そこは全てが揃う、天国の食卓。
手熾の炎が夜が忍び込んできている室内の一角を淡く浮かび上がらせている。
人工照明とは違う温かみのある光は蕩けそうなほどに柔らく、仄か。
けれど、それで良かった。
光は、小さな食卓とそれを囲む恋人達を照らしていればよい。
「‥‥お前への、愛に」
「ふふ。‥‥貴方への、この想いに」
密やかな声に重ねてごく軽く触れ合わせたアペリティフのグラスが、愛らしささえ感じさせる軽やかな音色で食卓と恋人達を祝福する。
アンティパストはアーティチョークと香草のクリュディテ、林檎のビネガードレッシング。甘酸っぱいドレッシングが驚くほどの爽やかさでアーティチョーク独特の渋みをくるんでいた。
クリームスープには濃厚な海の味を惜しげもなく引き連れたオマール海老が、静かに横たわっている。
オーブンで焼いたトマトは甘みを増し、刻んだバジリコとトリュフを刻みいれたオイルパスタに添えられて、鮮やかな赤。
昼間二人で出かけたマルシェで仕入れた新鮮な岩魚はムニエルにして、炒めたオニオンの褥に。
小牛の臓物煮込みは友人に教わったフィレンツェ風だ。付け合せのレンズ豆とネギがどこか牧歌的な甘みを加えて舌にとろける。
デザートはマチェドニア。新鮮でカラフルなフルーツがクリスタルグラスのボウルいっぱいに満たされて、甘い甘いシロップの匂いが食卓を柔らかに包んでいた。
「美味しい?」
「はい。すごく」
そして、甘い甘いシロップ以上に甘い、甘い恋人達の声が、食卓を優しく満たしていた。
美味しい食事にすっかりと満たされた恋人達は、銀器を置いて囁き交わす。
「フランスさん、食後酒どうしますか?お昼に市場で買ったリキュール、僕ちょっと飲んでみたくって。あとね、チョコレート、家からこっそり持ってきたの美味しいから‥‥」
「俺はお前がいいな」
美味しいお前が、食べたい。
甘く艶のある囁きは、春の空色をした瞳の人から。
ゴージャスでエロティックな、極上の笑み。
(きれいなひと。)
仄かな光にも眩い、美しい恋人。
熱いキスを交わしながらふっと消された炎の向こう、あとは互いの熱を拠りどころに、甘く濃密な天国への門を二人、押し開けた。
こじんまりとした寝室内を満たすのは、窓から差し込む爽やかな朝の光と耳をつんざく電子音。
音自体は軽やかながらも如何せん音量が尋常ではない其れは、アラーム・クロックというそのものの正体に対する存在意義としては、至極正しい。
尤も、それでも起きない部屋の住人達を前にして、もしも目覚ましに心があったなら、それはそれは虚しさを感じたことだろうが。
目覚ましが職務を果たし続けて約3分、こんもりと盛り上がったシーツの隙間から、漸く白い腕が彼に伸ばされる。‥‥些か乱暴な扱いには、もしも目覚ましに心が、と思いを馳せるまでもない。
そうしてようやっと朝に相応しい静寂が訪れた寝室にて、朝らしいといえば朝らしい、しかしながらその人のスタンダードといえばそのとおりな、おっとりのんびりした行動が開始される。
目覚ましに伸ばしたきり、ぱったりとベッドサイドから零れ落ちていた腕が、ぱすぱすとサイドボードの上を叩いて、そうして指先に触れた眼鏡をぞんざいな仕草で掴み取る。‥‥が、そこまでで力尽きたのか、またしても動きを暫く止めてから、やっぱりまたしてもおっとりのんびり、青年の上体が起こされた。
スルリと滑り落ちたシーツの下、華奢とまではいかないがほっそりとした身体は、激しく甘い所有印も鮮やかな、素肌だ。
「ぅむー‥‥‥‥」
言葉未満の唸り声を上げてから、そこで漸く掴んだままだったメガネを掛ける。握りこんでいたせいで指紋がついているのだが、まったく気にした様子はない。‥‥もともと、結構に大雑把な性格なのだ。
「ふらんすさん、朝でーす、起きてくださーい‥‥」
くぁ、と大きなあくびをした後、やや舌の回っていない声は、すぐ隣りに眠るひと、というかシーツのかたまりに。彼が身を起こして滑り落ちた布のぶんだけ嵩が増し、人なのか単純にシーツの山なのか微妙なフォルムではあったが、まぁさすがに結婚し、一緒に暮らし始めてからこちら見誤ろう筈もない。狙い過たず、ぺしぺしとその頭を軽くたたく。
