幸せそうな恋人達を、見る。
どうすればいいんだろう、と彼は考えていた。
静寂ではないが喧騒というほどでもない、軽やかな街のざわめきがアーサーの心を微妙にそわつかせてくる。
空は輝く妖精の粉を振り撒いたような薄曇り。柔らかな日差しに温みを与えられた石畳が行き交う人々にその熱を柔らかくわけているような、いい日和だ。
地にあっては人々は軽やかに弾む足取りで、或いはゆっくりと語らいながら、街を楽しんでいた。車両通行制限の為された通りはその両脇を洒落た店舗や緑豊かな樹木に埋められて、けれど一続きの景観としてどこか懐かしさを醸す色調にまとめられており、古きを良とする我が母国らしい大人びた雰囲気で人々をもてなしている。
もっとも、行き交う人達の半数ほどの意識と視線は、美しい通りの風景よりもその傍らに立つパートナーに向けられているのだけれど。
軽やかな街のさんざめきは、甘やかな声が違和感なく混ぜ込まれていっそう軽やかに。
それは他愛のない遣り取りであったり、もっと直裁的な、愛を囁く言葉であったり。甘い、甘い声色。
通りを行く数多くの幸せそうな姿とすれ違うたび、甘い言葉がまるで空気ごと染め抜かれているかのように否応なしに伝わってくる、恋人達の気配。
‥‥慣れねぇ。とアーサーは内心で、微妙に泣き言めいたことを思った。
履き慣れた革靴で石畳を踏みしめつつ、まっすぐ前を向いて進む。‥‥一人の、ヤツはやっぱいねぇな。と、単純に思った。いや、居ることにはいるのだけれど、それは携帯電話や時計を気にしながらそわそわと辺りを見回しているだとか、きっと恋人への贈り物でも選んでいるのだろう、男には似合わない可愛らしい外観のショップで難しい顔をしているだとか、そういう。
つまりここに居る大半の人々は、複数で遊んでいる友達同士か、或いは、二人称で呼び合って齟齬を来さない最少人数のパートナー、恋人同士か。で、あって。
当たり前といえば当たり前だ。ここが若者に人気のデートスポットであることを承知で、アーサーはやってきたのだから。
彼にとってこの地は文字通りの『母国』であるわけだが、かといって何もかもを承知しているというわけではない。実際、この界隈が若者に人気のデートスポットだという知識を得たのは、実はほんの数日前であったりする。ああ文明の利器、インターネットは実に偉大だ。どんなにニッチでマニアックな情報だろうと、検索すればヒットする。
もっとも、今回アーサーが検索したのは、さほどニッチでもなかったのだが。
妖精も眠りについた深夜の書斎、難しい顔のアーサーが見慣れた米国に本社を置く企業のロゴが踊る検索画面に打ち込んだのは、『ロンドン』『若者向け』『デート』。‥‥勿論、大西洋を泳いで渡れなんて無茶な検索結果は提示されることはなく、アーサーは歳若い恋人と過ごす為に必要な情報を首尾よく手に入れることが出来た、わけで。
‥‥こいびと。
胸のうちを過ぎったごく自然な己の思考に、心臓を掴まれたような感覚。
こいびと。恋人。‥‥そう、彼女は、俺の。
「マシューは、俺の、」
無意識に零した言葉で、アーサーは我に返る。
雑踏で意識が散漫になるなどあってはならない失態だ。これが一昔前ならスペインにチョークスリーパーをかけられたり、フランスに尻を揉まれたりしたことだろう。まぁ当然報復するけど。わりとえげつない報復するけど。っていうかフランスは今でも合うたび尻を揉んでくるわけだが、アイツ本当に節操ねーよなぁ大丈夫なのだろうかあの国は。頭的に。
もっとこう、挨拶というのは例えば極東の友人のような「OJIGI」だとか、西洋人なら握手であるとか或いは、可愛い可愛いかつての妹であり娘、そして今また新たな関係性を加えることになった彼女の、ふんわりとした甘い笑みと頬へのキスである、とか‥‥
「‥‥って、あれ?」
再度零れた無意識の呟きと一緒に、アーサーは気休め程度にワックスで整えた金髪を揺らめかせながら辺りを見回した。
楽しげに語らう、見知らぬ恋人達の姿。‥‥見知った、己の恋人は確か、一歩後ろを歩いていたはずなのだが。
「‥‥って、置いてきたぁ?!」
ああもう、何してんだ俺えええ!!これだから駄目なんだよ!
