フランシスの午後の一番の大仕事といえば、午後のお茶用の卓を設えることである。
優美で愛らしい、且つ小さめの食器に美味しい菓子や最高級の茶葉、甘いメイプルシロップ。所謂『お茶の支度』として、主のために執事である彼がこれらを整えるのは当然のことだが、フランシスの仕事の場合、それだけではない。
本当の、文字どおりの意味でテーブルを設えるところから始まるのだ。
しかも、テーブルを運びいれ慎重に設置する場所は、優雅なティーサロンでも暖かなバルコニーでもなく。
「‥‥よ‥‥ぃせっとぉ、」
ゴトリと重い音を立て、彼の腕からどっしりとした大地にその重みを預け替えた其れに、フランシスは若干年寄りじみた言葉を息と一緒に吐き出した。
視線の先には美しい大理石を贅沢に使ったテーブル。鏡面のごとく磨きぬいた卓上、その縁には精緻な彫刻が施されている。少しでもどこかにぶつけようものならたやすく欠けさせてしまうだろう其れを、細心の注意を払いながら慎重に、丁寧に目的地へと運び終えたフランシスは、ざっと検分したそれに傷がないことを確かめてから、再度、息をつく。‥‥何せこれ一つで、下手すればフランシスの一生ぶんの給金以上の価値がある。
これまでも貴顕に仕えてきた彼とはいえ、さすがにこれほど高価なものを自分ひとりで管理し、ついでにあちらこちらへと運ばされた(やはり、自分ひとりで、だ!)経験はついぞない。
もっとも、このテーブルの持ち主である主も、その主の兄であり保護者たる青年も、仮にフランシスがこのテーブルを破砕したところで問題にもしないだろうが。
それは、このテーブルと同程度のものならばわけなく購えるだけの資産を蓄えている、というのも勿論なのだが‥‥単純に、物欲の差だ。主も、主の保護者であるあの青年も、物にはこだわらない。
「こだわるものは、別のもの‥‥ってね」
思考の結論としてぽそりと呟いた言葉に、フランシスはなんとなしため息をつく。ため息をつきつつも、設置したテーブルを絹布で丁寧に磨き、水平であることを確認し、揃いの椅子をやはり丁重な手つきで置いて‥‥と、忙しく働いていたわけだが。
フランシスは再びため息をつく。果たしてこれが幾度目かのため息かなど既に覚えてはいなかったが、ため息に混ざって聞こえる小鳥や虫たちの囀り、辺りを強く包み込む緑の匂いに、慰められるような気がした。緑は、森は、最高の癒しだ。
‥‥そう、きっと主にとっても。
目の前には自らが運んできた美しいテーブル。
これから最高級の茶器と菓子を並べて、お茶の支度を整える場所。
けれど此処は、優雅なティーサロンでも華やかなバルコニーでもなく。
サク、と森を歩く為のブーツが地味の良い土を食む。
初夏の涼やかな風は芽吹いたばかりの緑の空気をたっぷりとはらんで息苦しいほど。
見上げた空は厚く重なり合った緑の天蓋、その隙間から零れ落ちる木漏れ日はあたたかく、まばゆく。
フランシスはため息をつき‥‥そうして、すっと息を吸って。
「マシュー様ー!!お茶のお時間ですよ、いらしてくださーい!!」
朗々と艶やかな呼び声は、こだまを伴って森に響き渡る。
返事はない。いつものことである。
ちょうど焼きあがっているだろう菓子と吟味した茶をこちらへと運ぶべく、深い森のど真ん中、緑滴る道なき道を屋敷へと踵を返したのだった。
「‥‥では、お前を雇おう。アイツに優しくしてやってくれ」
少し短めに整えた豪奢な金髪と深い緑の目、白い肌。そしていかにも貴族らしい、独特の雰囲気を醸す雇い主との初対面に、フランシスはある種の緊張を持って臨んだものだ。
いかにも高級そうな(そして実際に高級な)椅子に腰を深く下ろした青年が、少し物憂げな口調で静かに控えるフランシスへと告げたのは、二ヶ月ほど前のこと。
それまで仕えていた主が外国へ行くことになった。長く仕えた主であり、随行を望まれたがこの国に残ることを望んだフランシスはその話を断って、働き口を探しすことにした。ツテをたどり、それなりの待遇でもって自らを雇いいれてくれる場所をいくつかあたって、そうしてやってきたのが此方の屋敷だ。