その拍子に、ぱらりとシーツの隙間から朝陽も斯くやのきらめくプラチナブロンドが零れておちた。
「起ーきーてーってば。朝ですよ、フランスさん」
「ぅ‥‥ー」
「今日は朝ごはんフランスさんが作ってやるって言ったじゃないですか。起きてー」
「‥‥‥‥‥‥カナがキスしてくれたら、起きる‥‥」
「はいはい」
ちゅ、ちゅ、と音のするキスを、まだ瞼が閉じられたままのパートナーの頬と額にカナダは落とした。その拍子に、ふわ、とさっきまで一緒に包まっていたシーツの温かな空気と、フランスの、‥‥否、自分とフランス、二人ぶんの汗や精の匂いが鼻先を掠めて、カナダはうっすらと頬を染めたものだ。
「ほら、起きてってば。お腹空いたよ」
「‥‥うーぃ」
幸いにも、そんな朝から艶かしいカナダの姿は眠気の勝るフランスの目には入らなかったらしい。というか、目を開けていないのだから入りようもなく、カナダは尚もむずがるようにシーツにくるまって動くフランスに苦笑しつつ、ベッドから降りてバスルームへと向かった。
「しまった、何もないな‥‥」
「あー‥‥」
二人して覗き込んだ限りなく空に近い冷蔵庫に、残る眠気にぼんやりとした声が響く。
彼らは、昨日出張から戻ったばかりであった。
そもそも二人が二人とも少々長めの出張で、家を空ける前に食品類は全て仕末していたのが始まりだ。急な出張というわけはなく、ずいぶん前から予定に組み込まれていた其れは、明確な終了予定日がたてられておらず、そのせいでタマゴや葉ものの野菜などアシのつきそうなものは勿論、比較的保存の利く根菜類や燻製肉の類まで使い切って家を出たのだ。
どちらか先に帰宅したほうが、買い物に出ればいいだろう、と。
実際、買い物に出る時間はあった。さすがに午前中に帰宅することはフランスもカナダも叶わなかったのだが、午後、日もとっぷりと暮れてはいたものの日付を跨ぐにはまだまだ早い時間帯には帰宅することは出来ていた。あの時間であれば市場は無理でも大手のスーパーマーケットであればまだぎりぎり開いていただろう。
が、少々予定外だったのは、出張から戻る日が見事に重なったことだった。
仕事は勿論それぞれの事情によるもので、当然出先もまったく別の場所だ。こんな偶然は滅多にない。
出張先で電話をしつつ、その事実に驚いたあと、嬉しくなって。
「じゃぁ、先に家に帰ったほうが熱烈にお出迎えしよう!」なんて、他愛のない戯言を交わして電話を切って。
双方が息せき切って帰ってみれば、なんと帰宅する時間まで重なるという偶然を、まぁ、素敵な運命だと花の咲いたことをまだまだ新婚真っ只中な双方が思ったところで、不思議ではなく。
「ここは一つ、熱烈にお出迎え、しあってみよっか?」
「あはは。‥‥こんな風に、ですか?」
そうして交わしたキスを皮切りに、とるものもとりあえずリビングで熱く、それからバスルームでじゃれるように一度。後は二人の重みに慣れたベッドの上でゆっくり、しっとり、濃厚に。
そうして迎えた爽やかな翌朝と空の冷蔵庫、そして空の腹、というわけだ。
「いや、アレはアレでねぇ‥‥よかったんだけどね‥‥熱烈‥‥」
「フランスさん、顔がニヤけてますってば」
「えー?‥‥ねぇ?」
「もうッ、こっち見ないで!」
ニヨニヨとやに下がるフランスの顔を手のひらで押し返したカナダは、赤い頬のままふいっと背けた視線の先の、なにもない食卓に空腹を煽られた。
へにょ、と眉が八の字になる。
「お腹空いた‥‥」
「あー、ごめんって」
昨晩若いパートナーから受け取った『熱烈なお出迎え』を思い出してニヤけていたフランスだが、隣で呟かれた哀れささえ感じさせるカナダの声に慌てて謝ったものだ。
若い頃は朝食を摂ることは稀だったフランスとは真逆に、朝からしっかりと英国式の朝食を毎日食べて育ってきたカナダは、朝食を結構な量摂る。結婚してからこちらはそんな彼に合わせてフランスも食事を作り、食べていたのだが、それでもカナダと自分では空腹の感じる度合いがまるで違うのだろうことは察せられた。‥‥況してや、昨晩の運動量では。