マシューは万事おっとりのんびりな女の子なんだからくれぐれも注意しろって、恋愛好きの妖精たちはおろかユニコーンにまで散々言われてたのに!
アーサーは慌ててきょろきょろと辺りを見回す。幸い人は多いものの込み合って前後も分からない、というわけではない。落ち着いて探せばすぐに見つかるはずと己に言い聞かせ、また情けなさに歯噛みしながら、辺りを窺う。
視界を彩るのは軽やかな街の音と、恋人達の姿。寄り添って、お互いを大切に思いあう人々。
しっかりと、握り合わされた手。
‥‥ああ、まったくどうすればいいんだ。
アーサーは、最初からマシューを恋愛対象としてみていたわけではなかった。
むしろ最初からそのつもりであったほうが宜しくないだろう。と思う。何故といって、アーサーが始めて彼女にあったのは、まだマシューが己の腐れ縁の庇護下にあった、片手で抱き上げることができるくらいのほんの子どもの頃だからだ。
けれど、彼女は驚くほどに美しく成長した。
小さく柔らかだった子どもの手はやがて柔らかさだけを残して異性の手に包まれるのに相応しい滑らかさを備え、仔猫めいてふっくりとしていた身体はまろやかな女性のフォルムに変わっていき。
変わらないまま、己の傍に居てくれた。
父親の元から攫うように奪った自分を兄と呼んでくれた。
愛し尽くした弟の離反に荒れ狂う自分の傍に居てくれた。
『アーサーさん』
柔らかな、おっとりとして甘い声で、名前を呼んで、寄り添ってくれた。
あの甘さに、己だけに向けられた心に、気が付かないほうがどうかしている。‥‥恋に落ちないほうが、どうかしている。
そうして自分達は、幸せな『恋人』になった。‥‥なった、筈で。
「‥‥‥‥。」
きた道を足早に戻りつつ、拳を握る。
‥‥不満はない。ただあるのは、不安だった。
何故といって、自分はお世辞にも『良い恋人』ではなかった。そもそも人付き合い自体を苦手とする自分には、そういえば恋人などと呼べる相手はかれこれ数百年ぶりだったっけ、なんていう始末なのだ。
思いつく限りの優しさを振舞う。屋敷に招いて、唯一自信があるお茶を振舞った。それだけではきょうだいだった頃と変わらないと思案した結果、恋愛マニュアル本を初めて手にとって、助言に従い小まめや電話や近況を書いたメール。大事な言葉はデジタルではどうかと思ったから、気に入りの便箋に手紙をしたためて投函した時には、ポストの前でしゃがみこみそうになった。‥‥けれど、でも。
辺りを見回す。幸せな恋人達は足早に通りを突っ切るアーサーに目もくれずにお互いを見つめて、幸せそうに歩いていく。手を繋いで。心を、繋いで。
‥‥どうだろうか。自分は、彼女と手を繋ぐ、資格はあるのだろうか。
どうにも慣れない恋愛事。
デートに連れ出せば彼女を置いてきてしまう始末。
マシューは若くてとても可愛い。知っている、彼女に向けられる男達の興味がどういうものかなんて。もしかしたら、否、もしかせずとも、彼らのほうがきっと『恋人』として相応しい対応の仕方を、触れ方を知っているに決まっていて、そうでない自分は、マシューの心を繋ぎとめるのに、努力しなくてはいけなくて。
繋がれている恋人達の手。繋がれていない、自分の手。
「マシュー!」
‥‥心を、繋ぐ為には。どうしたらいいのだろう?
「アーサーさん」
俯いて震える恋人を、走ってきた勢いのまま躊躇うことなく抱き締めた。