「‥‥ああ、ごめんね、僕、また此処に、きちゃったんだね」

ほろりと、苦笑さえ含んだ澄んだ声が零れた。

短くて長い廊下を、仄かな照明がおぼろに照らしている。
ひとは居なかった。本来ならば、マシューと同じような夜勤のスタッフが通ってもいい時間帯だ。けれど、ひとは居なかった。
彼の為に。
死の間際まで他者の命を救おうとし、死してなお、幾度も幾度も、医師として勤務地へと駆けてくる、マシューの、為に。
そして、そんな彼を、愛しい愛しい恋人を失って、狂わんばかりに泣いて。
‥‥そして今は、何も知らず走ってくる恋人だった相手を。そっと待つ、待ち続けた、フランシスの為に。

誰もが皆、その場所を譲ったのだ。

静まり返った廊下に、男の泣き声が響く。
もう死んでしまった、けれど此処に居て、己の腕の中に納まった、恋人だった青年を抱き締めて、フランシスは泣き続けた。

「‥‥フランシスさん?」
「ひっぅ、う、マシュ、ぅ、ましゅー‥‥」
「フランシス」

そろり、と、細い腕がフランシスの身体を抱く。
‥‥もう歳をとる事のない彼は若いまま、見覚えている顔よりも少しだけ歳をとった恋人を、そっと抱き締めた。腕は、温かい。不思議なほどに。

「フランシス、」
「うー‥‥ッ」
「フランシス、ねぇ、愛してる」

腕は温かく。愛を誓う言葉は、永遠に。時を止めた彼から、永遠不変の、愛の言葉。

「愛してる。‥‥ごめんね。置いていって、ごめんね」
「ごめ‥‥ッ、迎えに、行けなくて、た、助け、て、やれな、っ、くて‥‥ッ」




幾度だって思った。何度だって、気が狂うほどに、考えた。

もしもあの日、きちんと彼を迎えに行っていたら。
もしもあの日、彼が夜勤でなければ。
勉強会の資料作りが終わっていたら。迎えに行って、彼の好きな美味しいごはんを食べさせて、美味しいです、なんていわれて甘いキスをして、夜勤を終えた彼を家に連れ帰ってやっぱりご飯を食べさせて、お風呂に入って、甘い時間を過ごして。









そして、指輪を。
愛していると、ずっと、ずっと一緒に居ようと。誓いの、言葉を。

今もまだ、ずっと傍で。









「愛してる、フランシス。愛してる‥‥」
「マシュー、マシュー愛してるよ、愛してたんだ、本当に、愛して、た、‥‥っ!」

泣き続けるフランシスの背中を、渡せなかったはずの指輪を填めたマシューの手が撫でさする。
フランシスの指に填められた、先ほど彼がくれたばかりの自分の其れと、揃いの指輪。‥‥ああ、けれど。









今、本当はこの指を飾るべき指輪は、此れではないのだと。
既に死んでしまった青年は、悟る。



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