幸せそうな恋人達を、見る。
手を繋ぎたいな、と彼女は思った。
静寂ではないが喧騒というほどでもない、軽やかな街のざわめきがマシューの耳をくすぐる。
空は極上の紗幕を広げたような薄曇り。柔らかな日差しに温みを与えられた石畳が行き交う人々にその熱を柔らかくわけているような、いい日和だ。
地にあっては人々は軽やかに弾む足取りで、或いはゆっくりと語らいながら、街を楽しんでいた。車両通行制限の為された通りはその両脇を洒落た店舗や緑が眩しい樹木に埋められて、けれど一続きの景観としてどこか懐かしさを醸す色調にまとめられており、古きを良とするこの島国らしい大人びた雰囲気で人々をもてなしている。
もっとも、行き交う人達の半数ほどの意識と視線は、美しい通りの風景よりもその傍らに立つパートナーに向けられているのだけれど。
軽やかな街のさんざめきは、甘やかな声が違和感なく混ぜ込まれていっそう軽やかに。
それは他愛のない遣り取りであったり、もっと直裁的な、愛を囁く言葉であったり。甘い、甘い声色。
通りを行く数多くの幸せそうな姿とすれ違うたび、甘い言葉がまるで空気ごと染め抜かれているかのように否応なしに伝わってくる、恋人達の気配。
‥‥いいなぁ、とマシューは素直に思った。
華奢なパンプスの足をゆっくり進めながら、チラチラと辺りを見る。
車両制限のしかれた通りは広々として、本来は車道だろう場所も人々が軽やかな足取りで行き交ってる。‥‥一人の、ひとはあんまりいないな。と、単純に思った。いや、居ることにはいるのだけれど、それは携帯電話や時計を気にしながらショーウィンドウを鏡代わりに髪型を整えている女性であるとか、仕事中なのだろう洒落たギャルソンエプロン姿で大量の食材とメモを見比べながら歩いているだとか、そういう。
つまりここに居る大半の人々は、複数で遊んでいる友達同士か、或いは、二人称で呼び合って齟齬を来さない最少人数のパートナー、恋人同士か。で、あって。
もしかしたら、有名なデートスポットなのかな、とふと思った。
マシューにとってこの国は「兄の住まう地」として馴染んだ土地ではあるけれど、日々を過ごす母国ではないし、実際のところあまり出歩いたことがなかった。雄大な自然と多くの動植物が棲まう母国であれば、それなりの情報は持っているのだけれど、あいにくとここは、彼女の恋人の国であって。
‥‥こいびと。
胸のうちを過ぎったごく自然な己の思考に、とく、と心が甘く跳ねた。
こいびと。恋人。‥‥そう、彼は、私の。
「アーサーさんは、私の、」
無意識に零した言葉で、マシューは我に返る。
いけない、自分は本当に気を抜くとすぐにぼんやりしてしまう。
こんなことだからきょうだいに「君、本当に薄いよなぁ。滲んでるんじゃないかい?国境警備はちゃんとしなよ!」と呆れられたり、「こーら、立ったまま居眠りしちゃ駄目でしょ仔猫ちゃん?ぼんやりしてると悪いお兄さんに悪戯されちゃうよ主に俺みたいな。」と最初の宗主国にぎゅうぎゅうと抱き締められたりするのだ。
そして、兄であり母であり、それにもうひとつ関係性が加わったばかりの彼だったら、きっとあの特徴的な眉を軽くしかめた後で、笑って‥‥。
「‥‥って、あれ?」
再度零れた無意識の呟きと一緒に、マシューはふわふわとした巻き毛をなびかせながら辺りをふるりと見回した。
楽しげに語らう、見知らぬ恋人達の姿。‥‥見知った、己の恋人は確か、一歩前を歩いていたはずなのだけれど?
「は、はぐれちゃっ、‥‥た?」
ああ、まったく!これだから自分はいけない。
アーサーさんは足が速いから置いてかれないようにってあれほどクマリーさんにも言われて、もう、ぼんやりおっとりな国民性をなにも今発揮しなくてもいいのに!
マシューは慌ててふるふると首をめぐらせ辺りを見回す。幸い人は多いものの込み合って前後も分からない、というわけではない。落ち着いて探せばすぐに見つかるはず、と己に言い聞かせながら、けれどほんの少しだけ心細く思いながら、辺りを窺う。
視界を彩るのは軽やかな街の音と、恋人達の姿。寄り添って、お互いを大切に思いあう人々。
しっかりと、握り合わされた手。
‥‥手を、繋ぎたいな。
マシューは、長い間兄であったアーサーに、恋をしていた。
父親の腕に抱かれながら彼を見たその瞬間から、ずっとだ。
叶うはずのない恋だと思いながら、長い長い間。
父親の腕から攫うように自分を奪い取ったときも、最愛の弟の裏切りに荒れ狂っていた時も、ずっと。
強引に連れ去ったくせ、酷くおずおずとした手つきで自分を抱き上げてくれた。
強い背中に自分をかばいながら戦っていた。離反した弟の後姿に狂いそうなほどに泣く、その人に寄り添っていたかった。
初恋は実らない、なんてジンクス、聞かされるまでもない。だって彼の心はマシューのきょうだいであり彼の最愛の弟が掴んでいて、彼の傍には、嘗てのマシューの父親がつかず離れず、寄り添っていたから。
『マシュー』
優しい呼び声。
好きだった。ずっと見つめていた、どうしようもないほどに、彼が好きだった。
意を決して告げた告白に、アーサーが何故頷いてくれたのか、未だに分からない。
けれど以来、アーサーは自分の『恋人』で、幸せな日々を過ごしている。‥‥いる、筈だ。
「‥‥‥‥。」
立ち尽くし、零れかけたため息を、飲み込む。
‥‥不満なんて、欠片もない。ただ、不安なだけ。
だって、彼はとても優しい。兄だったときからとても優しくて、『恋人』になった今もやっぱり、とてもとても優しい。
お屋敷に招いてくれる、お茶を振舞ってくれる。大洋を越えて届く小まめな電話や近況を記したメール。薔薇の香りのする便箋で、古式ゆかしいラブレターを貰ったときは、本当に嬉しくて手紙を抱き締めて、少し泣いてしまったくらいに。‥‥けれど、でも。
辺りを見回す。幸せな恋人達は戸惑うマシューには目もくれずにお互いを見つめて、幸せそうに歩いていく。手を繋いで。心を、繋いで。
‥‥なら、私とアーサーさんは?
彼は紳士の国の名に恥じない、洗練された物腰の男性。知っている。些細な仕草にも女性に対するさりげない気遣いをまるで息をするみたいに自然にしてのける彼を、周囲の女性がどんな風に見ているか、なんて。彼はマシューに、とても優しい。けれどそれはもしかして、女性全般に対する礼儀みたいなものなのではないか。彼が言う「英国紳士のあるべき姿」を体現しているだけだと、そうでない確証はどこにあるというのだろう。
繋がれている恋人達の手。繋がれていない、自分の手。
「アーサーさん」
‥‥心は、繋がれているのかな。本当に?
「マシュー!」
通りに響くような呼び声に俯いた顔を上げるより早く、慣れた薔薇と紅茶の匂いに身体ごと包まれた。