この国の人間であれば知らぬ者はいないだろう、名門中の名門。
当初知り合いからこの話を持ち込まれたときは、即座に断った。というのも、これほどの名家ともなれば長く家内を仕切っている家宰なり執事長なりがいるはずで、小なりとはいえ貴族でありその一族の本家当主のもっとも近しい執事として仕えた身で、今更数多いる侍従たちの一として働くのは、ほんの少しだけ嫌だったからだ。
だがしかし。
「貴方にしていただくのは、当主の弟君、マシュー様のお傍仕えです。まだまだお身小さく幼くていらっしゃり、少々奥ゆかしい性格の方ですので、当面は貴方お一人でマシュー様のお相手をしていただきます」
「はい?」
話だけでも聞いてきぃやーエエお話やから!と強くおされて面談に言った先、思わず聞き返したのは当然だろう、とフランシスは今でも思う。
だって、当主の弟といえば‥‥当主の弟だろう。いや、当たり前なのだが(さすがにこの時ばかりは混乱して言葉にならなかった)。
つまり、名門カークランド家の本流であり、当主の弟というからには将来的に誉れ高きカークランドの名と爵位を継ぐ身ではないのだが、それとは別に高い位は約束された身で(現時点でも既に爵位や領地、そして名前は持っている筈だ)、つまるところ‥‥もの凄く位の高い相手の、実質的な筆頭執事になる、ということで。もしも此処ですんなり自分が頷いて、長い時間をその身分で過ごすことになれば、これまでの比ではない、貴顕に仕える身としては殆ど最高級の位に、自分もつけるということであって。
「‥‥失礼、もう少し詳しくお話を窺う必要があるように思えるのですが?」
出来る限り優雅な口調で、己を面接したカークランド家の使用人を取り仕切る相手へと視線をやる。小柄な身体と黒髪黒瞳、明らかに異国人とわかる風貌の人物がこのような地位にいることも(なんのかんの言っても、貴族とは閉鎖的で国粋的な部分がある)驚きではあるのだが、にこり、と控えめでありながら妙に圧力のある微笑を向けてきた辺りにその秘密はあるのかもしれない、とフランシスは思った。‥‥能力の高い人間がしかるべき地位にいるというのは、その家の家風を見るのにプラスの判断材料だ。
「詳しくと言われましても、言葉どおりですよ?」
「そうして言葉どおりに受け取って、暫くして『話が違う』と言い辞めていったというわけですか?私の他に」
「おやおや」
笑みを崩さない相手には、やはり笑顔で持って対抗するのがフランシスの性分だ。
もともと自分の身なり容貌が抜群であることは事実として自分の武器にしているわけだが、‥‥あまり、目の前の相手には効きそうにない。
「ミスタ、本田?」
「菊とお呼びいただいて結構」
「では、菊」
ならば、正面突破を図るまでだ。
「労働条件は正確に知っておきたい。正直、あなたのような人物が仕えている家というだけでこの件をお引き受けしてもよい気分ではあるのだけれど、それとこれとは話は別だ」
「ええ、そうでしょうとも」
「俺も、この仕事に誇りを持っている。仕えた主を引き立てる為に出来る限りのことをしたい。長く仕え、信頼を勝ち取り、また俺自身も主を尊敬し信頼して、気持ちよく働きたいんだ。‥‥それに」
「それに?」
「‥‥‥‥先ほど、御身小さくて、と言っていた。いくつかは知らないが、小さな子どもの世話役がそう幾度も代わるのはよくないだろう。可哀相だ。‥‥そういう意味でも、生半な気持ちでは受けられません。正確に知った上で、話を受けたいのです」
微笑んでいた菊の雰囲気が、ほんの少しだけ揺らいだ。
東方の人形めいた完璧な笑みは欠片も揺らぐことはなかったのだが、彼を包んでいた、どこか薄い(だがしかし強固な)膜のようなものが、するりと一枚剥げたような、そんな印象をフランシスは受けた。
それは、決して思い込みではなかったようで。
「‥‥ああ、カリエドさんのご紹介はいつも本当に的確ですね」
「トーニョ?」
ええ、と頷いた菊が、ふ、とごく僅かに息をついた。その息に、彼もまたフランシスを厳しく見定めるべく試していたことが窺えて、‥‥ついでに、彼のお眼鏡にかなったことも窺えて、フランシスもまた、緩い息をついたものだ。そうして、この仕事の話を持ってきた、昔馴染みの顔を思い出す。