フランスは再びニヨ、とにやけそうになる表情筋をどうにか宥めて隣にたたずむカナダを緩く抱きしめ、こめかみに小さなキスを落とした後でキッチンの戸棚を片っ端から開け始めた。
「まぁ、なんかあるだろ、なんか。‥‥お、クラッカー発見」
ぽい、とこちらを見もせずに背中を向けたまま投げ渡されたクラッカーの箱を、カナダはキャッチする。
ぽすん、と胸の前に投げられた箱は、カナダのあの元気が良すぎる兄弟とは違って、のんびり屋な自分にでもきちんと受け取れるスピードだ。
そのことが、なんだか妙に面映い。
フランスの背中を見る。起き抜けに無造作に束ねたのだろう金髪は、寝癖がついてところどころぴょこぴょこと跳ねている。‥‥すごく、面映い。
「‥‥え、えっと、じゃあ、僕缶詰かなにか探しますね」
「よろしくー。‥‥そうだ、マーマレードあっただろ、マーマレード!作って寝かせてるヤツ」
「あ、そういえば」
フランスの言葉にその存在を思い出し、カナダは床下収納庫を開けて中を覗き込む。店で売っているような鮮やかな色ではないが、少し前に一緒に作ったときの楽しさを思い出させてくれる、日付入りラベルのついた瓶をカナダは取り出した。
「ありました」
「ん、こっちも収穫あり。‥‥日本で貰ったサバ缶と、みかんの缶詰、さらにナタデココの缶詰だぞぅ」
「やったぁ!」
こうして、次第次第に食卓へ食べ物が揃っていく。
真白いプレートにクラッカーを並べ、手作りのマーマレードをたっぷりと添える。
サバの缶詰は一旦鍋に開けて温めたあと、フランスの発案で軽くほぐしてフレーク状にして、刻んだナッツ類と一緒に炒めた。
みかんとナタデココの缶詰はシロップごとフルーツボウルにあけて、スプーンを二つ差し込んで。
紅茶はカナダが兄から教わった、ゴールデンルール。
「‥‥ああ、ちょっと待ってな」
「?」
なんだかんだと揃った食卓にいそいそとカナダがついたところで、フランスがふと窓外へと視線を飛ばした後、そんな制止を呟く。
「フランスさん?」
その呼び声には応えずに、フランスは窓へと優雅に歩み寄ると、全開にした窓から上半身をおもいっきり伸べた。
パキリ、と何かが折れる音。
「‥‥はい、どうぞ」
「わぁ‥‥」
食器棚と水場を経由して帰ってきたフランスの手元には、大きめのブランデーグラス。中には、水に泳ぐ大きな白木蓮が一輪。
「家を空けてる間に春になったな」
そういって笑ったフランスの笑顔は穏やかで、見惚れるほどに甘く優しい、極上の笑み。
(あ、きれい。)
朝の光に鮮やかにきらめく、美しいパートナー。
不意に思って、そして不意に、思い出した。
‥‥いつだったかの、甘くエロティックな、フランスの微笑。
あれは時間を掛けて丁寧に作り上げた、凝った極上の料理。
夜の空気をロマンティックな炎に溶かして、甘い甘い笑みと会話で。
そう、あれは恋人だった頃の、少し気取った、極上の食卓。
ひるがえって今はといえば。
食卓に並ぶのは、有り合わせもありあわせな、なんともいい加減すぎる料理たち。
さらには自分達は寝起きで、出張帰りで、少し身体も気だるくて、あくび交じりの会話と、跳ねた髪。
でも、素敵な食卓。
互いが、目の前に座っているから。‥‥座っているだけで。
「‥‥そうですね。春、ですね」
「な。あー、今日はどっか散歩にでも行く?」
「うん。‥‥というか、市場。市場行かなくちゃ、フランスさん。ごはん!」
「ハハッ、はいはい。明日はちゃんとした朝ごはん作ってやるから」
「夜は一緒に作りましょうね」
だから今日はとりあえず、なんて。
並べられた食卓に、二人して笑う。
「んじゃ食べるかー。‥‥っと、その前に」
「‥‥うん、」
ちゅ、と可愛いキスを交わす。一呼吸置いてから、くすくすと笑いあった。
「いただきます」
「いただきまーす」
食卓にはありあわせの食事。
目の前には愛しいひと。
可愛く甘いキス。
そこは全てが揃った、天国の食卓。
la fin.(2009.04.04)
誰かとご飯を食べるのは素敵。それが好きな人だと最高。
クマ二郎さんは現在アラスカでサーモンゲッターになっています(笑)