れた感触の素肌は熱く柔らかく、フランスの其れにぴっとりと寄せられている。しなやかで瑞々しい感触は、それが己よりずっと年下の相手だからか、‥‥あるいは、唯一無二の、恋人だからか。
「‥‥ん、いえ‥‥、寝てたわけじゃ、ないし」
「そう?」
どう聞いても眠りの淵に片足どころか半身以上を浸したとろりと蕩けた声ではあったが、フランスはそれには如何こう言わずに軽く声を返すに留めた。その間も、目のふちや額、耳殻へと甘くあやす様なキスを降らせては時折控えめにあがる恋人の甘い喘ぎ声を楽しみつつ。久しぶりの触れ合いに、些か過ぎた感も無きにしも非ず、だが、見たところ特段に苦しそうな様子がないのでとりあえずは善しとしておこう、と気を取り直す。
だって、遠方への出張から帰ったその日だし。
新婚なのだから、これくらいは許されるだろう。
身勝手といえばそのとおり、けれど世界の大多数は頷くか苦笑でもして許してくれるだろう言い訳をフランスは胸のうちで呟いて、先ほどまでありったけの愛を注ぎ込んだ恋人を改めて抱き直すと、寒いところが無いようにと自身もろともに上掛けですっぽりと包み込んだ。淡い衣擦れがベッドルームに響く。
「んんん、ふらんすさぁん‥‥」
「ほーら、もう寝ていいよ、ていうか声だけ先に眠ってるぞ?」
「ん‥‥」
どこかむずがる幼な子のような仕草に、フランスは苦笑しながら緩やかに背中を撫でてやる。
緩やかな睡眠の森へと誘う手のひらを、けれどカナダは直ぐに取る気は無かったらしい。うーだの、むーだの唸りつつ、その額をフランスの鎖骨の辺りへと擦りつけている。やはり、子どものようだ。眠いからだろう。
「えーご、なんですね‥‥」
「ん?」
「英語。さっきの、歌。めずらしかったから、フランスさんが歌うの、英語で」
「ああ、それか」
眠気の勝った声でも、その意味は判った。
フランスは、英語を滅多に使わない。というか、実のところあまり話せない。
無論、英語という国際言語、ある種の共通語としての地位は(不承不承ながら!)認知しているし、この国のエリートとして恥ずかしくない程度の語力は持ち合わせている。が、やはり自分の母国語、この美しい言語に勝るものはないという気持ちは揺らがず、許される場所であればすべてフランス語で押し通していた。
カナダとの会話は仏語をメインに英語が時折混ざるが、細かいニュアンスを伝えたいときや愛を囁く言葉は、すべてフランス語だ。そして恋人が言うとおり、せがまれて時おり披露する歌声は英語の時も皆無ではないが、大抵はフランス語か、でなければ仏語と同じくらいに美しいイタリア語で歌う。
「めずらしいです‥‥何か、あった?」
「んー、いや、ちょっと歌ってきたから」
「どこで?」
「日本で。出張先でね、ちょっと機会があったから」
それは、ほんの3日ほど前のことだ。
日本での短期滞在出張は、組まれていた仕事を順調すぎるほどに順調に消化し終え、帰国予定日を前にまる一日日程が空いてしまった。
一日程度では京都など『日本らしさ』を楽しめる場所に行くには足らず、かといってひとりホテルのプールやジムで汗を流す、というのもバカンス先ではないのでなんだかしっくりこない。というわけで、何だかんだと付き合い深い、年上の友人の屋敷を訪れることにした。約束は取り付けていないが、居なければ居ないで彼の屋敷周りを散策するのも好いだろう。物静かな彼の屋敷周りは静寂に満ちて、とても居心地がよい。‥‥と、ふらりと訪れたわけだが。
「おやおや。いらっしゃいまし、フランスさん」
「ああ、久しぶり‥‥と、悪い、来客か?」
突然の訪問にも控えめな笑顔で出迎えてくれた日本はいつものとおりであったが、普段は静謐で静寂な空気が満たされている彼の屋敷は、どこか華やいだ、祝祭の雰囲気を湛えていた。
屋敷の奥‥‥庭園のほうに、人の気配がある。見れば日本も普段の和服姿ながら、常よりやや華やいだ色あわせの衣装だ。察するに、祝事の途中であるらしい。
「すまない、機会が悪かったな。特に用は無いんだ、こちらに来たから寄っただけで。今日はこれで‥‥」
不在より悪かった、と己のタイミングの悪さを軽く呪いながら、フランスはそのまま玄関先で辞去しようとしたのだが。
「あ、いえ!あの、よろしければお上がりになってください。来客がおりますが、‥‥できれば、お祝いを一言いただければ、と」
「え?」
日本の言葉に軽く目を見張ったフランスは、その後はにかむように笑った友人に是非にと促され屋敷奥にある中庭に通されつつ、彼の言葉の意味を説明された。
なんでも今日は、彼の近所に住まう女性の誕生日なのだそうだ。『彼』としての仕事とは無関係のごく個人的な友人で、パーティというにはささやかな、身内で持ち寄った菓子やお茶を楽しみながら談笑し言祝ぎを述べる、そんな集まりらしい。
「主旨は解ったが、‥‥いいのか?」
「勿論ですよ。お祝い事に祝い過ぎ、なんてことはありません。フランスさんのほうでもほら、あるでしょう?教会での婚礼で、通りすがりの方が祝福するとか。‥‥ふふ、それに」
「?」
飴色の廊下をヒソとも足音を立てず進む日本が、不意に笑いフランスへと向き直り。
「今、つかんだ幸せを噛み締めていらっしゃる貴方にお祝いいただけるのは、幸せなことだと思いますよ?」
ご結婚、おめでとうございます、と。