陽気で暢気な彼もまた、フランシスと同じく侍従として人に仕えている身である。ごく幼い頃から、彼が見定めた(‥‥いっそ見初めた、といってもいいかもしれない)相手に一途に仕え続けている話は、とりあえずこの場では置いておくとして。
「‥‥何か、あるのか?その‥‥マシュー様には」
「いいえ!‥‥いいえ、断じて、そのようなことは。マシュー様はとてもお優しい、心根の良い、お可愛らしい方です。ただ」
「‥‥ただ?」
「‥‥他言無用であることは他家に仕えた経験のある貴方にいうまでもないことですね?」
「無論」
しっかりと頷いたフランシスに、菊もまた頷く。
そうしてしゃんと背筋を伸ばして言う相手は、なるほど大家名門に使える者らしい、力のある目をしていた。
「過去に、大変お辛い経験をされてらっしゃいます。凄惨な、と言っても過言ではないでしょう。当家にマシュー様がいらしたのは‥‥アーサー様の念願叶いようやっと探し出して迎え入れることができたのは、ごく最近のことなのです」
「‥‥‥‥‥‥。」
言葉を慎重に選びつつ話す、淡々とした菊の表情は崩れなかったが、一瞬ぐっと強く握られた拳に、彼がどれほど主であるアーサーや、その弟であるマシューを大事に思っているのかが如実に見て取れた。
そして、詳しくは語らなかったその小さな人を襲った惨事とやらの、凄惨さも。
「暫くはアーサー様のお手元でお健やかに過ごしていらしたのですが、アーサー様もお忙しい身であり、同時に、世間に‥‥監視されているようなご身分であられる。アーサー様はマシュー様を、小さな身で死にも相当しうる難事を体験された弟君をもうこれ以上傷つけたくはなく、そして全力で守るお覚悟でありお心積もりではあるのですが、どうしても同一の屋敷内にいると口がさないものが出ることは否めず。今はマシュー様ご本人のご要望もあり、本宅とは少し離れた場所に構えた別邸でお過ごしなのです」
「‥‥つまり、そちらのお屋敷でのお世話を、私に?」
「これまでも私が十分に吟味したお傍仕えをマシュー様の御元へと送りはしたのですが、なかなか‥‥。今は、私がそちらにおりますが、アーサー様のもとを私が長く離れているわけにもまいりません」
尤もなことだとフランシスは思う。菊はカークランド家の内向きの仕事をしている身分だが、その影響力と仕事量は途方もない量なのだろう。言葉から察するに、当主であるアーサーとの繋がりも深いようだ。
フランシスは暫し沈思した後、静かに菊に問いかけた。
「‥‥これまでマシュー様にお仕えした人間は、なんと言ってこの仕事を辞めたのでしょう?」
フランシスは半ばこの仕事を受ける気になってはいたものの、そこは仕事だ。手に負えないものを背負い込むわけにはいかない。
フランシスの問いかけに、菊は真剣な視線を真っ向から返して、言った。
「‥‥『話が違う』と言われたことはありません。ただ、‥‥ただ、『悲しくなる』、と」
「‥‥‥‥悲しく?」
「‥‥‥‥私は、マシュー様にお元気になっていただきたい。彼の笑顔はきっと、とても、お可愛らしいことでしょう。アーサー様もそれを望んでおられます。けれど、その傷は深く‥‥長い、時間がかかるものです。彼らの言葉は、正しい。けれど私は、アーサー様は、マシュー様の悲しみを癒して差し上げたい。そのためのお世話をする人を、カリエドさんに紹介を頼んでいたのです」
重ねて言う菊を、フランシスはじっと見つめる。
「悲しみは、辛い。みている私達も。けれど、彼を守り癒して差し上げられるのも、周囲にいる人間です。アーサー様であり、私です。‥‥可哀相だと、貴方はおっしゃった。小さな子どもへの慈しみを感じました。私はカリエドさんの紹介と、貴方のその言葉を信じようと思います。貴方がよければ、私は貴方をアーサー様にマシュー様のお世話役、お傍仕えとして推薦しましょう。‥‥いかがか」
その言葉に、すぅ、とフランシスは息を深く吸う。
