現在の住まいは、フランスのご自慢であり、お気に入りだ。
幾つもの設計事務所をあたり、信頼できる建築士と施工業者を頼んだ上で設計段階から密に関わったこの家は、小さいながらも住み心地がとても好い。
少し古風で意匠を凝らした玄関。天井は高め、廊下は落ち着いた飴色。自然光を生かせるよう採光窓は四季の太陽高度まで計算して位置取りした。ゆったりとくつろげるようにリビングは広く、寝室は濃密に愛が囁けるように、少しだけ狭く。
とりわけキッチンは、動線をきちんと計算して器具を配置したフランスご自慢のキッチンだ。料理にこだわりを持つ彼らしいといえば彼らしいお洒落で機能的なデザインに、フランスの他にはもう一人だけこのキッチンの主となる資格を持った人物はふんわりと優しく笑って、おっとりと甘い声音で素敵ですね、と言ってくれたものだ。
「フランスさん、トマト何個?」
休日の昼下がり、リズミカルで軽快な包丁の音に、その甘く愛しい声が背後から重なる。
フランスは料理台に向かって立ち、目の前のタマネギをやや大きめに切り揃えながら、振り向かずに返答した。
「2個。‥‥いや、3個かな」
はぁい、といつもどおりにおっとりとした返事は後方、やや下方。
キッチンの床に作りつけた食料庫を開けて、スペイン語の焼印が入った木箱から赤く熟れた果実を、どれがいいかな、とやはりおっとりと選んでいる。
振り向いて見ずとも判る、それはいつもの光景。二人の日常。
「トマト、もうちょっとでなくなりますね」
「ああ、そうだな。‥‥はじめ送られて来たときは血液がトマトジュースになるくらい毎日トマト生活になると覚悟したモンだけど」
「あはは」
フランスの軽口に、軽やかな笑い声。でも僕トマト好きですよ、なんてフォローも、やはりおっとりとした甘い声だ。
トマトはフランスの長年の友人、というか悪友が隣国から気前良く送ってくれた代物である。普段から太陽のように陽気で、細かいことは気にしない豪快さを持ち合わせた悪友からの「トマト収穫したから送るわー」という電話は、料理好きなフランスと意外に食いしん坊な恋人には嬉しいばかりのものだった、のだが。
「まさか木箱いっぱいに送られるとは‥‥」
「ふふ、でもスペインさんらしいですよね」
「まぁな」
背後から聞こえる小さな笑い声に、フランスも苦笑する。まさか宅配業者が2人がかりでようやっと玄関に運んできた木箱の中身全部が赤くて瑞々しいトマトだなんて、誰が思うだろう。あんまりの量に、木箱を運び入れてくれた業者の若者におすそ分けしてしまったくらいだ。
「スペインさんてば、『ユーロはあれへんけどトマトはある!』とか電話口ですっごく自信満々な口調で言うんだもん。思わず笑っちゃった」
「ああんスペインさぁん、ユーロ大事にしてよユーロ!」
「でもトマトも大事ですよね」
「大事だな、うんうん」
生真面目な口調の軽口の応酬は背中合わせ、二人分の笑い声。
タマネギをカットし終え、深めのポットにまな板から包丁でこそげるようにして一気に移す。中には既にキューブ状にカットしたジャガイモ、ニンジン。ローリエなど、幾つかのハーブ。フランスは野菜の詰まったポットの中身を暫し見たあと、左上に手を伸ばして開けた保冷棚から、パンチェッタを取り出した。ここ暫くの朝食に出していた美味しい生ベーコンはもう購入してきた時の半分以下の大きさだ。‥‥下味も兼ねてこれも入れて使い切ってしまおう。この後の買い物は肉屋経由、確定。
「フランスさん、お湯沸いた?」
「沸いてる。右のコンロ。熱いから気をつけて」
「はい。それじゃトマト、湯剥きしますねー」
「お願いしますネー」
煮立った湯の中に赤い果実が落とされる音。それを背に聞きながらフランスはハム用ナイフで生ベーコンを削ぎ落とし、鍋へと直接入れていく。
