夜闇の中から軽やかな足音が聞こえてきた。
既に日は落ちて久しく、辺りは闇に包まれている。ドアから顔を覗かせて見回せば、日中ならば少し離れた場所に院長の趣味で瀟洒に整えられた外来用の病院正面玄関を眺めることが出来るのだが、外来受付はとうの昔に終わっている。夜の闇にはただ暗い、此処、関係者通用口へと続く細い石畳が、仄かに見えるのみだ。
軽やかな足音は、駆け足で。
スニーカーなのだろう、ラバーソール特有の地面を食む、少し可愛い音が近づいてくる。暗闇を気にした様子は欠片もない。そう、その足音の持ち主には、そろそろ通い慣れてきた道なのだ。

男は、ゆっくりと息をひとつ、はいて、吸う。
それから瞬き、‥‥空色の瞳に満ち満ちていた悲しみを一瞬で拭い去ると、花も斯くやの笑みを浮かべ、待ち人の名前を呼んだ。

「マシュー」
「‥‥ふぇ?あれ、フランシスさん!」

軽快な足音が呼び声に反応して揺れる。立ち止まりはしない。石畳を食んでいた靴底は、一歩、二歩、速度を落とした後で、今度は更に速度を上げて、駆け寄ってきた。
そして淡い明かりが漏れる通用口に、足音の持ち主が弾む足取りで飛び込んでくる。
入り口を塞ぐかたちで立っていたフランシスは、其れを笑いながらヒョイ、とかわした。
飛び込んできた人物は、てっきり彼の腕に文字どおり飛び込めるとばかり思っていたのだろう、ゴールポイントを失って数歩分、身体を泳がせる。とはいえ、転びはしない。学生時代はバスケットプレイヤーとして活躍していたのも頷ける、ほっそりと華奢に見えるがよく鍛えられたボディバランスで、綺麗にステップを踏んで最後に一つ、くるりとターンを決めた。

「もうッ、避けるって酷いじゃないですかぁ!」

詰る言葉は、けれどどこかイタズラげな笑みを含んだ、軽やかな口調。
だからフランシスも、芝居がかった肩をすくめる仕草で応じる。

「あらぁ、美しいボヌフォワ先生の胸に飛び込みたかったのかしらぁ?うんそうだよね、美しい俺の美しい胸に飛び込めば、一日の労働の始まりには素敵なビタミン剤だよね!さささ、遠慮せずもう一度来ていいぞーぅ?」
「あはは、ヘンなフェロモンたっぷりな栄養貰っちゃいそうなんで、止めときまーす」
「やぁん、ヘンなフェロモンなんて酷いですわ、ウィリアムズ先生ったら!」

甲高い声色で科を作ったフランシスに、澄んだ若者らしい笑い声が廊下にこだます。軽やかな声に、フランシスもまた、やんわりと微笑んだものだ。
どこか甘い語尾や声音は、彼、マシューの良い意味での癖だ。おっとりと甘やかでけれど聞き取りやすい、心を落ち着かせる柔らかな声は、小児科医、マシュー・ウィリアムズとして、持って生まれた天性の武器ともいえるだろう。

同時に、優しく愛らしい恋人としても、とても素敵にフランシスの心を甘く震わせてくれるものだった。

くすくすと楽しげに笑う彼は、フランシスより歳若い、可愛らしい容姿をしていた。
勿論、医学部を卒業しインターンも終えた彼は当の昔に成人しているし、医者として駆け出しではあるが、地域でも比較的規模が大きく、広域の救急医療基地としても機能し、大学や各学会に名を連ねる高名な医師学者達とも繋がりのあるこの医療機関に在籍している時点で、彼が優秀な、将来を嘱望される医者であることを物語っている。
けれど、今こうして見る彼は、やはりフランシスの目には愛らしいばかりに映っていた。
メイプルシュガーのようなほんのりと淡い色をした髪はふわふわと柔らかで、いつも微笑んでいるような淡い青灰色の瞳に至極似合っていた。
身長こそあるが、バスケットで鍛えていたというわりにはどこかほっそりとした、男性にしては華奢な身体つき。
そう、フランシスの腕の中に抱き締めればすっぽりと収まってしまうような、とてもとても、可愛らしい、フランシスの恋人。
白衣を着ればまた印象はガラリと変わるのだが、通勤時の彼の服装は、とてもカジュアルな若者らしいものだった。今日は特に、動きやすさも考慮されているのだろう。

「ごめんねぇ、俺が家まで迎えに戻れたら良かったんだけど」
「何言ってるんですか、いいですよぉ。歩いてくるのも、気分が変わっていいし」
「でもさぁ、いつもは車で迎えに行けてたのに、」