大変な仕事だと感じた。‥‥相手は小さな子ども、そして、何がしかの理由で傷ついている。その子どもを、主として敬うと同時に慈しみ、世話をしていく。責任は、重い。
そして、なんとやり甲斐のある仕事か。
ふぅ、と息を吐く。背筋を伸ばす。‥‥人に仕え、奉仕する喜びを知るものとして、覚悟を決めた。
「謹んで。‥‥小さき我が主にまみえる日を、楽しみにしております」
‥‥とまぁ、そうしてカークランドの門を叩いた、フランシスではあったのだが。
「いやいやいや、まさかお屋敷が本物の森の中とか、さすがに思わないってば」
サクサクサクサク、獣道のがまだしも、という場所をフランシスは慎重に歩いた。以前、一度コケて素晴らしく高級な食器を(そうとも、これもテーブルと同様だ!)全て完膚なきまでに粉々にしたことがあるのだ。
‥‥因みに、菊が顔色一つ変えず「ああ、気にしないように。代わりは貴方の見立てで購入してください」と言ったその言葉に、金持ちって凄ェ、とやや俗っぽいことを考えたのは言うまでもない。
サクサクサクサク、慎重に歩く。両手にはピクニック用のバスケットを抱え、背中には布製の袋を背負っている。先に書いたとおりに彼の足元は森を歩く用の頑丈なブーツだし、服もこざっぱりと整えてはいるものの、燕尾ではない。‥‥間違っても、名家の当主の愛する弟君に仕えている格好には見えない。の、だが。
「マシュー様ーぁ、今日はブルーベリーのタルトとレアチーズのフロマージュですよーぅ。メイプルシロップもございますよー。いつものところでお待ちしておりまーす!‥‥こんなもんか」
サクサクサクサク歩きつつ、フランシスは朗々と響く声で森に呼びかける。そもそも大きな声を出すということ自体、この世界にいるとなかなかにないのだが、なんせ今いるのは本物の森だ。それなりに手入れはされているものの、森は森。小鳥の囀りは軽やかに、遠く川のせせらぎまで聴こえる。
「やっぱカークランド、半端ないよなぁ‥‥」
いくら広大な領地を持っているとはいえ、その大半は領民達のものであって、アーサーのものではない。また、領地を効率よく開拓し、領民の声を聞きつつきちんと収入を得ることが領地を抱える貴族としての役目なのだ。
つまり、貯水池や防衛の為、或いは狩猟用のものを除けば、特に使いもしない森を、それも奥深くに屋敷を構えてまで抱えているのは負担になるばかりなのだが。
弟一人の為に、アーサーは開墾予定だった森をまるごと接収し(勿論十分な対価を支払ったうえで、である)、かつ小さな彼が安全であるように入念過ぎるほどの防護を施し、立派な屋敷を建て、弟を住まわせているのである。‥‥フランシスがアーサーに会ったのは片手の指より少ないくらいだが、それでも彼が小さな弟をどれほど大切にしているかが知れようというものだ。
そして、そのアーサーが大切にしている、小さな弟君であり、フランシスの主はといえば。
「マシュー様ーぁ?‥‥あれ、まだ来てねぇな‥‥」
ザックザックと歩き続けて、ようやっと帰って(?)きたテーブルのある場所は、小さな主お気に入りの場所だ。
幹の太い巨木に囲まれて、けれど少しだけ拓けた場所。柔らかい下草に、小指の先にも満たない小さな花が咲いて可憐だ。
‥‥そもそもこの場所、というか森の様々な場所で(ここの他にも小川のほとりであるとか、花の咲き乱れる野原であるとか、いろいろあるのである)お茶を飲むようになったのは、フランシスが彼の元へとやってきてからであった。
というか、当初はフランシスも当然瀟洒な屋敷内に整えられたティーサロンで小さな主の為に美味しいおやつをととのえ、茶を淹れたりもしていたのだけれど。
「‥‥食べてくれるだけいいよな。うん」
呟いて、フランシスはバスケットの中から次々に菓子と軽食を取り出して机の上に並べていく。場所が森の中だろうとティーサロンだろうと、執事としてティータイムに合わせてやるべきことは一緒なのだ。
紅茶だけは、いつ来るとも知れない主の為にポットとカップを温める作業だけして、後は手元にいつでも入れることが出来るよう準備してから、おいておく。
そして。
