落ちてきそうな空だった。
澄んだ空気はどこまでも透明で心地よく、呼吸のたび肺の中を洗っていくようにさえ思えた。
天は青く、青く。
本当は無色の筈の空を、ひとの目は青と捉えて美しさに慄く。
きっとそれは、人が青を最も美しい色と考えるからなのだろう。
それは、決して手にとることの叶わないものだから。

もう二度と、手にいれることは叶わない、ものだから。









微睡みというのは、人がもっとも幸せを感覚できる時間だと思う。
温かで自在にできる夢の世界を、ままならぬ現実において束の間体現する。
意識が溶け出しながら、それでいて自己の中に己として収束していく過程。
スイッチを切り替えるような目覚めもそれはそれで潔く好ましいものだが、こんなふうに妖精に腕を引かれて歩くかのように緩やかに覚醒していくのは、現実世界では他に言い換えようのない、いわく言い難い心地よさがあると思う。
もっともその時点にあったとしても、記憶を持った肉の身体は正確に、記憶に従った防衛をするのだけれど。

「‥‥撃たんといてな、ここ、俺のお気に入りやねん」

血で汚したぁないし、弾痕も勘弁やわぁ。修繕費とかバカにならへんねんで。
澄んでいながらどこか不定形な声音に、イギリスは目を閉じたまま鼻を鳴らした。それでも己の肩を台座に据えた背後への照準が一分の狂いもないのは、それこそ身体が記憶した、血と闘争の歴史に依るものだろう。

「あんな、ここ一応文化財登録されてんねんでー。あと100年もすれば世界遺産候補。俺んちの大切な商売道具とりあげんといてや」
「テメェのとこは歩けば世界遺産に当たるじゃねぇか」
「えー、それもちょっと前にイタちゃんちに負けてもぉたしなぁ」

笑い含みの柔らかな声は、まるで今まさに己に降り注いでいる陽光の触り心地だと思う。勿論太陽光など手に握った覚えはないので、正確な喩えではないのだろうが。
‥‥否。自分と、いまこの背後に己が銃口を向けている相手は。
一度は太陽を手にした国であったのだ。

太陽の沈まぬ国。そう呼ばれていた時代は、互いに既に遠いものだけれど。

背を凭せ掛けていた椅子からゆるゆると体勢を起こしながら、それでいて背後へ向けた‥‥正確には、背後に立つ家主へと向けた短銃の照準は、一ミリの狂いも生じさせない。世界は概ね平和になったと言うが、それでも自国は今この時でさえ戦闘状態の地へ派兵している。この身体が記憶する闘争は、いついかなるときでも薄れることも、揺らぐこともない。
けれど。

「ええ天気やんなぁ」
「だな」
「葉モノには日光がないとどうしても色も味も悪くなるし、露が落ちると根腐れて収穫量が落ちるのが痛いわぁ」
「ああ‥‥、そうだな、俺の庭も霜に季節によってはやられるな。温度にも虫にも強い品種もあるけれどな‥‥」
「んん、でもやっぱり手間暇かかっても、美味しいもんがエエしな。お天気さん次第なんも、それはそれでええわ」
「弱くても、好きな品種を植えたいんだ」

他愛のない話を、美しい青に見守られながらする。
開放窓から窺うパノラマは目に染み込む緑の山々、真白の雪を頂く高峰から流れ落ちる雪解け水に潤され、植物の息吹さえ聴こえてきそうな濃い色。
遠く見える古城、鮮やかな花々に彩られた厚い白い壁の家。スペイン瓦の赤は美しく、藤で編まれた椅子の足元、床に敷き詰められたタイルは陽光を吸い込んで温かい。
そして、背後にひそりと寄り添う、男の体温も。
グリップを握った手を引かれる感触、安全装置を掛けられる小さな金属音と、ふわりと甘い大地の匂い。
少し冷えてるなぁと呟かれたのに、平気だというように肩をそびやかして返しながら、リボルバーを抜いたせいで少し乱れた服をなおした。

