ピッ
短い電子認証音と共に、グリーンのライトが明滅する。
スモークガラスのスライドドアが音もなく開いた。
壁に取り付けられたIDチェッカーから、男の長い指がIDカードを抜き取る。無造作に手離した其れはけれど落ちることはなく、首に掛けられたサスペンダーに導かれて、みぞおちの辺りへと落ち着いた。
単調な、足音が響き渡る。
長くはないが短くもない、直線廊下だ。
天井を直線に並ぶ蛍光灯は控えめにおぼろ、リノリウムの床と、鍵の掛けられたいくつかの味気ないドアが並んでいる。壁には何の表示もない。必要ないからだ。此処を通るのは、ごく限られた人間だけだ。
廊下の先にもまた、味気ないドアが一枚。この扉は、外界に通じている。
此方には先ほどのスライドドアのような認証装置はない。この扉を知るのは関係者だけであるし、立ち入りの制限は先ほどのスライドドアで行われるのだ。
だから、長くはないが短くもないこの直線廊下は、外から入ってきて、本当の中へ行くまでの、奇妙な猶予箇所。
何の為に設けられているのか、使用者達にもわからない。
やがて足音は廊下を渡りきり、金属製の扉の前へとたどり着く。
男の白い手のひらが、ゆっくりと扉へと這わされる。
開錠の鈍い金属音がして、扉がゆっくりと押し開けられていく。
建物の正面玄関に据えられている、繊細で心を落ち着かせるガラス製の自動扉とは全く異なるスチール製の其れは重く、ゆっくりとしか開かないように出来ている。無骨で実務一辺倒なつくりは、けれど相応しいといえば相応しいのだろう。ここは関係者用の通用口であって、簡単に開放すべき場所ではないし、正面玄関のように此処を訪なう患者や見舞い客らの心を安らがせる演出も、必要はない。
ただ、この場所で使命を全うする者達だけがくぐる場所。
病院という命の砦で、救い上げられる生命を取りこぼさぬように。持てる技術を敬虔な情熱を、懸命に、一心に捧げる者達が、通る廊下。
押し開けた扉の内から外へと、外気との気圧差に発生した風が吹き抜ける。
ドアとドアに切られた廊下であり、空調管理も完璧に整っているが、それでもやはりどこかぬるい、けれど病院という場所らしい消毒薬の匂いをかすかに含んだ風が、扉を開けたひとの背中を瞬間、強く押した。
首から提げたIDが風に揺れる。写真入の其れからは、彼がこの場に居る正式な権利を有している外科病棟の医師、であることが見て取れた。
はためく白衣は、バランスの良いスタイルにしっくりと馴染んでいる。
感嘆のため息がでそうな白い肌に秀麗で華やかな顔立ちをしていた。柔らかそうな金色の髪は丁寧に撫で付けられて後ろで結われ、性別を越えた恐ろしいほどに整った美貌は、けれど顎に這わせた髭が絶妙のバランスで微かなワイルドさと、男性らしいセクシーな雰囲気を演出している。
長い指をした左手薬指には、シンプルな指輪が一つ。
ふと、その指輪を填めた少し骨っぽい手が、白衣のポケットを探る。
現れたのは、此方も指輪だ。それも、ふたつ。
手のひらの中の指輪を、男は無言で、暫し見つめた。
サイズは男が今填めているものとほぼ変わらない。
いや、一つは完璧に、同じサイズだ。片方はそれより僅かに小さい。
そしてデザインはまったく同じ。対で作られているのだ。
彼はそっと、そっと宝物のようにその指輪を、握りこむ。
それから、薬指に填められている指輪をそっと抜き取ると、ポケットから取り出した指輪の片方を、それと取り替えるように、填めた。
ぴたりと指輪は、男の左薬指におさまる。
まるでずっと、その場所に居たように。
‥‥まるでずっと、その場所に、居たかったかの、ように。
男は其れまで填めていた指輪を白衣のポケットに放り込むと、一つ残った指輪を握りこみ、瞑目した。それから顔を上げて、開け放ったドアへと、視線を飛ばす。
静かに開け放ったドアの脇に、立つ。
優雅でありながら怜悧。教養と専門知識を頭の中に収めて、己の職を全うする誇りを、空色の瞳に宿して、ただ、静かに。
静かに、喩えようもない、悲しみを宿して。ただ、静かに、立って。
たったひとりを、待っていた。
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