少年の駆け足に、飴色の廊下が可愛らしい音を立てている。
彼が早起きして磨いたばかりの廊下は、鳥のさえずりにも似た可愛らしい音で少年の足を追う。同時にふわふわとひらめくのは、少年がまとう黒のスワロウテールと、メイプルシュガーのような色をしたふんわりとした髪。
音を立てて走るのははしたないと窘める、優しい黒髪の主の顔が少年の頭を過ぎった。

‥‥でも急がないといけないから!ごめんなさい、菊様!

はふはふと息をしながら、内心で主に頭を下げる。
可愛らしい廊下の囀りは、小さな執事が息を切らせてお勝手に辿り着き、出入りの御用聞きから「ご苦労様です!」と注文の品々を受け取るまで追いかけてきたものだった。




たくさんの棚のある部屋に、軽やかな足音が響く。

「‥‥あれ?香炉、香炉はどこだっけ‥‥」

行き来していた足が不意に途切れ、小さな頭が辺りを見回した。
そう広くは無い部屋なのだが、壁の三面には扉つきの、あるいは細かな仕切りを入れた木製の棚がどっしりと据えられている。そこには茶器を始めとする様々な陶磁器、漆器などが丁寧に並べ置かれていた。それらは主の血筋の持ち物に相応しい東洋のものが多かったが、中には華やかな西洋のグラス類やプレートなども置かれている。

‥‥香炉は、食器ではないから此方じゃなくて、菊様の昔からの持ち物だから贈り物の棚でもなくって‥‥。香りがつくから、扉つきの棚で‥‥。

「‥‥ねぇ、ぽちくん、これどの棚かなぁ」

腕には香炉入りの桐箱を落とさぬように慎重に抱えつつ、途方に暮れた、という表現がぴったりくる澄んだ少年の声に、わん、と柔らかい呼び声が彼の足元から返された。
少年が見下ろした先には、ふわふわとした小柄な獣が一匹。
真っ黒いつぶらな瞳に湖水色の瞳が合ったと思えば、この家のもう一人の従者は迷いない足取りで彼らの斜め前に位置する棚の下へと歩いていった。わん。

「‥‥あ!そうだった、そこの棚の4つめだよね!」

ありがとうぽちくん。再開した軽やかな足音に、ふんわり甘くて軽やかな声が重なる。




「‥‥3日後が、バイルシュミット様のお越しで‥‥、菓子の手配は、大丈夫。夕餉の食材は明日の昼便で受け取りで‥‥あれ、明日仕立て代の支払いの日だよ呉服屋に寄ってこないと。書状の返信は、処理済み。‥‥ん?これ数字が合わないな、あとで領収書‥‥あとは3週間後の‥‥」

書類を繰りながら、時折ペンを走らせる。
主の予定管理、奥向きに使った雑費のまとめや、各種の手配。どれも間違うわけにはいかない。あの優しい主に迷惑を掛けるわけにも、恥をかかせるわけにもいかないのだ。そんな強い使命感で、少年は頭をフル回転させながらペンを走らせる。
声を出しながらの仕事は、そうすることで自分の耳で再度確認するためだ。幸か不幸か、この屋敷には常駐の使用人は自分と、もう一匹だけである。誰に聞かれるわけでもなし、結構はっきりと発音しつつ仕事をこなす。
唯一聞いている相手、といえば。

「ぽちくん、これ終わったら郵便の仕分けしようね」

わん。小さな返事は火鉢の横からだ。
小さな身体を丸めて目を閉じている姿は、とても愛らしい。その姿に少年はしばし目を細めたあと、再び手元の書類へと目を落とし、ペンを走らせた。
大きな火鉢は、少年の執務室をやさしく暖めてくれている。
マシューさん、身体を冷やしては駄目ですよ、とわざわざ(主自ら!)蔵から抱えて持ってきてくれた其れは鮮やかな緑の釉薬がかけられたとても綺麗なもので、あわててお辞儀をして礼を言った彼の頭を、小さくて少しひんやりとした主の手が優しく撫でてくれたものだ。

優しい、優しい菊様。僕の、大切な主。‥‥‥‥今、暫くの。




マシューが菊の屋敷に執事として勤めるようになって、一廻りと三つほど季節が過ぎていた。
その間にマシューが覚えたことといえば、最早数え切れない。
もしかしたら生まれてこちら、‥‥この屋敷に上がる前に覚えてきた全てのことを足しても、足りないくらいかもしれない。
貴人に仕える執事として、忙しく充実した日々。

それほど、環境は劇的に変わった。

そもそも、マシューは市井でそこそこの暮らしをしていた。
親は知らない。けれど住む場所はあった。仕事もあった。周りの人間もそれなりに優しかった。
働いて、少しのお金を稼いで、食事をして、眠って。
良くも無かったが、悪くも無い生活だった。そうして過ごしていた。

けれど『明日』は考えてはいなかった。

考えたところで仕方が無かったから。
働いて、お金を稼いで、食事をして、眠って。繰り返し‥‥それだけの、日々。
そうして、いつか死ぬのだろうと。思っていた。









(‥‥彼に、出会うまで。)









炭の弾けた音に同時に己の物思いも弾けた。
ペンを片手にぼんやりしていたことに、なんとなし面映い気分になる。

‥‥あの人のことを思い出せば、いつだってそうだけれど。

「‥‥仕事仕事!」

仕切りなおしとばかりにふるふるっと首を振ったマシューは、さらさらとペンを走らせた。明日から少しの、主の予定表。
『明日』を考える、日々。
‥‥今は、いつだって考えている。明日のこと。その先のこと。彼のこと。
必ず立派な執事になって、彼の傍に生涯寄り添うこと。

「アーサー、さん」

甘い甘い声で呼ぶ、特別な名前。
それは、マシューに『明日』をくれたひと。




「‥‥愛してます。待ってて、くださいね」




ほろりと零れた甘い甘い声音に、火鉢の横に丸まっていた獣がふるりと耳を動かしたけれど、再び響き始めたペンを走らせる音と明日の予定確認の声にもう暫く自分の役目は後だと悟ったのか、再びゆっくりと耳を伏せ、小さな寝息とともにふわふわした毛に覆われた腹を上下させはじめたのだった。









the end.(2009.02.27)

『ビューティフルデイズ』と同設定。
‥‥しかしアーサーさんはどんな運命的(笑)な出会いで彼を掻っ攫ったんですかね?