「自分なぁ、もうホンマ撃つ気満々やん、やめてぇな一応ここ平和な村やしな」
「たまにはショッキングな事件も村の歴史の彩りだぜ」
「由緒ある古〜い別荘で男同士の痴情の縺れによる殺傷事件がか?」
「‥‥マーブルカラーの彩りだな」

朗らかな声でのいわく言い難い響きをした指摘にうんざりした声で応じれば、軽すぎる笑い声が返される。
文字どおりの毒気を抜かれる柔すぎる反応に、イギリスはため息をついてグリップを握った指先から力を抜いた。
背後からするりと取り上げられたM686を追うように上体を捻れば、片腕でイギリスを抱き締めながらもう片方の手でリボルバーのバレルを支えて呆れ気味の、けれど鮮やかな緑の瞳と視線が合う。
触れるだけのくちづけは、南国の風のようだ。

「人んちの別荘に物騒なもん持ち込まんといてや」
「護身手段はいついかなるときも、だぜ」
「自分、身ひとつでも十分やれるやろー。てかお前自身が一番物騒やわ」
「誉めてもなにもでねぇぞ」
「誉めてへんし」

甘いくちづけの合間に甘くない会話を挟み込むのが、自分たちの日常だ。
日常から脱してやってきた別荘でも、それは変わらない。
一頻りの交歓を終え、イギリスは再び身体と視線を正面へと戻した。背後から抱き締めてくる腕は好きにさせておく。
晴れ渡った南国の空は、自国の其れとは全てにおいて違うように見えた。
緯度の違いからくる日照量、瞳を染色してくるような深く澄んだ青。それでいて麗らかで、静かなのに華やいでいる。この国がとかくシェスタを愛するのも無理もない。こんな風な穏やかさに包まれて、あくせくしようというほうが無理なのだ。

「しばらくはお天気が続きそうやなぁ」
「そうなのか?」
「ああ、風が言うてるわ。それくらいお前かて読めるやろー、海を暴れまくった海賊紳士殿?」
「昔の話だ、もう忘れちまったよ」
「制海権から領土まで人から散々に毟ってきよったくせに」
「手に入れたもんは、全部失っちまったからな」

濃い緑の稜線から上へと視線を向ければ、そこに在るのは何者にも犯し難い至上の青だ。
ただひたすらに美しく、静謐。偉大なる見えざるもの、手の届かないものへの憧憬を祈りへと昇華して、世紀を渡る聖なる御家を建立するこの国に相応しい、天上の青。

ひとはいつだって、届かない何かを求めて手を伸ばす。伸ばして、きた。
届かないとわかっているのに、それでもなにかを求めて、震える指を。

その指先を取ったのは、緑滴る大地の温かさをした手のひらだった。

「‥‥‥‥何だよ、この手は」
「うん?や、だってイギリス、なんかヘンな顔しとったし」
「は?何、言って」
「手ぇはなー、繋ぐためにあんねんで?」
「‥‥は、」
「好きな相手には優しくしたるのが、俺の流儀や」

背後から抱き締めてくる腕と声。
それは、深い緑が根を張る大地の温かさをして、届かない天の青に震えるイギリスを優しく包み込んでくれる。




かつて太陽の沈まぬ国と呼ばれた時代、自分は何もかもを手に入れたと思った。
富も名声も、世界さえこの手に入れたと、入れられると、思っていた。
事実自分は世界の海を駆け、抗うものには死を持って報い。そうして新世界へと渡って、世界でもっとも大切なものを手に入れたと。

美しい青い瞳の、大切な相手を。

けれどそれは、届かない天の青だった。全てを、失った。
天には手が届かないのだ。思い知った。空はただひたすらに青く青く、慄くほどに美しくて、容赦なく残酷だ。
斜陽、落日、凄惨で隠微な闘争の日々。そうして今また奇妙な静けさの中、届かぬ青い青い空の下、ひとり。