背後の水音も、肉身を削る静かな音も。換気口も兼ねた採光窓から降り注ぐ光に相応しい、平和で温かな、日常の音だ。
「トマト料理と名のつくものは作り尽した気がするな‥‥」
「ですねぇ。あはは、トマトなくなってからもトマト料理食べたくなりそう」
「はっ、もしかしてそれがスペインの策略か?!」
「ふふ、トマト買ってっていう?‥‥フランスさん、トマト冷水にとります」
「じゃ、お兄さんにボウルごとちょーだいな」
パンチェッタの最後のひとかけはキューブのまま深鍋に放り入れて、フランスは滑らかな動きで左へと一歩。
視線は右へと固定して。
そうして、入れ替わる形で右隣に冷水に浸ったトマト入りボウルともう一人のキッチンの主を迎え入れる。
「はい」
「ん、ありがとね。‥‥ご褒美」
野菜と肉の入った深鍋の隣りにボウルを慎重に置いたカナダの左頬へ、ちゅっと小さくくちづける。
くすぐったそうに笑った彼からお返しのキスは僅かつま先立って、瞼の縁に。
それから、しっとりと唇を合わせる。
メイプルシュガーカラーの髪が空を泳ぎ、採光窓から零れ落ちる昼の光を弾いてまたたく。そうして一頻り、じゃれるようなキスの応酬。
寄り添って触れ合う、それはいつもの光景。二人の日常。
「‥‥じゃ、あとはお兄さんにまかせてな」
「はぁい」
最後に耳を食むようにキスをし囁いてから肩を抱き込んで下がるよう促し、一歩ひいたカナダの立っていた場所へと再びフランスは移動する。右へ一歩。そうすれば目の前には、深鍋と茹でられて皮を薄く浮かせたトマト入りのボウルだ。
ふと、背後から感心したような吐息が聞こえた。
「カナダ?」
「いえ。‥‥本当、このキッチン使いやすいなぁって。一緒に働いてても、全然ぶつかったりとかしないじゃないですか」
「ああ、それ」
フランスはトマト入りの鍋から湯を切りつつ、振り向くことなく応えた。
そう、この家はフランスのご自慢で、お気に入りだ。
設計段階から深く関わって、納得のいく住み心地良い住まいを作ろうと頑張った。玄関も廊下もリビングも寝室も。そして、このキッチンも。こだわって、努力して。
可愛い恋人と結婚する為、可愛い恋人を迎える為に。
大切な大切な、この子と。ずっと一生、仲良く過ごせるように。
「‥‥かーなり考えたからねぇ」
返されるのは、そうなんですか、なんておっとりとした甘い声。
それはしっくりとキッチンに、この家に馴染んで、降り注ぐ光に混ざってフランスご自慢の二人の住まいを優しく彩る。
「カーナダ。これ作り終わったら市場行こうか。パンチェッタ使いきった」
「あれ、そうなんですか?じゃあ他にも買うものないか、僕チェックしてますね」
「ん、お願い。あ、トマトはまだ要らないよー」
「あはは、判ってますってば。‥‥えっと、ベーコンでしょ、パプリカとー、オイル類は‥‥」
まだ熱いトマトから皮を剥ぎ取りながら、背中で優しい声を聞く。
冷蔵庫を確かめ、戸棚を開けて調味料のストッカーをひとつひとつ指先でなぞるように確認して。
振り向いて見ずとも判る、それはいつもの光景。二人の日常。
これからもずっと続く、幸せな日常。
‥‥ああ、確かにこの家は自分のご自慢だけれども。
本当の自慢はこの家で過ごす、背後から聞こえる甘い声音の愛しい彼との日常なんだ、と。
陽気な悪友に電話でもしたら、『トマト食ってもっと幸せになりやー』なんてまたトマトを送られるかもしれないな。
そんな埒もないことを考えながら、赤くて甘いトマトを深鍋へと放り込んだ、甘く幸せな休日の昼下がり。
la fin.(2009.02.08)
幸せな日常、日常が幸せ。大事で、素敵なことです。
因みにこのお家は、兄ちゃんが結婚前に結婚する気満々で(笑)建てました。
お父様と兄弟の激烈な反対と戦っていた頃です(´∀`)
住むところ、ご飯、仕事とお金。どれも大事。