「‥‥マシュー様、今日はブルーベリーのタルトとレアチーズのフロマージュでございますよ。お茶にはマシュー様のお好きなメイプルシロップをいれましょう。サーモンのパテと、スズキのあぶり焼きもございます」
カサリ、と音のしたほうへと、フランシスはとろけそうに甘い笑みを向けて、主を出迎える。
小さな足音。‥‥小さな、そして驚くほどに愛らしい容貌の、マシュー。
メイプルシュガーカラーの髪はこどもの細い首元をふんわりと飾り、ふっくらとした頬は淡い桜色だ。小さな鼻と、ふっくらした小さな唇。零れそうに大きな瞳は、兄とは違う湖水のような青灰。
ふわりと柔らかな最高級の素材で縫われた白いドレスのようなシャツに、瞳と同じ色をした青いリボンタイがついている。
そして、足元は。
「マシュー様、お靴はどうなさいました?」
小さな小さな素足が、下草の緑を踏んでいる。白く細い足と、小さな爪は土と緑を食んで汚れていた。
と、その執事の言葉をどう受け止めたのか、そろそろとフランシスの傍へと足を進めていた子どもが、ぴたりと止まった。そして、自分の倍以上もある執事の方をそろそろと見上げてからすぐに目を逸らすと。
「‥‥‥‥おくつ、いらないもん。嫌いだもん」
小さな声は、こども特有のふんわりと甘い色をしている。おっとりとした喋りはとても可愛らしい。
そして、どのような内容であれ、マシューがフランシスの言葉に答えてくれたことに、心から安堵した。
フランシスは視線を逸らしてドレスの裾をきゅっと握っている主へと、目線の高さを合わせるようにその場に膝をついた。近寄ることはしない。驚かせて、森の中へと逃げられると自分には到底追いかけられないからだ。
「さようですか。そうですね、下草が柔らかいですし、裸足のほうが足の裏が喜ぶかもしれませんね」
柔らかい声で、フランシスはマシューの言葉に応えた。
自分の言葉を否定しない執事の言葉に、マシューの本当に小さな身体から、ほんの少しだけ力が抜けたのをフランシスは見逃さない。
「‥‥うん。あの、ね‥‥こっちのほうが、ふわふわで、好きなの」
「そうですか。気持ちいいほうが、いいですものね」
「‥‥うん」
「さ、おやつにいたしましょう?今日はタルトとケーキですよ。‥‥クマ二郎さんにもお土産をつくりましたから、後でお持ちになってくださいね」
「‥‥うん」
ふたたび、そろそろとした足取りでフランシスの傍、テーブルの傍へとやってきたマシューに、フランシスはにっこりと微笑みかけた。小さな瞳は彼のほうを見なかったが、構わずにゆっくりと手を伸ばす。
「さぁ、お椅子に座りましょうね」
「‥‥っ」
そっと、本当にそっと小さな身体に手を触れさせる。
ビクッと震えた身体には気づかないふりをして、脇下に手のひらを差し入れてそっと抱き上げ、椅子へと小さな身体をそっとおろした。そしてまたゆっくりとした動作で彼から手を離す。
「‥‥‥‥。」
「お茶を淹れましょうね、ああ、その前にお手を拭いておきましょうか、今日はタルトですので、手にとって食べてかまいませんよ」
「‥‥‥‥。」
フランシスは布袋に入れてきた濡れたタオルで、小さな手を包み込むようにしてぬぐう。お茶用のポットに沿わせて持ってきたタオルは温かく、森の中で長い時間を過ごしていた小さな主の指先をそっとあたためてくれた。
「さ、召し上がれ。『いただきます』、ですよ?」
「‥‥い、ただき、ます」
ぎこちない手つきでおやつを食べる小さな主を、フランシスはそっと見守る。
長い間、この小さなこどもはこうしておやつを食べるような、当たり前のことさえ許されていなかった。‥‥長く、辛い、凄惨な過去は、今は十分な栄養を与えられふっくらとした指先からは窺い知ることはできない。
「今日のブルーベリーはね、マシュー様がお教えくださったところで採ったんですよ。ありがとうございます」
「‥‥‥‥。」
「ジャムにもしましたから、トーストに乗せてたべましょうね」
彼を驚かさないよう、優しい優しい声でフランシスは語りかける。返答のあるなしは関係ない。ただ、小さな子どもに、優しい声と彼を見守っているのだということを、解ってもらいたいから。