扉脇に留まって、尚も何事かを言い募ろうとするフランシスに、廊下の奥へと進みかけていたマシューは妙にあどけない、きょとんとした顔をした後で柔らかく微笑む。
それから、肩から斜めに掛けた鞄を一度抱えなおして、一歩、二歩。
ちゅ、とついばむ仔猫のようなキスは、イタズラっぽい、けれど甘い甘い、恋人への。

「仕方がないじゃないですか。勉強会の準備、忙しいんでしょう?」
「‥‥うん」

如何にも不承不承、といった具合のフランシスの、妙に幼く拗ねたような声に、マシューはどこか慈愛に満ちた、とても綺麗な笑顔を返したものだ。

スケジュール上では、この日のフランシスの勤務時間はとうの昔に終わっていた。外来も入院患者へのケアも時間内にこなしたし、他の科に跨る治療が必要な患者の為の検討会議も順調に進み、緊急のオペも入らなかった。
ただ、此処ではない他の大学の医局に勤める同期の友人達との勉強会の資料づくりが押していたのだ。会のメンバーが持ち回りで司会進行をつとめる勉強会の、進行役が巡ってきていたのをすっかりと失念していた。それを、勉強会仲間且つ、この病院に勤めている同期であり、マシューの兄でもある相手につい昨日指摘されて、しこたま怒られたのである。

「もー、なんであの坊ちゃんはああ怖いのかねぇ。お兄さんのガラスのようなハートはズタズタにされちゃうよー」
「もう、またそんなこと言って。兄もあれであなたのこと、心配してるんですよ?」
「うん、それは、十分に知ってるけどね。‥‥アーサー、優しいし」

覗き込んでくる恋人の瞳に苦笑して応えれば、湖水色の瞳がやんわりと微笑んだ。
マシューは専門こそ違えど同じ職業に就き、既に新進気鋭の外科医として患者や学会からも評価を得ている兄を、心から尊敬している。
幼い時分に両親を亡くしたマシューは、彼の双子の兄弟と共に兄であるアーサーに、愛され抜いて育ったのだ。
成長した今では、歳が離れた兄弟とはいえ両親を失った当時、アーサーもまた学生であり、幼い双子の弟達を育てながら医学の道を進んだ兄の尋常ではないほどの努力を、十二分に理解している。
幼い弟達の食事を用意し、寝かしつけ、学校やその他諸々の諸手続きをこなし、弟達が親がないことに起因する寂しさを紛らわすべく、ピクニックやレジャーにも連れ出し、一方で己の為の勉強をこなし。両親の遺産が十二分にあったことで金銭面での苦労はなかったものの、並大抵どころか本当にいつ寝ているのか分からないと同期の友人や指導教官らに感嘆を通り越して呆れられるほどの努力を、アーサーはしていたのだ。
そんなアーサーとその弟のひとりであるマシューを、フランシスはアーサーの親友として、子ども達のもう一人の兄として。ごく近い位置からずっと見守ってきた。
優しく強い兄と、心優しい愛らしい弟。もうひとりの弟もまた、快活でやはり優しく。
穏やかで、優しい兄弟たちを、フランシスはずっと、ずっと見守って。

そうして、愛した。

「マシュー」
「‥‥‥‥うふふ」

抱き締めた身体は、温かかった。
力を抜いて預けられる体重はいとおしく、甘やかな声で呼ばれる己の名は、マシューだけが呼べる、特別なもののようにさえ思えた。

「‥‥迎えに行けなくて、ごめん」
「もう、いいんですってば、そんなこと」

重ねて謝る声に帰ってくるのは、ふんわりと温かな声ばかり。

フランシスが本来の勤務時間を終えているのとは逆に、マシューは今の時間からが勤務だった。夜勤である。
この病院は夜間の救急外来も開設しており、且つ、救急指定機関でもあった。夜間でも医師や看護士といったスタッフが詰めている。人員の不足による医療関係者の過剰労働、医療の現場崩壊が叫ばれる昨今だが、幸いなことにこの病院では院長の方針から、十二分にスタッフが配置され、労働環境が良好に保たれている。

とはいえやはり、夜勤というのは辛いものだ。

「ああ神様、今日は酷い事が、起こりませんように!」
「はは、酷い事って」

顔を上げての、医師が言うには率直過ぎる祈りの文句に、フランシスは軽く笑った。
マシューもまた恋人の笑いに誘われるように笑ったが、はふ、と息をついてからもう一度恋人の胸へと、身体を預けた。