それは思い出というには新しい記憶。まだ真新しいリビングであの子と二人並んで聞いた台詞と、まったく一緒の言葉を、再び告げられる。
幸せを噛み締めて、隣りに座って照れたように笑う『幸せ』なあの子と一緒にもらった、友人からの言祝ぎ。
「‥‥そっか」
「そうですよ」
「じゃあ、お兄さんの幸せおすそ分けしちゃおっかな」
「はい、是非。」
庭に下りると、なるほど縁側や中庭に置かれた飾り石の傍などで、幾らかの人間が控えめな談笑をしている。とくに畏まった格好の者はおらず、本当にプライベートな集まりのようだ。
フランスがくるりと視線を巡らせれば、中に少しだけ着飾った若い女性の姿があった。朗らかに笑いながら何事かを話しており、その話し相手が日本式のお辞儀をしているところを見ると、きっと彼女がそうなのだろう。
突然の来訪者にも目顔で柔らかく挨拶してくる日本の友人たちに如才なく礼を返しつつ、フランスは付き添ってくれる日本へと小さな声で問いかけた。
「ええっと、こういうときって日本じゃなにか、決まり文句とかあるわけ?」
「いえ、特にはありませんが。普通に、誕生日おめでとうございます、だとかでしょうかね。あとはまぁ、フランスさんのお好きな言葉で。通訳ならいたしますから」
「うーん、そういう定型文句もアレだしな‥‥あ、じゃあさ‥‥」
フランスの提案に、ほんの少しだけ目を見張った日本は直ぐに微笑み、でしたらこの曲を。と西洋からの美しい訪問者に伝えたのだった。
「‥‥で、Happy birthday to you?日本語の歌じゃなくて?」
「だね。まぁ、あの国は英語を話すのが下手なわりに英語が浸透してるからな」
「ふぅん‥‥」
すりすりと擦り寄ってくるカナダの寝入りを邪魔しないよう、囁くように小さな、そしてゆっくりとした声でフランスは日本での出来事を話していった。
実際、日本に「この曲を」といわれた時には不思議に思ったものだ。
日本では、英語は公用語ではない。勿論英語教育は為されているが、普段使いの言語というわけでもない。なのに何故、とフランスが思ったところで不思議ではないだろう。
これについては日本が苦笑しつつ、誕生日を祝うという習慣は西洋の文化が流入した頃から普及したものですからね、と教えてくれた。そういえば私も昔、アメリカさんに歌っていただいたことがありますよ、とも。
『誰かに真正面から祝っていただくというのも、なかなかに嬉しいものだと思ったものです』
少々照れくさいですけど、そう言ってはにかんだ友人は、けれどきっとこの曲を大切に思っているのだろうと微笑ましくさえ思う笑顔で。
単純で素朴なフレーズの繰り返し。
ただひたすらにその誕生を祝うと、おめでとうと告げる歌。
「‥‥まぁ、喜んで貰えたんならいいけどなぁ」
唐突に現れた見知らぬ金髪男性からバースディソングを贈られた女性は、やや驚いていたようだが、歌い終え優雅に深く一礼したフランスに「ありがとう」と返してくれた。その後、日本に二言三言話した後、今度は「Merci.」と。日本と同じ、笑顔をして。
「きっと喜んでもらえてますよ」
「そうかな」
「僕だったら、嬉しいなぁ」
「そう?」
眠気にとろとろとした声でそれでも会話に付き合ってくれる恋人は、目を閉じてフランスへと寄り添いながら、歌うように言った。
「フランスさんの歌声、とっても素敵だし‥‥それに、おめでとうって、優しい、幸せな言葉じゃないですか。‥‥嬉しかったよ」
「‥‥そうだな」
さ、もう寝よう。そう言って話を切り上げたフランスは、もうほぼ眠ってしまって返答もないパートナーが寝易いようにと枕代わりの腕を首下にもぐりこませ、上掛けをなおす。軽く髪を梳いてから子供にするように肩や背を撫でて、ゆっくりと深くなる寝息を聞いていた。
「幸せな言葉、か」
ぽつりと、呟く。寝入ってしまった恋人からの、返事は無い。
たくさんの人に祝ってもらった。
遠方からはるばる駆けつけてくれた日本や、スペインやプロイセンといった悪友、可愛がっていたイタリア兄弟、近所としてそこそこに付き合っているドイツやスイス。
そして親友で腐れ縁で、カナダの兄弟であるイギリスと、アメリカ。
おめでとう、と。
それはとても単純でとても素朴で、とても純粋な言祝ぎ。
そして何物にも代えがたい、優しく幸せな想い。
それを、世界一大切なひとと一緒に受け取れた自分は。
「‥‥そうだな、幸せだ」
(嬉しかったよ)
密やかに呟いて、フランスは目を閉じる。
隣りにはあたたかな恋人の体温。寝息。朝起きれば挨拶をして、一日の始まりを祝うキスを交わす。それはなんて幸せなことだろう。
静かに、息をはく。そしてもう一度、世界が賞賛する歌声を、そっと。
「Happy birthday to you. Happy birthday to you.Happy birthday, dear...」
願わくば、あの女性の道行きに幸せの多からんことを。
日本の、悪友達の、ドイツのイタリアのスイスの、‥‥イギリスの、アメリカの。
‥‥俺たち、二人の。
その世界が、美しく優しい幸せに満ちたものであることを願って。
世界と大切な恋人に捧げる子守歌のように、幸せの歌を紡いだ。
la fin.(2009.01.13)
誕生という生命の神秘をただ敬虔に言祝ぎます
誕生日おめでとう 誕生日おめでとう
あなたとあなたを取り巻く全てのものに幸せのあらんことを希います