だから、本当に小さな声ではあるが、ぽそりと、可愛らしい声が返ってきたのに、フランシスは危うく息を呑むところだった。
「‥‥‥‥パンケーキ、に、乗せて食べたい」
小さな声。他愛のない欲求。‥‥そう、いくらでもしていいのだ。彼は自分に、どんなことを言ってもいい。‥‥言ってくれたら、いい。そのために自分は此処にいるのだから。
「では、明日の朝はフランシスが特製のパンケーキを焼いて差し上げましょう。まんまるで、お皿からはみ出るくらいに大きな、あまーいのですよ。‥‥さ、フロマージュもどうぞ。お茶をもう一杯」
もくもくと食べる主に、フランシスはその後もうるさくはならないよう、けれど沈黙もしないように語りかけ続けた。時折聴こえる小鳥の囀りや生い茂った葉を風が撫でていく音、下草の上を這う虫たちの音に和するよう、静かに話す。
やがて、小さな子どもが両手で抱えていたカップをテーブルに戻し、まだ残っているおやつをチラッと見てから俯いたところで、フランシスはバスケットの中からナフキンとおおぶりのスカーフを取り出した。
「さぁ、後はお包みいたしましょうね。マシュー様のお友達に分けてあげてくださいまし。ただし、残ったものはもう一度スカーフに包んで、持って帰ってくださいね?」
こくん、と小さな頭が頷くのに、お菓子を包んだものと、パテやスズキのあぶり焼きの入った包みを彼の前に置く。
マシューはその包みと、にこやかに微笑んでいるフランシスとを暫く交互に見た後、やはりそろそろと、小さな手で二つの包みを抱きかかえるとぴょこんと椅子から飛び降りた。
そしてそのまま、とたとたとたっと素足で森の奥へと駆け出していく。
フランシスはその後姿を見送りつつ、彼が怪我をしていないか、なにか無理な動きをしていないかを素早くチェックした。彼はまだ、痛いだとか苦しいだとかを、フランシスに伝えてはくれない。
(‥‥大丈夫、)
フランシスは自分を励ますように心の中で呟く。
大丈夫だ。まだまだ、自分と彼には時間がある。‥‥彼を癒すには、時間がいる。
と、そのとき、いつもであれば脇目もふらず森へと入っていくマシューが、ぴたりと止まった。
茶器を片付けようと、主の後姿を見送りつつも手を動かしかけていたフランシスの手も止まる。
聴こえるのは、小鳥のさえずりと、風が渡る音。
「‥‥マシュー様?」
「‥‥‥‥あの、ね」
そして、甘い、可愛い声。
「フランシスさ、ん。おやつ、あり‥‥がと」
言い残すや、ぴゃっと樹の向こうへと駆け込んでいった後姿を、フランシスは呆然として見送った。
そして、続いて溢れてきたのは、たとえようもない愛しさと、喜びと。
‥‥何せ、マシューの元に来て以来、初めての、感謝の言葉。
「うわーぁ‥‥、ちょ、本気で可愛いんですけど‥‥ッ」
ジタジタと、大きな身体をした男が身体を悶えさせながらブツブツと呟く姿はさぞ不気味であっただろうが、幸い此処には人はいない。
そう、この森には、自分と彼しか、人間はいない。‥‥それ以上は、まだ小さな彼には受け付けられない。
「‥‥うん、これからだよな、うん、大丈夫だ」
フランシスは、己に言い聞かせるように呟きながら、役目を果たした食器を手早く片付けていった。
カシャカシャと音がする食器へ、フランシスはふと目をやる。‥‥仮にこれを森で蹴躓いて割ったとしても、マシューもアーサーもこだわらない。
彼らが欲しいものは、こだわるものは、高級な食器でも高級なテーブルでもない。
欲しいのは。‥‥必要なものは。
「‥‥捧げるべきは、この心。マシュー様、‥‥大丈夫ですから」
いつか、いつの日にか。笑ってくれたらいい。
貴方の兄が待っているよ。貴方を待っている人が、いるよ。
俺は、貴方の傍にいるよ。
小鳥が囀り風が渡る森の中、フランシスは小さな主を想う。
これがフランシスの、長い長い、主との日々の始まりだった。
the end.(2009.05.28)
明らかに複線張ってるので、続きはある筈です(なにその他人事)
気長にお待ちくださいませ
因みに拍手でやってたマダオ兄ちゃんが原型だったりします。