熱、というものは意外に侮れない。
どれだけ息を殺しても、どれだけ気配を消したとしても。唯一殺しきることが出来ないものが、熱だ。限定すれば、体温。生体の発する輻射熱はどう足掻いても消しきれない。大気を震わせ気流をつくり、そうして温覚を刺激する。警告、警告、警告。反応せよ、反撃せよ、殲滅せよ。
それこそが、己が存在意義。
血塗れの道を歩めと生れ落ちた瞬間に下った、天命。
「‥‥で、タマゴはいくつだ?」
澄んだ低い声が起き抜けの言語野を上滑りする。
明順応しきれない視界は狭いモノクローム、けれど嗅ぎ慣れた匂いが感覚を一気に広げて身体を満たす。
さらりとした夜着の感触、このところ軋み始めた寝台のスプリング、柔らかな枕やシーツ、石と樹の建物の温度。
それから、この身に馴染む血を分けた相手の匂い、美しい、天の金、天の青。
「‥‥ヴェスト、」
「ああ、そうだ。俺だ」
兄さん、と呼ぶ声は低く、落ち着き払っていた。
軋む寝台に片腕をついてずっしりと厚い上体を支え、ゆっくりとした気息が朝の寝室の空気を緩やかに震わせる。その息さえも感じられる距離、喉と頚動脈が、薄皮一枚の距離で微動だにしないナイフの刃の距離に静かに拍動していた。
そして、鍛えられて太く締まった身内の首を押さえているのは、紛れもなく。
「んぁ?」
「‥‥寝ぼけるのも大概にしろとそろそろ言ってもいい頃だと思うがな、とりあえず、ナイフを降ろしてくれ」
フラットな声は、どうやら声帯を出来る限り震わせない為のようだ。
確かに今この体勢で大喝しようものなら、その勢いで喉笛を掻っ切ること間違いなしだ。冷静な判断が出来る弟は、俺の誇りだ。
頚動脈を押さえていた指先から力を抜く。その瞬間微かに震えた愛しい弟の身体に傷をつけないよう、タイミングを計ってナイフを引いた。近接していた(させていた)熱が離れていく。と、同時に、深いため息と。
「ワリ、熱に反応した‥‥」
「なんという寝起きの悪さだ。イタリアもびっくりだな」
「うるせぇなー、つかイタリアちゃん関係ねーだろ。仕方ねぇじゃんかもう身にこびり付いちまってんだから。単なるクセだ、クセ。ってか、丸腰でなんて眠れねーって」
「丸腰でも急所に指を突き入れて、兄さんなら落とせるだろう」
「こっちのが簡単だし確実だ」
殺すのに。そう言い切った言葉に呆れようなため息を返されたのには、敢えて応えない。
くはぁ、と大欠伸をしながら、ぱたりと落とした腕と一緒に身体の力を抜いた。ぱすり、軽い音は枕の下に仕込んでいた、使い慣れたナイフがシーツの上に落ちる其れ。身体を伸べたままの寝台は柔らかく暖かく、ふかふかとして全てを包みこんでくれる。
死臭と血の鉄の匂いが染み込んだ地面に這い蹲り、戦いに明け暮れていた時代には考えつきもしなかった、穏やかな朝の褥だ。
有機も無機も等しく包み安らがせてくれる、柔らかな感触。
「あー‥‥ねみー‥‥」
「寝るな起きろ。朝だ」
シーツに顔を埋めた半分だけの視界で、大柄な弟の身体が床にかがんで黒塗りの鞘を拾い上げるのを見るともなしに眺める。
続いて寝台の上に投げられた、ほんの僅か前まで己の喉を掻っ切るべく突きつけられていたナイフを特に恐れるでもなく一緒に拾い上げ、丁寧に鞘へとしまい、サイドボードへと置いた。音はしない。鞘にも刃にも、鞘走りすら吸い込むように特殊な加工をした小振りの戦闘用ナイフは、さていつの時代に誂えたものだったか。
「それで、タマゴはどうする」
「あー‥‥?」
急激な覚醒の反動か、妙にぼやけた思考回路で、弟の言葉をそれでもどうにか咀嚼しようとする。タマゴ、たまご。‥‥朝食の、卵料理。固焼きパン、ポテト、ベーコンとタマゴ。身体を満たし動かすための食。‥‥それらを自由に過不足なく摂れるようになったのは、わりと最近のこと。
血と汚泥と飢えと乾き。極限の中、腕の中に冷えた刃ひとつ抱いて眠っていたのは、そう昔の話ではない。
遥かな時間、戦いに身を投じてきた。
血に塗れる為に生まれ落ち、生死の狭間を駆け抜くことを望まれて。
奪うことこそ、己が本性。土地を、命を、時にその名さえも。
人の命の価値はそれこそタマゴひとつよりも軽く、幾万の其れを奪うことで背負わされた重みを重みと感じるより先に、更に奪った。
自分は、その為に作られたのだ。その為だけに、作られたのだ、と。
思っていたのに。
「兄さん?」
静かな『弟』の声が呼ぶ。
そっと触れてくる、指先は熱く。
「どうした、具合でも悪いのか?それともなにか、」
訝しげな声、身内を心配する気遣いに溢れた其れを遮るように、熱い身体にしがみついた。
「‥‥ヴェスト、」
きっちりと鍛えられた身体は硬く厚く、けれど柔らかく。
呼吸に合わせて微かに拍動する皮膚の下には、熱い血が流れている。
「ヴェスト」
血に塗れる為に、俺は生まれた。
生という生を屠り、夥しい返り血を浴びながら、冷えていく死を見送りつづけた時代。自分は、そのために生み出された装置だったのに。
愛しい弟、血を分けた息子、我が分身。
血塗れになりながら生き抜いた果てに漸く手に入れた、この熱が。
「好きだ」
この身体に宿る熱が、こんなにも愛しくてたまらない。
「‥‥‥‥‥‥‥‥甘えたところで朝食の量は増えんぞ。マッシュポテトに固焼きパンにヴルストそれからスクランブルエッグ、タマゴは二個だ、あとコーヒー」
「俺の卵料理の選択権はどこいったんだよ」
「時間切れだ」
「つーかよぉ、ちょーかっこいいお兄様が好きだっつってんだから答えろよヴェストー」
「お兄様とかいうな!」
「んじゃ恋人。」
「‥‥ッ、ああもういいから早く起きて顔を洗ってきてくれ!‥‥それと!俺も好きだ!以上!!」
両肩を掴まれて引き剥がされるように離れていった熱と、大きなストライドで部屋を出て行く後ろ姿を見送る。見送る、というほどの時間もなかったのだが、何せもの凄い早足だった。
けれど、しかし。
「‥‥あー、かーわいいぜぇ、俺のヴェストはよぉ‥‥」
そう呟いてから、起こしていた上半身を再び寝台へと沈ませる。ぱふん、とのどかな音を立てて迎えてくれたシーツは既に眠りの世界の熱を落とし、ひやりとした感覚を皮膚へともたらす。
冷たい其れ。けれど、嫌ではない。
ニヨニヨとにやけながら、先ほど一瞬だけ捉えた弟の後姿、耳の先からシャツから覗くうなじまで真っ赤に染まっていたのを思い出す。熱。赤く熱く、きっと触れれば愛しさに震えてしまう。
「好きだ」
口に出して、噛み締める。
「好きだぜ、ヴェスト」
愛しい弟、血を分けた息子、我が分身。‥‥大切な、恋人よ。
「愛してる」
漸く手にした手離せないこの熱を、俺は一生守って、愛していく。
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