‥‥否。




「イギリス、俺なぁ、なーんも持ってへんけど、とりあえずお前の欲しいもんはな、あげられるんやで」




青い青い空の下、鮮やかな緑と大地の匂いのする相手と、ふたり。




「‥‥俺にフルボッコにされて以来の貧乏人のくせに」
「うっさいわボケ」
「まぁそういうのも嫌いじゃない」
「え?貧乏なんが?」
「‥‥働け。そして稼いで俺に貢げ」

きっぱりと言い切れば、朗らかな声が耳元でこだます。
肩に懐くように顔を埋めて体重をかけてこられたせいか、キシリと藤の椅子が過重に不平を洩らしたが、元から座る客人も古い古い家主も聞き入れるつもりはない。

「別荘ご招待くらいで我慢してや。可愛いお花に美味しいトマト。ほーらイギリスにはあらへんキレーなお空やでー」
「うっせぇ!英国にはあの曇り空が似合ってんだよ!」
「うはぁ、天気がええと眠たなるなぁ」
「‥‥テメェはいっつも寝てんじゃねぇか」
「ええやん、いいお日和の時間は寝るもんやで」

そやから、一緒に寝よ。
軽すぎる声は、イギリスの膝に太陽と土の匂いのするジャケットと一緒に落ちてきた。はっと目を見張れば、いつの間に移動したのか、椅子に掛けたイギリスの足元の床に座り込む、黒髪。ジャケットを脱いだ肩に厚みはないが、日々の労働で鍛えられた綺麗な筋肉が、自分とは違う小麦色に焼けた肌の下に綺麗に収まっている。

「って、おい、これじゃお前が寒いんじゃ」
「俺は自分ちの気温に慣れてるから平気。床のタイルもあったかいし」
「でも、」
「言うたやろ、好きな相手には優しくしたる主義やねん。お前に風邪なんぞ引かせたないわ」
「‥‥っ、」
「どうしてもいうなら、お前の膝ちょっと貸しといて」
「ふぁ、」

温かなジャケット越しさらに温かな頭を凭せ掛けられ、イギリスは一瞬身体を竦ませた。
それは膝に懐く相手にも確実に伝わったはずだが、黒髪の頭はゆったりと膝に懐いたまま動かない。

「おい、スペイン、」
「んー?」
「‥‥いや、なんでも、ねぇ」
「んー」

柔らかな応答。真っ青な空から降り注ぐ日差しが座る彼の身体を柔らかく包み、ほんのりと温めているのが解る。黒髪は光を吸い込んで、淡いブラウンにまたたいているように見えた。
イギリスはそっと手を伸ばして、少し癖のある黒髪へ指先を潜り込ませる。温かい。太陽の、感触だ。
それは本来、触れることの出来ないはずの。

‥‥ああ、違うか。




これは、大地と緑の感触だ。大地に根を下ろし、太陽を吸い込み、天の青を染み込ませて出来た、萌え滴る緑の。




「スペイン」
「んー?」
「俺、結構お前のこと好きだぜ」

そか、よかったわぁ。なんて。
言いながら、膝に懐いたままの男が鮮やかに、大地の緑をした瞳を笑ませたから。イギリスも少しだけ笑って、髪をいじっていた指先を絡め取りにきた指にひかれるまま温かな手を繋ぎ合わせて、今度は二人で、午睡に戻ることにした。









眼裏に記憶した青は美しく冴え、全てを失い、手は届かないまま。
けれど己の指を握り締める恋人の、大地の温みと滴る緑の瞳を手に入れた今は、もう。









  空の青と本当の気持ち





the end.(2009.11.12)

青い海を駆けて手に入れた天の青は無情
冷えた指先を握ってくれた大地の緑に抱かれて、温かな眠りを知った
親分視点と、メリカ視点も書けたらいいです。米→英なんだコレ(‥‥。)

親分視点はコチラ→『フェイクブルーの真実』