「起こりませんように、ですよ。‥‥酷い事故も、事件も、なにもなければいいよ」
「‥‥‥‥‥‥。」

ため息のような呟きに、フランシスは無言で青年を抱き締める。

体内を荒す病、凄惨な交通事故、殺傷事件。
救急、緊急で来る患者は当然として対応が難しいことが多い。生死に直結する判断、冷酷なまでの時間との闘争。どれほどに知識を詰め込んでも、どれほどに医療技術が発達しようとも、零れ落ちていく生命を救うことが叶わないこともある。命という替えのきかない相手をこの世界へと留めおく為の格闘、極限までの緊張状態を強いられることが、日常なのだ。

「うん、だからせめて迎えに行って、美味しいごはんを食べさせてから、送ってあげたかったんだけどね‥‥」

頑張っておいで、と。
同じフィールドに立つ医師として、優しく人生を共に歩む恋人として。
頑張っておいでと、励まして、甘いくちづけと抱擁と、そして仕事を終えて帰ってくる恋人に、労わりの愛を、あげたかったのに。

愛し続けて、いきたかったのに。

「ごめんね。許して」

呟くように、フランシスは言葉を繰り返す。‥‥ごめんね。ごめん。
その繰言めいた言葉と、少しだけ様子のおかしい恋人に、マシューは怪訝な顔をしてフランシスを見上げた。

「フランシスさん?」
「‥‥うん」
「どうか、したの?」

フランシスは、応えない。
ただ、腕の中の温かい身体を、ほっそりとした最愛の恋人の身体を、ただひたすら、抱き締めるだけだ。

どれくらい、そうして時間が過ぎただろうか。

マシューがもそもそと恋人の腕の中で身動ぎする。‥‥そろそろ、勤務時間なのだ。余裕を持って来はしたが、それもこうしているうちにぎりぎりになってしまった。時間までには身支度をし、看護士や医師を初めとする今夜のスタッフとの申し送りや意見交換を済ませておかなければならない。
そわそわと身体を揺らす青年に、フランシスはそっと、きつく抱いていた腕をほどく。
ふわりと甘い彼の匂いがして、腕の中からマシューが離れていった。
フランシスは無言で、彼を見つめる。
その恋人の視線に困惑しきったマシューが、時計を気にしつつも離れ難そうに瞬きした。

「あの、フランシスさん、僕、もう行かないと」
「そうだね」
「えっと、その。‥‥あ!あの、帰ったら僕、フランシスさんのごはん、食べたいです!」

そわそわと沈んだ様子の恋人を窺っていたマシューが、まるで名案を思いついた、とでも言うようにパッと顔を上げて、笑顔で言った。
フランシスは、そんな彼をじっと見つめる。

「ごはん?」
「はい!えっと、今日は明日の10時上がりだから‥‥。その、フランシスさんのごはん食べたいです」
「‥‥‥‥‥‥。」
「そ、それに明日あけたら一日お休みだから。フランシスさんも、お休みでしょう?だから、‥‥その」

笑顔で言い募っていたマシューの頬が、ふんわりと赤らみ、視線が下へと落とされる。そわそわと、指先が肩に掛けた鞄の縁を弄っていた。‥‥醸される甘い雰囲気を読めないほどに、フランシスも自分たちの関係も、純情なものではなかった。
フランシスは一度解放した青年の身体をもう一度、そっと抱き締めた。
ピクリと震えた、その愛しいひとの首筋に、顔を埋めるようにしてそっと唇を寄せる。

「ん‥‥ッ、あ、フランシス、さ」
「うん、そうだね。いっぱいいっぱい、甘いことして過ごそうか」
「ぁ、‥‥」

フランシスは顔を赤らめて俯くなんて、いつまでも初々しい恋人を、優しい、優しい視線で見つめながら甘やかに密やかに、囁く。

「お前の好きなもの、何でも作ってあげるよ。なんでも、好きなだけ作ってあげる。ポテトキャセロールがいいかな、好きだよね?それから、一緒にお風呂でもはいろうか。きっと夜勤明けで疲れているね、お湯の中で眠ってもいいよ俺が抱いててあげる。そしてしっかりと温まったら、一緒にベッドに行こう。いっぱいいっぱい、愛してあげる。マシューの可愛い声で俺の名前を呼んで。たくさん呼んで、それから、気持ちいいことしよう?幸せで幸せで、たまらないくらいに、幸せにしてあげる。それから、一緒に眠ろう。起きてからも、ずっと、ずっと一緒に居よう」
「え‥‥、」
「ねぇ、マシュー。ひとつだけ。」




「お前は、幸せ?」




真摯な声で。甘く、誰よりも優しく、愛を込めて、問いかける。




「‥‥幸せだよ。フランシスさんの傍にいれて、幸せ」









そして、愛を込めて返された言葉を、息も忘れて、この身体に、心に、永遠に刻む。



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